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〈1-16〉Es könnte scheinen, daß, wenn der Wert einer Ware …

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〈1-16〉

Es könnte scheinen, daß, wenn der Wert einer Ware durch das während ihrer Produktion verausgabte Arbeitsquantum bestimmt ist, je fauler oder ungeschickter ein Mann, desto wertvoller seine Ware, weil er desto mehr Zeit zu ihrer Verfertigung braucht. Die Arbeit jedoch, welche die Substanz der Werte bildet, ist gleiche menschliche Arbeit, Verausgabung derselben menschlichen Arbeitskraft. Die gesamte Arbeitskraft der Gesellschaft, die sich in den Werten der Warenwelt darstellt, gilt hier als eine und dieselbe menschliche Arbeitskraft, obgleich sie aus zahllosen individuellen Arbeitskräften besteht. Jede dieser individuellen Arbeitskräfte ist dieselbe menschliche Arbeitskraft wie die andere, soweit sie den Charakter einer gesellschaftlichen Durchschnitts-Arbeitskraft besitzt und als solche gesellschaftliche Durchschnitts-Arbeitskraft wirkt, also in der Produktion einer Ware auch nur die im Durchschnitt notwendige oder gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit braucht. Gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit ist Arbeitszeit, erheischt, um irgendeinen Gebrauchswert mit den vorhandenen gesellschaftlich-normalen Produktionsbedingungen und dem gesellschaftlichen Durchschnittsgrad von Geschick und Intensität der Arbeit darzustellen. Nach der Einführung des Dampfwebstuhls in England z.B. genügte vielleicht halb so viel Arbeit als vorher, um ein gegebenes Quantum Garn in Gewebe zu verwandeln. Der englische Handweber brauchte zu dieser Verwandlung in der Tat nach wie vor dieselbe Arbeitszeit, aber das Produkt seiner individuellen Arbeitsstunde stellte jetzt nur noch eine halbe gesellschaftliche Arbeitsstunde dar und fiel daher auf die Hälfte seines frühern Werts.

最初に和訳を載せておくのやめたワンか?

うん。精読のときはそれでいいかなと思って。

さて、今回の個所はいっそう丁寧に読んでいこうと思います。
頭から訳していく方針で。

頭から?

その方がドイツ語を(ドイツ語で)読んでいる、という感じが出るので。

Es könnte scheinen, daß, wenn der Wert einer Ware durch das während ihrer Produktion verausgabte Arbeitsquantum bestimmt ist, je fauler oder ungeschickter ein Mann, desto wertvoller seine Ware, weil er desto mehr Zeit zu ihrer Verfertigung braucht.

Es könnte scheinen, daß,
この出だしは英語で言うと It might seem that…

「次のように思われるかもしれない」、でも違う、みたいな。

二人の宇宙人が、人間の言う諸商品の価値を調べているところを想像すると良いでしょう。
かしこい宇宙人Aは「社会の総労働という塊」というものがあって、それが商品に分割されているということに気づきました。
交換価値は労働時間で決まる!
これが前回の話。

ふむふむ

それを聞いた宇宙人Bは「でもサボる人間とか、遅い人間もいるから、、、」と考えた。そんなBにAが説明してしてあげているところ。
Bはこう考えていた

「ある商品の価値が、その生産に費やされる労働の数量値(Arbeitsquantum)によって決まるのであれば、怠け者や不器用な人など、その商品の製造にはより多くの時間が必要となるので、その商品の価値はより高くなるのでは、と。」

宇宙人AがBのこの疑問に答えていきます。

Die Arbeit jedoch, welche die Substanz der Werte bildet,

「この労働、価値の実体を構成する労働は、」

ist gleiche menschliche Arbeit, Verausgabung derselben menschlichen Arbeitskraft.

「相等しい(gleiche)人間の労働であり、人間労働力の一定の(dieselbe)支出なのである。」

この話ですね。

同じ力量を持つたくさんの人たちが、そろって一定出力で働き続けているイメージ。

それは全体として一つのものなんです。

Die gesamte Arbeitskraft der Gesellschaft, die sich in den Werten der Warenwelt darstellt,

「社会の労働力全体、商品世界の価値に表現されるそれは、」

gilt hier als eine und dieselbe menschliche Arbeitskraft, obgleich sie aus zahllosen individuellen Arbeitskräften besteht.

