お久しぶりです。
この話が回ってきてsorataさんと某所で短い会話をしました。
人は何の対価を得るのか。一つは労働の対価。これは分かりやすい。生んだ価値に対応した報酬を受け取る。幾ら多くても価値を生んでれば違和感がない。一つは生存権に基づく保証。これも社会を安定させる仕組みの一つで納得できる。7000万円氏の問題なのは、この何れでもない何かで飯を食っていた。
— あんちゃん (@monosoi_akarusa) August 20, 2022
労働の対価はJGでそこを設定するとして、生存権に基づく保証にたいする対価ってMMTerのあいだで議論されてませんよね
うーん、どうだろ
>生存権の保証
(年齢や障害などで)働くことができない人、働く意思のない人に対して、JG賃金を下回る額で支給は必要ですよね?
その場合、支給は物価水準にどう影響するか?
が疑問なのです
果たしてそれはBIと区別がつくのか?
それがMMTerのあいだで議論されていないとは言えない、という立場をとってみます。
たとえば Levi の試算などでも healthcare や childcare はいつも含まれています。そうした社会保障について、彼らはむしろしょっちゅう語っているようにぼくには見えるんですよ。
あとはこうしたソーシャルケアの設計にかかっている。
ソーシャルケアを考えるということは、実は基本的生存権を考えるということと同じことのように思われてきます。
この金額はJG賃金を下回る必要はなくて、それはたとえば重い障害のある人の生活を考えるとすぐにわかると思います。そういう子供とか。
自分としてはスッキリしましたがどうでしょう(笑
働く気がない人はどうでしょう?
場合分けした方がいい…かな
上の、何もしなくても年収7000万円やその家族は放っておいて。
たとえばヤマギシズムのように社会と交わらずに自給自足したい集団もありえますね(労働はしています)。あと放浪の禅僧とか、そういう人を除くと問題は誰かが困っているときですね。
困っていて、自分または周囲の人によって社会的包摂が必要とみなされる人で、働きたくない人はソーシャルケアの対象になると思います。
すぐに思い浮かぶのは自閉症のひとたち。
自閉症に代表される発達障害者の就労支援をやっている人たちがいるのだけど、JGPってこれだよなって思うんですよね。
こういうの
https://tasuc.com/service/tryfull_lwc/
おまけの一言
なんかJGPというものを変に批判したり、わざわざそれをMMTから切り離そうとして独自路線を突っ走ろうとする人たち、いるじゃないですか。
彼らが現実の社会保障をまじめに考えているとはわたくしには見えない。上と重複するけれど、 政府に財政制約がないならば、ソーシャルケアを考えるということは、実は基本的生存権を考えるということと同じこと であり、反対に、基本的生存権を考えるということは、とりもなおさず基本的就労条件と社会保障の組み合わせを考えるしかないじゃん?