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〈1-6〉 Die Nützlichkeit eines Dings macht es zum Gebrauchswert … 交換価値が登場!

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〈1-6〉

Die Nützlichkeit eines Dings macht es zum Gebrauchswert (4). Aber diese Nützlichkeit schwebt nicht in der Luft. Durch die Eigenschaften des Warenkörpers bedingt, existiert sie nicht ohne denselben. Der Warenkörper selbst, wie Eisen, Weizen, Diamant usw., ist daher ein Gebrauchswert oder Gut. Dieser sein Charakter hängt nicht davon ab, ob die Aneignung seiner Gebrauchseigenschaften dem Menschen viel oder wenig Arbeit kostet. Bei Betrachtung der Gebrauchswerte wird stets ihre quantitative Bestimmtheit vorausgesetzt, wie Dutzend Uhren, Elle Leinwand, Tonne Eisen usw. Die Gebrauchswerte der Waren liefern das Material einer eignen Disziplin, der Warenkunde (5). Der Gebrauchswert verwirklicht sich nur im Gebrauch oder der Konsumtion. Gebrauchswerte bilden den stofflichen Inhalt des Reichtums, welches immer seine gesellschaftliche Form sei. In der von uns zu betrachtenden Gesellschaftsform bilden sie zugleich die stofflichen Träger des – Tauschwerts.
(4) “Der natürliche worth jedes Dinges besteht in seiner Eignung, die notwendigen Bedürfnisse zu befriedigen oder den Annehmlichkeiten des menschlichen Lebens zu dienen.” (John Locke, “Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest”, 1691, in “Works”, edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.) Im 17. Jahrhundert finden wir noch häufig bei englischen Schriftstellen “Worth” für Gebrauchswert und “Value” für Tauschwert, ganz im Geist einer Sprache, die es liebt, die unmittelbare Sache germanisch und die reflektierte Sache romanisch auszudrücken.
(5) In der bürgerlichen Gesellschaft herrscht die fictio juris, daß jeder Mensch als Warenkäufer eine enzyklopädische Warenkenntnis besitzt.

物体が使用価値になるのはその有用性によってである(四)。但しこの有用性は宙に浮かんでいるのではない。この有用性は、商品体(Warenkörper)の諸性質を前提としており、商品体なしには存在するものではない。それゆえ、鉄や小麦やダイヤモンドなどという商品体そのものが使用価値または財である。商品体のこのような性格は、その使用に資する諸性質の取得が人間に費やさせるところの労働の多少にはかかわりがない。使用価値を考察する際には、一ダースの時計とか一エレの亜麻布とカ一トンの鉄などのような、その量的な規定性が常に前提とされている。諸々の商品の諸々の使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する(五)。諸々の使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。諸々の使用価値は、富の社会的な形式がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。我々によって考察されねばならない社会形式においては、諸々の使用価値は同時に、素材的な担い手になっている。交換価値の担い手に。
*(四)「諸物の自然的な価値(natural worth)は、さまざまな欲望を満足させたり人間の生活に役立つなどの適性にある。」(ジョン・ロック, “利子引き下げがもたらす帰結についての諸考察(Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest)”, 1691, in “Works”, edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.)
17世紀になっても英語の文章にはしばしば、Worthを使用価値、Valueを交換価値として表している例がしばしば登場するが、これはまったく、直接的な事柄をゲルマン語で表現し、反射された事柄をローマ語で表現することを好む言語の精神によるものである。
*(五)ブルジョア社会では、商品の買い手であるすべての人が、商品に関する百科全書的な知識を持っているという法的擬制(fictio juris)が当然のこととなっている。

このパラグラフは一見散漫だけれども、最後、交換価値を提示してその特別さをアピールする箇所として読むと唸らされるものがあります。

三番目の文
商品体のこのような性格(使用価値に資する諸性質)は、その使用に資する諸性質の取得が人間に費やさせるところの労働の多少にはかかわりがない。
を取り上げると、交換価値と使用価値のはっきりしたコントラストが描かれています。

なるほどワン

これでないと価格も「長さ」や「おいしさ」のような諸性質に埋もれてしまう。
こんなふうに。

そうじゃなくて、こうだよ↓↓ ということを縷々語っているわけですね。

使用価値にかかわる有用性、つまり人間の欲望を満たす性質は、その商品体(Warenkörper)が手元に存在すれば発揮することができます。

an sich に存在しているワンね。。。

そうかあ、価格という性質だけは、確かに欲望を満たすと言えないこともないけれど(売れれば)、商品体がそこにあるかどうかとは全く関係がない…

そうそう、すばらしい!