「ひとかたまりで(eine)なおかつ(und)一定出力の(dieselbe)人間労働力なのである。それは無数の個別労働力で構成されているのであるが。」

ここの dieselbe は「一定出力の」にしたのワンね。

時間当たりの出力が一定という感じが欲しいのです。
いちいち細かく見るとサボっている人、遅い人はいるけれど、全体としての仕事は淡々と進んでいる、みたいな。

翻訳のもう一つの工夫は「ひとかたまりで、なおかつ、一定出力の人間労働力」としたところです。

eine dieselbe … ではなくて eine und dieselbe … となっているのには理由があって、社会の労働力全体は「ひとかたまりの」巨大な力であり、それが一定出力で発揮されているということをマルクスは書いています。それが部分に分割される。

部分の合計が全体なのではなく、ひとつの全体が元素に分割される。この違い。

アリストテレスにしてもヘーゲルにしても「一」と「多」の違いって、問題の核心というか出発点なのですよね。
これについては詳しく別に書こうと思います。
gelten という動詞についても書かないと。

(商品世界では)X=Yという法則関係がある。
ここで
Xは「(価値に現れる)社会の労働力全体」
Yが「ひとかたまりで(eine)なおかつ(und)一定出力の(dieselbe)人間労働力」

社会の労働力はひとかたまりということですね。

「そういうことになっている」ということを賢い宇宙人Aは発見しました。
これは言葉の定義ではありません。科学的事実と言うべきでしょう。

で、gelten という動詞は「そういうことになっている」という意味です。

Jede dieser individuellen Arbeitskräfte ist dieselbe menschliche Arbeitskraft wie die andere,

「時間あたりの労働力が、どの人も変わらない、一定出力の人間労働力である。」

soweit sie den Charakter einer gesellschaftlichen Durchschnitts-Arbeitskraft besitzt

社会的に均等割された労働力

「それは社会的に均等割りされた労働力という性格をもち、」

ここは社会的平均労働ではなく、「均等割り」という訳語を選びました。
その事情は下の note に書いています。

und als solche gesellschaftliche Durchschnitts-Arbeitskraft wirkt,

「社会的に均等割りされた労働力として機能するのだから、」

also in der Produktion einer Ware auch nur die im Durchschnitt notwendige oder gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit braucht.

「ある一つの商品の生産に必要ということになるのは、平均として求められる、社会的な均等割りで必須になる労働時間だけなのだ。」

具体的なあるものを実際に製造したのが怠け者や不器用な人かどうかは関係がない。

gleichgültig

え?

「まったく無関係だ」という意味のドイツ語で、資本論だと次の節で出てくるのかな。
gleich(同じ)-gelten (とうことになっている)という意味からの形容詞表現ですが、ものすごく大事な言葉なのでそのうち書きますね。

Gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit ist Arbeitszeit, erheischt, um irgendeinen Gebrauchswert mit den vorhandenen gesellschaftlich-normalen Produktionsbedingungen und dem gesellschaftlichen Durchschnittsgrad von Geschick und Intensität der Arbeit darzustellen.

「社会的に求められる労働時間であるが、これは、何らかの使用価値を、現存する社会的に正常な生産条件と、社会的に平均的な熟練度と強度でもって表す(darstellen)ところの労働時間である。」

使用価値を時間で表す。

商品世界ではそういうことになっている。

Nach der Einführung des Dampfwebstuhls in England z.B. genügte vielleicht halb so viel Arbeit als vorher, um ein gegebenes Quantum Garn in Gewebe zu verwandeln. Der englische Handweber brauchte zu dieser Verwandlung in der Tat nach wie vor dieselbe Arbeitszeit, aber das Produkt seiner individuellen Arbeitsstunde stellte jetzt nur noch eine halbe gesellschaftliche Arbeitsstunde dar und fiel daher auf die Hälfte seines frühern Werts.

