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<1-13> Betrachten wir nun das Residuum der Arbeitsprodukte. …

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〈1-13〉

Betrachten wir nun das Residuum der Arbeitsprodukte. Es ist nichts von ihnen übriggeblieben als dieselbe gespenstige Gegenständlichkeit, eine bloße Gallerte unterschiedsloser menschlicher Arbeit, d.h. der Verausgabung menschlicher Arbeitskraft ohne Rücksicht auf die Form ihrer Verausgabung. Diese Dinge stellen nur noch dar, daß in ihrer Produktion menschliche Arbeitskraft verausgabt, menschliche Arbeit aufgehäuft ist. Als Kristalle dieser ihnen gemeinschaftlichen Substanz sind sie Werte – Warenwerte.
 では、これらの労働生産物の残滓を検討しよう。それらに残っているものは、まぼろしのような、持続する(dieselbe)対象性(Gegenständlichkeit)だけであり、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出のただの凝固物のほかにはなにもない。この物体が表わしているのは、ただ、その生産に人間労働力が支出され、人間労働が積み上げられたということだけだ。こうした、これらに共通の社会的(gemeinschaftlichen実体の結晶として、それは価値─商品価値なのである。

Betrachten wir nun das Residuum der Arbeitsprodukte.
では、これらの労働生産物の残滓を検討しよう。

商品体から使用価値を捨象して観察して、残るのが「労働の生産物である」という属性だったのでした。だから「残滓」。

残滓とは?

ざんし、ざんさい、のこりかす。

海水から水分を蒸発させると塩の結晶が残るように、何かを取り除いた後に「残る方のもの」だね。

Es ist nichts von ihnen übriggeblieben als dieselbe gespenstige Gegenständlichkeit, eine bloße Gallerte unterschiedsloser menschlicher Arbeit, d.h. der Verausgabung menschlicher Arbeitskraft ohne Rücksicht auf die Form ihrer Verausgabung.
それらに残っているものは、まぼろしのような、持続する(dieselbe)対象性(Gegenständlichkeit)だけであり、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出のただの凝固物のほかにはなにもない。

Gegenständlichkeit、対象性

Gegenständlichkeit「対象性」という語はここで登場ワンね。
Gegenstand 「対象」は出てきていて、冒頭(〈1-4〉)の「外界の一対象」。

もう一か所あって、〈1-5〉の尺度の話のところ。
量を秤る「対象」にはいろいろあるから、尺度もいろいろあるよねという。

たとえば「長さ」だったら、モノサシ(尺度)だけ持っていても「対象」がなければ測定にならないワンね。

対象が認識されるからモノサシが生まれ、測定が成立するのであって、逆ではないよね。

なるほど

「意識の焦点」、しかも、形すらはっきりしない「漠然とした意識の焦点みたいなもの」。そういうのが Gegenstand 「対象」。

じゃあ Gegenständlichkeit「対象性」というのは?

うん。
商品という対象から、あらゆる使用価値を除いてみたら残るもの、ということだろうね。

こういうの知ってる?
この絵を30秒凝視してから目をつむる。

見つめるとキリストが現れる

髭のおじさんが現れた!

でもそれも徐々に消えていく。

消えていくね

けれど、それでも「それ」を見続けようと頑張ることはできる。
そのとき狙っている「それ」はもはや対象というより、対象性と言ったほうがぴったり来ない?