やった\(^o^)/

使用価値の諸性質は an sich sein だけど、価格はハッキリそうではない。

そして、使用価値の方の話が続きます。

使用価値を考察する際は、一ダースの時計とか一エレの亜麻布とカ一トンの鉄などのような、その量的な規定性が常に前提とされている。

前回やった段落の話ワンね。
商品は「人間に役立つ諸性質(量・質・規定)の集まった一全体」。

よっしゃ、次の文行こう。

諸々の商品の諸々の使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する(五)
*(五)ブルジョア社会では、商品の買い手であるすべての人が、商品に関する百科全書的な(enzyklopädische)知識を持っているという法的擬制(fictio juris)が当然のこととなっている。」

商品学って何だろう

今回ちょっと調べてみたんだよね!

同志社大学で長年商品学の教鞭をとられた岩下正弘先生の論文を拝読しました。

岩下正弘「商品学の学史的考察」『同志社商学』第20巻第3・4号、1969年

これによると

彼(Lidovici)は「商品学(Warenkunde)」とは商品知識(Warenkenntniss)とも言い、商人学の第一部門を占め、商人が商品に関して知るべき諸事項を教える。」として商品学の構成の内容を … 次のように示している。

こういう学問があるんだ!

植民地貿易をはじめとした海外貿易が発展した時代は、特にこういうのが求められたのだろうね。

マルクスさんの注記も手厳しいワンね。

次行くね。

諸々の使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。諸々の使用価値は、富の社会的な形式がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。

これは使用価値だけの特徴であると。

交換価値はそうではない。
確かに「使用または消費」で実現するものではないワン。

我々によって考察されねばならない社会形式においては、諸々の使用価値は同時に、素材的な担い手(Träger )になっている。交換価値の担い手に。

最後の一言がかっこいい。
日本語だとちょっと間抜けなんだけど。

Tauschwert(交換価値)という言葉はタイトルも含めてここで初めて出てくるワンね。

そうそう。

次回はこちら。
いよいよバーボンの論にも矛先が向かいます。

〈1-7〉
Der Tauschwert erscheint zunächst als das quantitative Verhältnis, die Proportion, worin sich Gebrauchswerte einer Art gegen Gebrauchswerte anderer Art austauschen (6), ein Verhältnis, das beständig mit Zeit und Ort wechselt. Der Tauschwert scheint daher etwas Zufälliges und rein Rela- <51> tives, ein der Ware innerlicher, immanenter Tauschwert (valeur intrinsèque) also eine contradictio in adjecto (7). Betrachten wir die Sache näher.
(6) “Der Wert besteht in dem Tauschverhältnis, das zwischen einem Ding und einem anderen, zwischen der Menge eines Erzeugnisses und der eines anderen besteht.” (Le Trosne, “De l’Intérêt Social”, [in] “Physiocrates”, éd. Daire, Paris 1846, p. 889.) 
(7) “Nichts kann einen inneren Tauschwert haben” (N. Barbon, l.c.p. 6), oder wie Butler sagt:
“Der Wert eines Dings ist grade so viel, wie es einbringen wird.” 

交換価値は、まずもって量の関係、すなわち、ある種類の使用価値が別の種類の使用価値と交換される割合として現れる(六)のだが、この関係は時間や場所によって絶えず変化するものである。このため交換価値は、商品に内在する価値(valeur intrinsèque)でありつつ、偶然的であり純粋に相対的なものであるように見えるのだが、これは形容矛盾(eine contradictio in adjecto)である(七)。この問題をもっと詳しく見てみよう。
*(六)“価値とは、ある物と別のあるモノとの間に存在する交換関係、ある製品の量と別の製品の量との間に存在する交換関係で成り立っています。” (ル・トロスネ, “社会の関心”, [in] “Physiocrates”, éd. Daire, Paris 1846, p. 889.) 
*(七)“内なるな交換価値を持つ物は存在しえない” (N. バーボン, 前掲書 6), もしくはバトラーがこう言ったように。”モノの価値は、それがもたらすものと同じだけである。” 

〈1-5〉Jedes nützliche Ding, wie Eisen, Papier usw., ist…

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〈1-5〉

Jedes nützliche Ding, wie Eisen, Papier usw., ist unter doppeltem Gesichtspunkt zu betrachten, nach Qualität und Quantität. Jedes solches Ding ist ein Ganzes vieler Eigenschaften und kann daher nach verschiedenen Seiten nützlich sein. Diese verschiedenen Seiten und daher die mannigfachen[49] Gebrauchsweisen der Dinge zu entdecken ist geschichtliche Tat. (3) So die Findung gesellschaftlicher Maße für die Quantität der nützlichen Dinge. Die Verschiedenheit der Warenmaße entspringt teils aus der verschiedenen Natur der zu messenden Gegenstände, teils aus Konvention.