「たとえば、イギリスで蒸気織機が導入された後、ある特定の数量値(Quantum)の糸を織物に変えるのに必要な労働時間は、それ以前の約半分になった。イギリスの織工たちは、糸を織物に加工するために以前と同じ(dieselbe)労働時間を要したが、彼の一時間あたりの労働の生産物は、今や社会的労働時間の半分を表す(darstellen)に過ぎず、したがって、価値は以前の半分である。」

ここも note に書いた箇所ですね。

(次回)

〈1-17
<54> Es ist also nur das Quantum gesellschaftlich notwendiger Arbeit oder die zur Herstellung eines Gebrauchswerts gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit, welche seine Wertgröße bestimmt (9). Die einzelne Ware gilt hier überhaupt als Durchschnittsexemplar ihrer Art (10). Waren, worin gleich große Arbeitsquanta enthalten sind oder die in derselben Arbeitszeit hergestellt werden können, haben daher dieselbe Wertgröße. Der Wert einer Ware verhält sich zum Wert jeder andren Ware wie die zur Produktion der einen notwendige Arbeitszeit zu der für die Produktion der andren notwendigen Arbeitszeit. “Als Werte sind alle Waren nur bestimmte Maße festgeronnener Arbeitszeit.”(11)

(9) Note zur 2. Ausg. “The value of them (the necessaries of life) when they are exchagend the one for another, is regulated by the quantity of labour necessarily required, and commonly taken in producing them.” “Der Wert von Gebrauchsgegenständen, sobald sie gegeneinander ausgetauscht werden, ist bestimmt durch das Quantum der zu ihrer Produktion notwendig erheischten und gewöhnlich angewandten Arbeit.” (“Some Thoughts on the Interest of Money in general, and particularly in the Public funds etc.”, London, p. 36, 37.) Diese merkwürdige anonyme Schrift des vorigen Jahrhunderts trägt kein Datum. Es geht jedoch aus ihrem Inhalt hervor, daß sie unter Georg II., etwa 1739 oder 1740, erschienen ist.
(10) “Alle Erzeugnisse der gleichen Art bilden eigentlich nur eine Masse, deren Preis allgemein und ohne Rücksicht auf die besonderen Umstände bestimmt wird.”
(11) K. Marx, l.c.p.6. <Siehe Band 13, S. 18>

〈1-15〉Ein Gebrauchswert oder Gut hat also nur einen Wert, …

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〈1-15〉

Ein Gebrauchswert oder Gut hat also nur einen Wert, weil abstrakt menschliche Arbeit in ihm vergegenständlicht oder materialisiert ist. Wie nun die Größe seines Werts messen? Durch das Quantum der in ihm enthaltenen “wertbildenden Substanz”, der Arbeit. Die Quantität der Arbeit selbst mißt sich an ihrer Zeitdauer, und die Arbeitszeit besitzt wieder ihren Maßstab an bestimmten Zeitteilen, wie Stunde, Tag usw.
このように、ある一つの使用価値または財の価値はただ一つの値を持つ。それはそこに抽象的な人間労働が対象化され、物質化されているからである。では、その価値の大いさ(Größe)はどのように測られるのだろうか。それは、それらの中に含まれる「価値形成の実体」である労働の、その数量値(Quantum)を通じてである。労働の量(Quantität)は、その経過時間で比較されるが、労働時間もまた、一時間、一日など、ある特定の幅の度量標準を持っている。

この個所に関連して、文章を note で二回に分けで書きました。

Ein Gebrauchswert oder Gut hat also nur einen Wert, weil abstrakt menschliche Arbeit in ihm vergegenständlicht oder materialisiert ist.
このように、ある一つの使用価値または財の価値はただ一つの値を持つ。それはそこに抽象的な人間労働が対象化され、物質化されているからである。

これのことワンね。↓

それを読んで、ABC予想を証明した日本人の紹介をしていたNHKのこの映像を思い出しました。

よろしく!

よろしく!じゃないですよ!

ん?

あなたが両方の意味に取れる書き方をしたせいで後世に誤解を残したと思いますね。

上のブログ記事の表を再掲しましょう。
これらの翻訳(翻訳者)は大事なところを訳し損ねていて、これでは論理的つながりが読み取れません。

うーむ、言われてみたらそうじゃな。。。

労働が対象化するから、それゆえに商品は価値を持つ。それ以外の理由はない!という感じで読める。

その意味を間違いだとはいわないけど、不満。

少なくとも、ぜんぜん集合論ぽくはないですね。

フランス語版ではどうなっていましたか?

et une valeur d’usage, ou un articlequelconque, n’a une valeur qu’autant que du travail humain estmatérialisé en lui. 

une valeur になっているから大丈夫。

英語や日本語のある意味いい加減さが祟った感じだ。

フランス語版はワシも直接しっかり見てやったのじゃ!

