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対話9 マルクス読みのマルクス知らず

これは経済学徒の信仰心の告白ですね
https://twitter.com/awtjvyjz/status/1455421212633407490?s=20

ミンスキーが福祉を揶揄するように挑発めいたことをしたんですが、暴力というワードはちょっとやり過ぎでしたね。今見るとこのツイートも荒いし。

「暴力」でなく「力」とかならかなりよかったかも

フォースのない中立な場を想定するのはまさに経済学の思考で、これがマルクスを研究している「つもり」のこの人の信仰告白と言うのは正しいですね。

しかしそのような思考こそがマルクスが批判した経済学だというw

反経済学的思考だというのは松尾先生の意見なんですよね
数理マルクスとは

経済学的思考というのは、イングランド銀行のペーパーにあった、ロビンソン・クルーソーとマン・フライデーの交換経済が典型なんだ、と良く分かりました。

もうちょっと説明してみて?

ロビンソン・クルーソーとフライデーの取引には、相互が対等な取引をしてくれるだろうという期待が、暗黙の前提としてあります。
これは物々交換の説明ですが、イングランド銀行の解説ではこれを信用貨幣の説明につなげています。
信用貨幣の説明でも、この暗黙の前提は維持されたままです。

うん、ここでさ。
対等とか対等でないってどういうことだろう?、みたいなことをマルクスは考えるわけ。

たとえば、どうみても対等には見えないカップルがいても、当人はぜんぜん問題を感じていない、むしろ幸せ!みたいなね。

たとえば「あいつはDV亭主だ!」みたいな「価値判断」は、そもそも第三者がいないと出てこない。

つまり。

二者間の「価値」というものはそもそも意味をなさないわけ。

そうそう!自分の問題意識もそこです。
主観で対等と思っていても、客観的に見たら暴力的取引が行われていることだってあるわけです。
そうじゃないと、例えば、富めるものと貧しいものの間で格差が一方的に広がる力学が正当化されている理由が見つかりません。

経済学者が「価値」を測定するときに、その価値を決める経済学者自身の判断が入っているでしょう?っということなるわけ。

これは「観測問題」ですね。

「基本的には対等な取引」ということにしているのは、経済学者おまえじゃんwwwっていう。
(この発言はわたくしでなくマルクスさんの。。。)

しかもこれは恐ろしく傲慢な仮定だよね。

そういうことですね。

この人に「マルクスを読んだことあるんですか?」と聞いたことがあるのですが、もちろん読んだみたいですwww

いつも言うように、金ぴか本をいくら読んでもMMTはぜったいにわからない。
それと同じ話なんですよね。。。

うふふ。。。

というわけで、私かるちゃんも参加する新サイト「資本論を nyun とちゃんと読む!」は近日スタートです。

nyun のライフワークにするくらいのつもりで、これでもか!というくらい丁寧に一文づつ読んでいこうではありませんか。

マルクスは「ことば」の問題に取り組んでいるわけです。

さっそく最初の方にシェークスピアの引用がありますね。
戯曲「から騒ぎ」からの引用と言うことで。。。

あれはとても面白くて、それだけでいろいろ語れるのですが、いちばん注目すべきはマルクスがセリフを「改変」しているところです。

セリフを改変?

新サイトで詳しく読解しますが、もとの「運の賜」(the gift of fortune)を、マルクス
eine Gabe der Umstände
つまり「状況とか設定の賜」に変えています。

「価値」だって設定や状況によるってわけ。

なるほど

上の話と関連してそうですね

ですです。

マルクスって資本制生産様式という「設定」を問題にしているのだから、マルクス研究者がそこすっ飛ばしして『取引は基本的には「お互いが得をするもの」』なんていう「設定」からものを考えるとかありえない!

だいたい財政支出にいちいちいちいち国債が必要とかいう「設定」いるのかよ?
そもそも金利は剰余価値が姿を変えたものだろちゅうの!

わんわんわわんわんわ

スイッチが入った

しかたない、
黒柴にゃんが最初のページを特別公開するわん\(^o^)/

(この次のページ以降では驚きの展開が)

お楽しみに―


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