(3) “Dinge haben einen intrinsick vertue” (dies bei Barbon die spezifische Bezeichnung für Gebrauchswert), “der überall gleich ist, so wie der des Magnets, Eisen anzuziehen” (l.c.p. 6). Die Eigenschaft des Magnets, Eisen anzuziehn, wurde erst nützlich, sobald man vermittelst derselben die magnetische Polarität entdeckt hatte.

鉄や紙など、それぞれ有用な物体(Ding)は、二重の(doppelt)観点、つまり質と量との観点から考察される。こうした有用な物体はどれも、多くの性質がまとまった一全体(ein Ganze)であり、だからさまざまな方面に有用ということになる。これら物体のさまざまな方面の諸用途は、人類がその都度発見してきたものである(三)。有用物体の分量の社会的な公認尺度(Maß)もまたその都度決められてきたものである。商品の量を測る尺度にはさまざまなものがあるが、それは秤量される対象の本性(Natur)が多種多様であるためであり、あるいは慣習でそうなった部分もある。

*(三)「諸物は内的な効力(intrinsick vertue、これはバーボン特有の使用価値を意味する言葉である)を持っている。すなわち、どこにあっても同じ効力を持っている。たとえば磁石は鉄を引き付けるというように。」(同前、第六頁)
磁石が鉄を引きつけるという性質は、磁石によって磁極が発見されると同時に有用になったのである。

読み流されやすいですが、ここはすごいです。

ここは、我々が認識する外界の一対象( ein äußerer Gegenstand ) であるところの、「商品」という物体( Ding )の議論なのですが、カントはこうでした。

再掲 カント的認識の図

ふむふむ

これだと二元論に陥ってしまう、つまり、人間の理性は経験を超えることができないということになってしまう。
ということで、ヘーゲルはこうしたいんです。

ヘーゲルはこうしたい、の図

人間は世界の外部に立っているわけではないちゅうことワンかね

「鉄や紙など、それぞれ有用な物体(Ding)は、二重の(doppelt)観点、つまり質と量との観点から考察される。」

ここから行くと

鉄だったら、「重い」「硬い」「高温で溶ける」
紙だった、「薄い」「インクを固着させることができる」

こうした諸性質、つまり「質」が有用性に直結するわけだけれど、諸性質必ず「量」の側面からも思考されているんです。

というと?

うん。
どのくらい?という程度があるわけ。
「どのくらい重い?」「どのくらい硬い?」「どのくらいの高温で溶ける?」
「どのくらい薄い?」「どのくらいインクを固着する?」

これが「量」の側面。

そうか!

量と質と規定は三位一体で、どれかを欠くことはあり得ません。
たとえば重さが100kgだとすると、こう。

量、質、規定の三位一体

なるほど

でもこれ順番はどうでもいいの?
こんな風に。

三位一体の順番を変える

よい質問。
「kgという規定での重さは100である」
これは
「重さは100kgである」
と同じ意味でしょう?
三位一体は、三つの関係があればいいので、場所は交換可能なんです。

三位一体の三位一体!

三位一体の三位一体

さて、商品という有用なDing(物体)は、こうした三位一体の規定性(質・量)の集合であると考えられるということになりました。

うん

カントよりちょっと前のバークリーという哲学者は「物が存在することは、知覚されることだよね」「存在は知覚の集合だよね」みたいに考えたのだけど、そこからだいぶ進歩している。

そこからカント、ヘーゲルを経てマルクスに至るとこうなるかな。
「商品という存在は規定性(質と量)の集合だ」。

図にすると、こうだね。

商品は人間に役立つ諸性質(量・質・規定)の集まった一全体

おおお

ところでバーボンをちゃんと読む、も本当に始まったワンね。

こちらもよろしくお願いします!

人類より先に磁力はあったのか

註三は少し議論を呼びそうです。
人類が磁力を発見するまで「磁力」はあったのだろうか?