先へ行くぞ!

Wie nun die Größe seines Werts messen? Durch das Quantum der in ihm enthaltenen “wertbildenden Substanz”, der Arbeit. Die Quantität der Arbeit selbst mißt sich an ihrer Zeitdauer, und die Arbeitszeit besitzt wieder ihren Maßstab an bestimmten Zeitteilen, wie Stunde, Tag usw.
では、その価値の大いさ(Größe)はどのように測られるのだろうか。それは、それらの中に含まれる「価値形成の実体」である労働の、その数量値(Quantum)を通じてである。労働の量(Quantität)は、その経過時間で比較されるが、労働時間もまた、一時間、一日など、ある特定の幅の度量標準を持っている。

にゅんさんの記事はこちらですね

はい。
そちらに書いた通り、ここでは今後 Quantumを「数量値」と訳します。

今だったら quantum は「量子」ワンね。「量子コンピュータ」とか「量子力学」とかの。

最小単位、みたいな意味になっているね。

カントはGröße(大きさ)をquantumとquantitasに分けたと書かれていましたが、マルクスは quantumだけを使ってquantitasを使っていないんですね。

両者の quantum は意味が違ってカントのは数になる前の大きさなんですよね。
一方マルクスのそれはハッキリ「数」という記号表現という感じです。

とにかくここは、論理というか言葉がヘーゲルの論理学の話の継承になっていうことがあからさまに現れている個所で、Größe 、Quantum、Quantität、さらには Maßstabという言葉から誰でもピンときます(ヘーゲルを知っていれば)。

どんな話ワンか?

ええとね、

「〇〇がある」とか「〇〇がない」とはどういうことだろうか。
それをどうして人間は知ることができるのか?

ええーそんな話なの?

ドイツ語にしても英語にしても西洋の人間の言語って基本的に主語が「ある」でしょう?
言語がそうなっているということは、思考がそうなっていいるから哲学の始まりは存在論になるのだろう。

「犬が歩く」の前提に犬の存在があるじゃんみたいな

うんそれで行こう。
「犬が歩いているね」という言葉が通じるからには犬の存在は共通の理解になっているけれども、犬という存在には質的側面と量的側面があるよね。

資本論もそういう話というご説明でしたね。

これで言うと、交換価値(価格)は使用価値が捨象されていましたね。
使用価値は商品の質的側面で、価格は量的な側面ですが、この両者は全く違う。

質と量がどのように違うか(もしくは関係しているか)について、ヘーゲルは「質は存在の最初の規定態であり、量は存在に無関心(gleichgültig)な規定態である」と論じます。
これ、よくよく考えてみると確かにそうなんですよね。

うー難しいワン

量と質はどのようにリンクするか(関係するか)。
だから上の note で書いた通り、資本論って集合論、写像の話だよねというわけ。

なるほど

まあその辺は資本論の続きを読みながらゆっくりやろう。

いまのところは資本論での Größe、Quantum、Quantität、Maßstab という単語の使い方の下敷きにはヘーゲルがいるんだなと理解してください。

その上でQuantumをワタクシは「数量値」と訳すことにします。

それはわかったワン

じゃあもう一度本文を読んで

ワシ?

Wie nun die Größe seines Werts messen? Durch das Quantum der in ihm enthaltenen “wertbildenden Substanz”, der Arbeit. Die Quantität der Arbeit selbst mißt sich an ihrer Zeitdauer, und die Arbeitszeit besitzt wieder ihren Maßstab an bestimmten Zeitteilen, wie Stunde, Tag usw.
では、その価値の大いさ(Größe)はどのように測られるのだろうか。それは、それらの中に含まれる「価値形成の実体」である労働の、その数量値(Quantum)を通じてである。労働の量(Quantität)は、その経過時間で比較されるが、労働時間もまた、一時間、一日など、ある特定の幅の度量標準を持っている。

もし現代の人がここだけを読まされたら、多くの人は「ああ古い労働価値説ね」とばかりに、それ以外の価格理論、たとえば効用価値とか需要と供給の均衡とかの限界的なところで価格は決まるんじゃないの?と感じてしまうと思う。

うんうん

実はぼくもそう思っていた!
資本論を実際に読むまでは。

そうなのか!

