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某月某日雑談

私の見るところ, 数学的形式に対するスピノザの迷信は, 既に一つの眼眩ましであり, きわめて非哲学的なまやかし(幻想)です. 十五の定義と公理とを探求すると, エチカの第一部全体はひっくり返ってしまいます. そのような撒き砂は, どんな建物も, 紙づくりの建物ですら支えられません
(1785年10月28日付けのヤコービ宛書簡…ハーマン)

数学の確実性の全体は, その言葉, またその記述の本性に依存しています. しかしながら全ての証明において不可欠なことは, 物理的には不可能な形而上学的点, 線, 平面の詩的恣意について考えることです
(1785年2月11日付のシェフナー宛書簡…ハーマン)

数学に達するには, 神の顕現を待つしかない
(ノヴァーリス)

「数学は偏見を取り除くことはできない. 我執をおさえることも, 党派心をなだめることもできない. 数学には道徳的なことはいっさい何もできない」(ゲーテ『ゲーテ全集13』潮出版社, 邦訳299ページ)

「数学だけが確実なものだという話を聞くが, 数学は他のどの知識や行為よりも確実だというわけではない」(ゲーテ『ゲーテ全集13』潮出版社, 邦訳297ページ)

「数学は罪状の立証, 有罪の認定を目ざすものであるから, すぐれた頭脳は数学をおもしろく思わない」(ゲーテ『ゲーテ全集13』潮出版社, 邦訳300ページ)

おはよー

おはようございます(ノ´・ω・)ノ

おはようございます。 職場の人の家族に陽性者が出たらしく、検査に行ってきます ( ´・ω・`) 2年ぶり3回目

本人じゃなくて家族に陽性者って時点で、なのね

家族と濃厚接触者となってるスタッフとの濃厚接触者、らしいですわ。この検査で1度陽性反応出て、何もないまんまなんで信ぴょう性がイマイチですが。

上にある、数字に対するゲーテの言葉が滲みますね

ゲーテの時代から人って変わらないものなんだなぁ(´-ω-`)

ちょうどその頃から科学信仰が勃興し始めたんやね

これが面白くて

ハーマン→ヘルダー→ゲーテ

あ、「資本論をちゃんと読む」に初コメント\(^o^)/
引用

興味深い記事だと思いますが、一つ疑問があります。
それは石倉先生の「オリジナルの議論を、一貫したものと把握する」ということと、前の記事の石川先生の「マルクスを信用貨幣として読む」ことは真逆だということです。後者はマルクスの本意と離れて独自に解釈をしていると考えられます。
マルクスは信用貨幣についても述べていますが、1篇2章(岩波版だと第一巻165頁)に「金*は、それ自身の価値の大いさを、相対的に、他の商品で表現するほかない。それ自身の価値は、その生産に要した労働時間によって規定される。」(*貨幣としている版もある)と述べており、マルクス自身が資本論の体系において、労働価値説(商品貨幣論)と信用貨幣論という矛盾を抱えていると考えます。
これを矛盾のないように解釈するには、結局オリジナルをものを再構成して解釈し直すしかないと考えます。

これは岩井克人「貨幣論」に書かれている話で、ぜひそちらもご覧いただければ面白いと思います。

http://deficitowl.starfree.jp/blog/nyun/kapital/?p=270#comment-4

第一巻のS. 106

まったくの間違い,半分の間違い,四分の一の間違いを正しく区別し,精査し,それぞれに対応する真実を示すのは,至難の業である
(ゲーテ)

池戸と藤巻と経世済民の騒ぎを見て、ウンザリした。

偽りには,それに関していつまでも無駄話ができるという利点がある。しかし,真実はすぐに役立てられなくてはならない。そうでないなら,そこに真実はない
(ゲーテ)

めっちゃ噛み合ってる(笑

ガミガミガミガミ★

銀河をまたにかけ始めたか★

こんなのもある

綴りがおかしい(笑

カワイイのにMTTだから使えない
ちび助君が喜びそうw

近日公開ー

ふむ

「金は、それ自身の価値の大いさを、相対的に、他の商品で表現するほかない。それ自身の価値は、その生産に要した労働時間によって規定される。」

これを「労働価値説(商品貨幣論)」だ!というのは読者が勝手にやってくれていいのだけれど、それが「信用貨幣論」というのと矛盾するものであるという理屈はあるの? 「俺はそう思う」以外に

MMTerは別に誰もこれに反対しないと思うよね

Wie jede Ware kann das Geld seine eigne Wertgröße nur relativ in andren Waren ausdrücken. Sein eigner Wert ist bestimmt durch die zu seiner Produktion erheischte Arbeitszeit und drückt sich in dem Quantum jeder andren Ware aus, worin gleichviel Arbeitszeit geronnen ist.

