前回の対話に先行する、ある日の対話
今日は長女が友達からヤモリをもらって、おかえしにドジョウをあげるという取引をしていました。
ほうほう どんな展開だったかわかりますか?
ちょうどいま、物物交換にもIOUが働いているよねという文を書こうと思っていまして
友達が今日ヤモリを捕まえて、長女に「ヤモリいる?」と持ち掛けてきたそうです。
また、長女は以前からドジョウを飼っていることを友達に話しており「ドジョウ飼いたいな」と友達が言っていたのを覚えていたので、「代わりにドジョウをあげようか」と応じたそうです。
そして取引は成立しました。
なお友達は長女がトカゲ好きで飼育経験もあることも知っています。
よい!
そのへんの生き物は取っていくけれど、友達が持っているものは欲しくても取って行ったりしない
そうですね。
持っていくと良い気持ちがしないし、持って行かれた方も。
そうですね。
所有の概念?
そうですね。 交換がある社会では必ず所有が存在する。
所有されている物を持っていかれる人と持っていく人の感情は同じではなく対称的です。
持っていく人には i owe you という感情が、持っていかれる人には you owe i という感情が生まれる
姉弟間では頻繁に起こる問題ですね・・・
「○○ちゃんのなのに、勝手に使わんで!」「いいじゃんか!」というのはしょっちゅう
図をいくつか作ってみたのだけど
作り始めはこんな感じでした
三人の場合は。。。
こういうバランスもあります。
で、これをこう表現しようと
なるほど。
何かを受け取ると上に上がり、与えると下がる内心の状態を想定するのですね。
上や下はどちらでもいいのですが、与える側と受け取る側は対称なので符号を逆にする必要があるんです。
で、私たちはこの内心のIOUをゼロ近傍になっていないとなんだか不快になる。
交換がなぜ起こるかを考えるとこの説明が妥当と思うわけです。
なるほど
こういう感じですか。
おお
この図よいですね
このヤモリをもらったあとに、不安定な状態を解消しようと長女は「かわりにドジョウをあげようか」と提案したわけですね。
マネーの起源って「お返しをしたくなる気持ち」だと考えるのが本質的だと思うんですよね
reciprocity 、相互性、お互い様
reciprocity 、相互性というものを社会の本質的基盤と考えるのは社会学の定番。
私見ではその始まりはルソーやアダムスミスあたりで、教会の権威に代わる reciprocity という考えが台頭した、みたいな。
そう考えるとIOUは債務証書というよりは、モノやサービスを受け取った側が発行する受領書であると把握できるでしょう。長女がヤモリを受け取った時に受領書を発行して友人に渡す。
それを持っていた友人は、将来ヤモリ受け取ったよねという証拠を示すことでドジョウを受け取り、その時証拠は破棄される。
おぉ~
実際に商品貨幣は存在していたわけで、信用貨幣or商品貨幣の二者択一ではなく、もっと本質的なところを今考えているんですね
彼らは物々交換から商品貨幣が生まれた証拠がないと言いますが、内心の気持ちのやりとりは証拠に残らないから、考えるしかないですよね。
あとずっと言っていますが「貨幣は借用証書」であるという言い方は、IOUの「ありがとう(I owe you)」という感じが抜け落ちてしまいます。
「マネーは受領書であり、受領書から始まった」と言った方がいいじゃんと。
三人の場合を作ってみました。
これは「内心のIOU」のパルス表現。
これでもいいのだけど、社会が大きくなるに伴ってこの不安定を避けるため誰かの受領書がマネーになる。
マネーの素材は紙である必要もなく。
こうすればお互い便利ですし、日本社会の手形の発行と決済もこんな感じでした。
あと小切手や小為替もこんな感じですよね
reciprocity という語のもとになる形容詞 reciprocal という言葉はラテン語の reciprocus から来ていてbackこれは back(re)and forth (pro) という意味。
現実の「交換」って、たとえばIOUを発行しないで「内心のIOU」だけで済ませていたり、きっちり発行していていたり、あるいは別の現物を渡して済ませたり、他人のIOUを回していたり、通貨を使ったりいろいろなんですよね。
なるほど
ヤモリとドジョウはたまたま欲望の二重の一致があり、取引が成立しました。
だけど、内心のiouという概念を考えれば、その時にドジョウが無くても取引は成立するなと思って。
うん
友人は長女がそのことを覚えていてくれると思えば、ヤモリを手放すことは惜しくないというか
この筆者を含めてどうして学者はこんな議論をするのだろう?と思った
自分も、資本論を読む前はこれ読んで「ふーん」と思ったかもしれません
そもそも「貨幣の本質」なるものをを考えてからそれを現実に適用しようという知の姿勢がどうかしている
転倒している?
もっと大事なのは現実に行われている交換の分析ですよね。 貨幣論者はそれを忘れる
なるほど
「言うまでもなく教師たる者が自然の事物について述べるさいは、経験から原則へいたる道か、原則から経験へいたる道かのいずれかを選択しなければならない。といっても、この両方の方法を交互に用いてもかまわないし、それどころかそうすることが不可欠な場合も少なくない。ところがニュートンはまるで弁護士のように、両者を併用して述べるやりかたを自分の目的のために悪用し、実は最初に紹介し、導き出し、説明し、証明しなければならないものを既知のものとして片づけてしまい、さらには自分が一度述べておいたものにうわべだけ適合するような現象を膨大な現象のなかから選びだしてきたりする。」 (ゲーテ『色彩論』工作舎 p333)
ニュートンは光の本質(屈折率)から色彩を論じることができると考えたということですね。
交換に伴っている内心の心情こそは「最初に紹介し、導き出し、説明し、証明しなければならないもの」でなければならない。
ニュートンも経済学も自己弁護のためにデータや理論を利用している感じ。
清滝=ムーアはノーベル経済学賞候補と言われています
へぇ~
「不道徳があらゆる貨幣の根源」(“Evil is the root of all money”)という有名論文もあります
強烈なタイトルですね
こういう理論が日銀や年金が株や土地を買う行為を正当化するわけだ
この人の理論をもとにリーマンショック後にMBSを買って量的緩和したんですね
もちろん彼らの理論だけが根拠とは言わないでしょうけれど、こういうのが主流の考えではある。
長女ちゃんたちや、リンネルや小麦や聖書やウイスキーが交換されるところに evil はいるのでしょうか?
いないですよね。
家を失った人は保護されず路上に放り出されたのに、投資家は保護された、この事実を見れば彼らがevilだと思います。
そーですよ!
むしろ感謝のしるしとして相手に資産を与え自分に負債を課すわけで、IOUはサンキュー!という感じなわけです。
そうですね
自己弁護のためにデータや理論を利用している…どこぞの悪しき神学だ★
実は3人で会話していたのですね★
適宜切り貼りしているのです
なるほど