うん。
ヘーゲルを背景に資本論を読んでいくと、この論理は否定しようがないぞ!ってなるし、限界理論や均衡理論には決定的な欠落があるじゃんと思うようになった。

そのへんはまたおいおい。

じゃあ次回予告。

〈1-16〉
Es könnte scheinen, daß, wenn der Wert einer Ware durch das während ihrer Produktion verausgabte Arbeitsquantum bestimmt ist, je fauler oder ungeschickter ein Mann, desto wertvoller seine Ware, weil er desto mehr Zeit zu ihrer Verfertigung braucht. Die Arbeit jedoch, welche die Substanz der Werte bildet, ist gleiche menschliche Arbeit, Verausgabung derselben menschlichen Arbeitskraft. Die gesamte Arbeitskraft der Gesellschaft, die sich in den Werten der Warenwelt darstellt, gilt hier als eine und dieselbe menschliche Arbeitskraft, obgleich sie aus zahllosen individuellen Arbeitskräften besteht. Jede dieser individuellen Arbeitskräfte ist dieselbe menschliche Arbeitskraft wie die andere, soweit sie den Charakter einer gesellschaftlichen Durchschnitts-Arbeitskraft besitzt und als solche gesellschaftliche Durchschnitts-Arbeitskraft wirkt, also in der Produktion einer Ware auch nur die im Durchschnitt notwendige oder gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit braucht. Gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit ist Arbeitszeit, erheischt, um irgendeinen Gebrauchswert mit den vorhandenen gesellschaftlich-normalen Produktionsbedingungen und dem gesellschaftlichen Durchschnittsgrad von Geschick und Intensität der Arbeit darzustellen. Nach der Einführung des Dampfwebstuhls in England z.B. genügte vielleicht halb so viel Arbeit als vorher, um ein gegebenes Quantum Garn in Gewebe zu verwandeln. Der englische Handweber brauchte zu dieser Verwandlung in der Tat nach wie vor dieselbe Arbeitszeit, aber das Produkt seiner individuellen Arbeitsstunde stellte jetzt nur noch eine halbe gesellschaftliche Arbeitsstunde dar und fiel daher auf die Hälfte seines frühern Werts.

すると次のように受け取ってしまうこともあるだろう。つまり、ある商品の価値が、その生産に費やされる労働の数量値(Arbeitsquantum)によって決まるのであれば、怠け者や不器用な人など、その商品の製造にはより多くの時間が必要となるので、その商品の価値はより高くなるのでは、と。ところが(先に述べた)価値の実体を形成する労働は、相等しい(gleiche)人間労働であり、一定の(derselben)人間労働力の支出なのである。商品世界の価値に表れる限りの社会全体の労働力は、無数の個々の労働力から構成されるが、ここで適用されるのは、ある一定の(dieselbe)人間労働力である。これら個々の労働力は、平均的な社会的労働力の性格を持ち、平均的、社会的労働力として作用する限りにおいて、その他の労働力と同じ(dieselbe)人間的労働力である。すなわち、商品を生み出すのに必要とされるのは、平均的もしくは社会的に必要な労働時間だけである。この社会的に必要な労働時間であるが、これは、ある使用価値を生産する場合に、現存する社会的に正常な生産条件と、社会的に平均的な熟練度と強度と適用した時の労働時間である。たとえば、イギリスで蒸気織機が導入された後、ある特定の数量値(Quantum)の糸を織物に変えるのに必要な労働時間は、それ以前の約半分になった。イギリスの織工たちは、糸を織物に加工するために以前と同じ(dieselbe)労働時間を要としたが、彼の個人的労働時間の生産物は、今や社会的労働時間の半分にしか相当せず、したがって、価値は以前の半分である。