なんだろうね、日本語空間の「信用貨幣論」信仰というか

マルクスも確かにKreditgeldという表現自体は使っていますけれど

MTT

逆におもろい

「以上に検討したように,『資本論』第1部でのマルクス貨幣論は,商品貨幣の前提に制約されながらも,貨幣を交換の媒介物としてしか見ない中立的貨幣観を克服して,一般的等価物としての社会的機能から生じる貨幣の形式的使用価値を含む枠組みに基づいて,商品の実現(「使用価値としての実現」と「価値としての実現」)としての販売(C-M)と「貨幣の使用価値の実現」としての購買(M-C)との非対称性を明らかにし,商品貨幣の貨幣的実現という独自の論点を提出した」
(石倉雅男『貨幣経済と資本蓄積の理論 第2版』大月書店,89ページ)

「商品貨幣の前提に制約されながらも」これがわからないけれど,こないだ知った草稿で、マルクスの戦略が自分にはクリアになりました

と言いますと?

何かを説明するにはその対象を限定しなければいけないわけで「制約された」というより自ら限定したわけでしょ

「『資本論』第1部の貨幣論では,「金を貨幣商品として前提におく」と註記されているとはいえ,第3章第3節「貨幣」では,各種の信用貨幣(credit money; 銀行券,手形,小切手,等々)が計算貨幣と決算手段として用いられている現実の金融システムにも言及されている」
(石倉雅男『貨幣経済と資本蓄積の理論 第2版』大月書店,85ページ)

なんでもいいんだよね、一般的等価形態を説明できれば。
その注記はどれだろう。

「簡単にするために,本書ではどこでも金を貨幣商品として前提する」(マルクス『資本論』第一巻,S. 109)
Ich setze überall in dieser Schrift, der Vereinfachung halber, Gold als die Geldware voraus.

この論文では、簡単のために、金を貨幣商品として想定している。
deepl翻訳だとこうなるらしい

注記と言うか章の冒頭やね

なんでもいいのだから、何か一つに決めないと説明しようがないわけでねえ

Geldの分析はその前の節まで終わっているのよ。それを前提にここでGoldを選んだってわけ。

なるほど

GeldとGold…似た単語を使って継続性と断続性を同時に訴える

あはは

次の箇所は翻訳どうなってる?

「金の第一の機能は,商品世界にその価値表現の材料を提供すること,または,諸商品価値を同名の大きさ,すなわち質的に同じで量的に比較の可能な大きさとして表わすことにある。こうして,金は諸価値の一般的尺度として機能し,ただこの機能によってのみ,金という独自な等価物商品はまず貨幣になるのである。/諸商品は,貨幣によって通約可能になるのではない。逆である。すべての商品が価値としては対象化された人間労働であり,したがって,それら自体として通約可能だからこそ,すべての商品は,自分たちの価値を同じ独自な一商品で共同に計ることができるのであり,また,そうすることによって,この独自な一商品を自分たちの共通な価値尺度すなわち貨幣に転化させることができるのである。価値尺度としての貨幣は,諸商品の内在的な価値尺度の,すなわち労働時間の,必然的な現象形態である」(マルクス『資本論』第一巻,S. 109, /は段落の変わり目)

どうもありがとう!

資本論の時代は紙幣の時代が始まったばかり、ということを考慮するべきなんでしょうね。

商品たちから一般的等価形態が脱皮してゴールドが代表に選ばれたのだけど、もう一度脱皮して紙幣になり、電子マネーになったわけだ。

そこまでちゃんと書けという方が無理な注文だよね。 意識に現れる記号であることが示せれば十分じゃないか。

「マルクスのみが例外的に時代の洗礼を逃れうるはずはない。どんなに優れた人物であっても,200年前に生まれたという時代の制約は免れない」
(田上孝一『マルクス哲学入門』社会評論社,10ページ)

だとしても、草稿に見え隠れする洞察の深さよ

資本論草稿…

「この日本のどこかには,知られていないだけで,国民生活の具体的な問題を解決しようと日々努力している人々がいる。「日本経済学」は,そういう人々の実践の中に必ず宿っていて,その命脈をまだ保っている。本書の主張が正しければ,そのはずである」
(中野剛志『日本経済学新論』ちくま新書,430ページ)

「国民経済学」

「なおあらかじめ,ヘーゲルが近代国民経済学の立場にたっている,ということだけは示しておこう。ヘーゲルは,労働を人間の本質として,自己を確証しつつある人間の本質としてとらえる。彼は労働の肯定的な側面を見るだけで,その否定的な側面を見ない。労働は,人間が外化の内部で,つまり外化された人間として,対自的になること[Fursichwerden]である。ヘーゲルがそれだけを知り承認している労働というものは,抽象的に精神的な労働である」
(マルクス『経済学・哲学草稿』岩波文庫,邦訳199-200ページ)


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