ああ、観察する側の努力が必要ワンね。

うん。
そして、そのとき商品の価格、一万円とか500円とかは消し去られていない。「商品」というものを考えている以上は。

そうワンね。
値札がないなら「商品」ではないわけだし、、、

あとそれは「使用価値」ではないからまだ捨象することができないワン。

というわけで、商品をこんな図でイメージしてみようというわけ。
形がないはずのものに形を与えているから「形容矛盾」なんだけどさ。

「まぼろしのような対象性」としての商品たちのイメージ

立ち現われ一元論、的な話

ここで大森荘蔵である。

われわれは何を「現実」だと呼んでいるのだろうか。それは何よりもまず自分自身の命にかかわることであろう。そしてそれとともにまた、自分の生きている状態とでもいえるもの、例えば苦痛や快楽、気分や感情とかである。否応なく自分の命と生にかかわるもの、それがわれわれの現実の核である。
 だから痛みには幻はありえないのである。激痛におそわれている人に向かって、君は今、痛みの幻覚におそわれているのであって本当は痛みなんてないんだよ、と言うことこそもっとも非現実的であろう。それと同様、悲しみや喜びや怒りにも幻はありえない。幻の賞金で喜ぶことはあっても、その喜び自体は幻ではありえない。ある妄想のため怒ることはあっても、その怒りは怒りの幻覚ではない。このように人間の生きることそものもである苦痛や感情に幻がありえないのと同様に、同じく生きることの核心である「さわる」ことにも幻はありえない。手で摑んで触れ、口で触れ、胃腸で触れるものが幻だということはありえない。そういうものこそわれわれが「現実」と呼んでいるものだからである。
 それに対して幽霊が幻だとされるのは、この人間の命の「現実」に疎遠だというがために過ぎない。この世に存在せぬ虚妄のものだからというのではない。幽霊はその傍らの柳の木と同様に存在したのである。「見えるが触れえぬもの」として存在したのである。それを幻と呼ぶのは、われわれが存在を二つに分類して「見えて触れうるもの」と「見えるが触れないもの」とに区分したからである。だから幻は不可触な存在ではあるが、虚妄の非在ではない。存在のこの区分は存在と非在との区分ではなく、われわれの生き死ににかかわるものと、かかわらぬものとへの分類なのである(もっとも幽霊に驚いて心臓マヒを起こすこともありうるが)。それによって現実と幻が区分けされ、真と偽とが区別される。だからこられの区別はきわめて人工的な区別、というよりもむしろ動物的な区別なのである。
区別は区別された両方のものが存在していなくてはその働きを失ってしまう。すべての人間が正気であり善人であれば、狂気と正気、善人と悪人の区別は無用となるように。だが時に人はこのことを忘れる。

大森荘蔵「流れとよどみ」(産業図書,3-5頁)(強調は nyun)

ここで大森は「幽霊」という存在を分析している。
幽霊は「見えるが触れないものという性質がある。

同じように商品には無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出が凝固したものとして値札が付いている。

という性質がある。

こういう空間的に等質な人間たちの、時間的に等質な支出の結果が凝固している。

「等質な人間たち」のイメージ

あと、dieselbe gespenstige Gegenständlichkeit を 「持続する続する(dieselbe)、まぼろしのような対象性」と訳したその心は?

それは次の個所の後で。

Diese Dinge stellen nur noch dar, daß in ihrer Produktion menschliche Arbeitskraft verausgabt, menschliche Arbeit aufgehäuft ist. Als Kristalle dieser ihnen gemeinschaftlichen Substanz sind sie Werte – Warenwerte.
この物体が表わしているのは、ただ、その生産に人間労働力が支出され、人間労働が積み上げられたということだけだ。こうした、それの社会的(gemeinschaftlichen実体の結晶として、それは価値─商品価値なのである。

直訳する感じだと、
「それらの物体は依然としてまだ次のことを表している。」
続けて、”次のこと”はすなわち
「その生産において人間労働力が支出され、人間労働が積み上げられてきたということ」
であると。

「使用価値を捨象しても、なお、まだ何かを表している」

それは「過去において、それに対して労働力の支出がなされた」ということだよね。

そりゃそうだ。今ではない。

というわけで、こういうことだよね。

共時的に等質な(gleich)人間労働力の、経時的に均等な(dasselbe)支出が結晶しているの図

人間たちってこんなことを頭の中でやっているのワンか!

すごいよねえ。。。

それでこの話だったワンね。

うん。こういう感じの図は使っていきたい。

というわけで次回予告。

〈1-14〉
Im Austauschverhältnis der Waren selbst erschien uns ihr Tauschwert als etwas von ihren Gebrauchswerten durchaus Unabhängiges. Abstrahiert man nun wirklich vom Gebrauchswert der Arbeitsprodukte, so erhält man ihren Wert, wie er eben bestimmt ward. Das Gemeinsame, was sich im Austauschverhältnis oder Tauschwert der Ware darstellt, ist also ihr Wert. Der Fortgang der Untersuchung wird uns zurückführen zum Tauschwert als der notwendigen Ausdrucksweise oder Erscheinungsform des Werts, welcher zunächst jedoch unabhängig von dieser Form zu betrachten ist.
上記の交換関係において、諸商品の交換価値は、使用価値とはまったくかかわりのない何かとしてわれわれの前に現れた。そこで労働生産物から使用価値を捨象してみたところ、その結果、いま上に規定したように、その価値が得られた。ゆえに、諸商品の交換関係および諸商品の交換価値のうちに現われた「共通のもの」は、商品の価値である。この研究がもう少し進んだあと、われわれは、価値の必然的な表現形式または現象形態としての交換価値に連れ戻されるであろう。しかしこの価値は、さしあたりはまずそうした形態にはかかわりなしに考察されなければならない。