〈1-14〉Im Austauschverhältnis der Waren selbst erschien uns …

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〈1-14〉

Im Austauschverhältnis der Waren selbst erschien uns ihr Tauschwert als etwas von ihren Gebrauchswerten durchaus Unabhängiges. Abstrahiert man nun wirklich vom Gebrauchswert der Arbeitsprodukte, so erhält man ihren Wert, wie er eben bestimmt ward. Das Gemeinsame, was sich im Austauschverhältnis oder Tauschwert der Ware darstellt, ist also ihr Wert. Der Fortgang der Untersuchung wird uns zurückführen zum Tauschwert als der notwendigen Ausdrucksweise oder Erscheinungsform des Werts, welcher zunächst jedoch unabhängig von dieser Form zu betrachten ist.上記の交換関係において、諸商品の交換価値は、使用価値とはまったくかかわりのない何かとしてわれわれの前に現れた。そこで労働生産物から使用価値を捨象してみたところ、その結果、いま上に規定したように、その価値が得られた。ゆえに、諸商品の交換関係および諸商品の交換価値のうちに表されている「共通のもの」は、商品の価値である。この研究がもう少し進んだあと、われわれは、価値の必然的な表現形式または現象形態としての交換価値に連れ戻されるであろう。しかしこの価値は、さしあたりはまずそうした形態にはかかわりなしに考察されなければならない。

直前までの論述を、改めてまとめている感じです。

Im Austauschverhältnis der Waren selbst erschien uns ihr Tauschwert als etwas von ihren Gebrauchswerten durchaus Unabhängiges.
上記の交換関係において、諸商品の交換価値は、使用価値とはまったくかかわりのない何かとしてわれわれの前に現れた。

ふむふむ

Im って何でしたっけ?

In dem (英語の in the)の省略形です。つまり先に書かれている Austauschverhältnis der Waren、商品の交換関係の話だとピンときます。

〈1-8〉や〈1-9〉あたりの下の式で表せる「関係」ワンね。

右と左が等置されているということは、両者に「共通なもの」(ein Gemeinsames)が存在しているよね!というわけでした。
そして…

Abstrahiert man nun wirklich vom Gebrauchswert der Arbeitsprodukte, so erhält man ihren Wert, wie er eben bestimmt ward.
そこで労働生産物から使用価値を捨象してみたところ、その結果、いま上に規定したように、その価値が得られた

「上で規定した」とは前の段落〈1-13〉ワンね。

Das Gemeinsame, was sich im Austauschverhältnis oder Tauschwert der Ware darstellt, ist also ihr Wert.
ゆえに、諸商品の交換関係および諸商品の交換価値のうちに表されている「共通のもの」は、商品の価値である。

Das Gemeinsame 、これも定冠詞付きの「共通のもの」だから上で論じたソレということワンね。

ここはとても好きな(大事な)箇所なので、ぼくも図でまとめてみよう。

諸商品の交換関係、たとえば「1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄」という等式はどのような事態を表しているのか。

言い換えれば、「1クォーターの小麦商品はaツェントナーの鉄商品と等価値であり」とわれわれが言うとき、それは何を表しているのか?

三角形①と三角形②でまず描いてみます。
「三角形①と三角形②の面積は等しい」と誰かが言う。
これはどういうこと?

〈1-10〉の三角形の比喩

”このことは簡単な幾何学の実例で考えると明瞭になる。多数の直線で囲まれている図形の面積を計算し比較するために、それはいくつもの三角形に分割される。三角形は、その目に見える形とはまったく異なる表現─その底辺と高さの積の2分の1─に還元される。同じように、商品たちの交換価値も、その多寡を表すある「共通なもの」(Gemeinsames)に還元されるのである。”

宇宙人には「①と②ハ、メンセキガヒトシイ」の意味がなかなか分からない可能性があります。

宇宙人には面積とは何か、というところから説明しないといけなくなりますね。

商品を交換している私たちは、「等しい」とか「見合う」とか納得して取引していても、何かを捨象しているのは意識していなくて、無意識的ですね。

尺度は、その性質が有用であるから公認されるのだけれども、たとえば身体の大きさを任意に変えられる宇宙人には面積、広さの意味はわからないのでは。

ピダハンもそうじゃないかなあ。(今はともかく)

そもそも分からない

三角形の面積とは底辺×高さ÷2という操作の結果であるというルールであれば、高度な知性体ならばいつか理解可能かもしれません。

われわれのようにはわかっていなくても、同じ操作はできるようになるでしょう。
コンピュータと一緒です。

そこで「底辺×高さ÷2」という形式に還元します。

この計算結果が等しければ、人々は「面積は等しい」と言う。
これだったらどうだろう。

操作に還元

If
 「底辺×高さ÷2の計算結果が等しい(等しくない)」
then
 「面積が等しい(等しくない)」

同じように…

おお

んーつまりこういうことワンね。
人間は、商品を抽象的人間労働の量に還元して比較して、それが等しい時に「価値が等しい」と言っている。

論理の順番としては、まず等置関係が成り立っていることから、「共通のもの」が必ず存在するということが示され、次に、使用価値を捨象することによって労働生産物の価値が得られた。
従って「共通のもの」は価値以外にあり得ないよねということが論証されたというわけだ。

うーむ
「労働の量を表すのが価値である。従って、価値が同じならば労働の量は等しい」
みたいな話ではなくて、
「価値が等しい(異なる)という言葉は、労働の量が等しい(異なる)という意味」
みたいな感じワンね。
この二つはまるで違う。

マルクスの話を前者のように誤解している人は多いように思われるけれど。

私も前者のように言ってしまいそう

「マルクスの労働価値説」の論理って、労働を神聖視するところからスタートしているかのように誤解されていることが多いように思うのだけど、価格と労働の量の関係は論理の前提ではなくて、人間たちが「価値が同じと言っている事態」の分析の結果なんだよね。

分析哲学。

すごくそう思います。
ちょうど先日分析哲学の専門家の方がこんな note を書いていらっしゃいました。

時間は価格にどうかかわるワンか?

それは利子とか利潤や資本の蓄積に関わる大テーマなので、本文を読みながら考えていくことになるけれど、さしあたりは前回の図で。

たとえばですが、過去において商品の生産にどれだけ労働力が投入されたとしても、現時点の新技術をもってすれば労働力はだいぶ少なくて済むという場合に、価格は新技術を基準に再設定されていきまね。

この図の「過去」は、今の時点の技術を基準に「制作される過去」というべきでしょう。

売られる商品には商標や価格表示はなく、規格化も包装もされていない。従って買い物には常に危険がともない、買い手は警戒してかからねばならなかった。何を買うにしても、価格は売り手と買い手との間の駆け引きで決まった。やっと値段が決まってからも、いざ支払う段になると、またぞろいざこざが起こりかねない。
(モリ―・ハリソン「買い物の社会史」らぶりあ選書法政大学出版局)

イギリスで値段をあらかじめ設定した商売が始まったのは18世紀半ばのことでした。

現代でも値段はあって無いようなものだと思うことはあって。
洋服や靴などは新作の時の値段と、バーゲン時期の値段が全然違うので。

春に気に入って買った靴が、最近セールで安くなってて。
セール時期には欲しい色とかサイズが無かったりするので、セール時期まで待つのはそれはそれで賭けなんですけど。

だから今も駆け引きはあるワンね

そこでも一貫して基準になるのは、同じものが今の技術をもってするとどのくらいの労働で生産できるか、であるはず。

Der Fortgang der Untersuchung wird uns zurückführen zum Tauschwert als der notwendigen Ausdrucksweise oder Erscheinungsform des Werts, welcher zunächst jedoch unabhängig von dieser Form zu betrachten ist.
この研究がもう少し進んだあと、われわれは、価値の必然的な表現形式または現象形態としての交換価値に連れ戻されるであろう。しかしこの価値は、さしあたりはまずそうした形態にはかかわりなしに考察されなければならない。

(次回)

〈1-15〉
Ein Gebrauchswert oder Gut hat also nur einen Wert, weil abstrakt menschliche Arbeit in ihm vergegenständlicht oder materialisiert ist. Wie nun die Größe seines Werts messen? Durch das Quantum der in ihm enthaltenen “wertbildenden Substanz”, der Arbeit. Die Quantität der Arbeit selbst mißt sich an ihrer Zeitdauer, und die Arbeitszeit besitzt wieder ihren Maßstab an bestimmten Zeitteilen, wie Stunde, Tag usw.
ある使用価値ないし財は、ただ一つの価値だけを持つ。なぜなら抽象的な人間の労働がその中に対象化、物質化されるからだ。では、その価値の大きさはどのように測られるのだろうか。それは、それらの中に含まれる「価値形成物質」である労働の量によるのである。労働の量は、その経過時間で比較されるが、労働時間もまた、一時間、一日など、ある特定の幅の度量標準を持っている。