*(三)「諸物は内的な効力(intrinsick vertue、これはバーボン特有の使用価値を意味する言葉である)を持っている。すなわち、どこにあっても同じ効力を持っている。たとえば磁石は鉄を引き付けるというように。」(同前、第六頁)
磁石が鉄を引きつけるという性質は、磁石によって磁極が発見されると同時に有用になったのである。

あったにきまってるワン!

そうではない、とも受け取れるように書かれているよね。
ぼくの note 読んでくれたかな?
アダムとイブが堕落する前の楽園に尺度はないんだよ。

ふうむ

それはさておき、バーボンの原文を見ておきましょう。
マルクスが引用する直前の個所から。

Value is only the Price of Things: That can never be certain, because it must be then at all times, and in all places, of the same Value; therefore nothing can have an In­trinsick Value.
価値とは、諸物の価格に過ぎない。価値は決して確かなものではあり得ない。もしそうなら、それはいつでもどこでも同一の価値になっていなければならない。従って、どんな物も内在的価値を持ってはいない。

ふむふむ

宇宙の天体は内在的な力で動いているのか、それとも外部からの力で動いているのかどちらだろう?

いきなり!
んーどっちだろ。

ニュートンのプリンピキアが出版されたのが1687年で、このころそれが大評判だったんだよね。

万有引力の法則!

それは天体に限らず、すべての物質は内在的な力を持っているという考え方なわけだ。
これが当時は最新の科学だったわけでしょう?
バーボンの批判相手になるロックは、そんな感じで銀貨の内在的価値は金属としての銀の含有量にある、と考えたんじゃないかしら。
ロックのことだから、もちろんそれは common consent「共通の同意」としてなわけだけど。

ふうむ

バーボンに戻ると、バーボンは Value と Vature は違うからしっかり分けようぜという論を展開します。
Value を価値、Vatureは「良さ」と訳そうかな。
つまり Value は値段で変動するもの、Vature は固有のもの、的な。

But Things have an Intrinsick Vertue in themselves, which in all places have the same Vertue; as the Loadstone to attract Iron, and the several qualities that belong to Herbs, and Drugs, some Purgative, some Diuretical, &c. But these things, though they may have great Virtues, may be of small or no Value or Price, according to the place where they are plenty or scarce…
他方、諸物はそれ自身のうちに、あらゆる場所で同じ力を発揮する、内在的な良さ(Intrinsic Verture)を持っている。磁石が鉄を引きつけたり、あるいは香草や薬草が備えているいくつかの性質、つまり、あるものは瀉下薬、またあるものは利尿薬というように。しかし、これらの諸物が大きな良さを持っていても、それらが豊富にある場所にあるか、希少にしかない場所にあるかによって価値や価格が小さかったり、全く価値がないということがあり得る…

わかりやすい。
需要と供給、的な?

うーん

「需要は,社会的にいっても,商品の価値を形成するわけではない。」(宇野弘蔵『宇野弘蔵著作集 第四巻』岩波書店,67頁)

「需要は,いわば商品価値規定の消極的一面をなすのであり,価値尺度としての貨幣の機能は,かかる需要の発動の形態規定にほかならない。」(宇野弘蔵『宇野弘蔵著作集 第四巻』岩波書店,67頁)

ぎゃふん

ところでマルクスはここで「鉄」と「紙」を例示しているけれど、「紙」と「価値」に関するヘーゲルの文章を「法の哲学」から引用しておくね。
うーん、

ところでマルクスはここで「鉄」と「紙」を例示しているけれど、「紙」と「価値」に関するヘーゲルの文章を「法の哲学」から引用しておくね。

価値と所有、労働(ヘーゲルとロック)

「法の哲学」の「所有」の概念規定のところでそれは登場します。
強調はわたくし。

 ここでは質的なものは量的なものの形式のなかに消えてしまう。すなわち、私が必要ということを言うとき、これはきわめてさまざまな事物がそのもとにもたらされる標号( Titel)である。したがってこれらの事物の共通性が、そのばあい、私がそれらの事物を測りうるようにさせるわけである。それゆえここでは思想の進行は、物件の独特の質から、この規定されたあり方がどうでもよい状態、つまり量へ、である。  
 これと似たようなことは数学において起こる。たとえば私が、円とは何か、楕円とか抛物線とは何かを定義するならば、それらは種的に異なった状態であることがわかる。にもかかわらず、これらのいろいろ異なった曲線の区別はたんに量的に規定される。すなわち、もろもろの係数に、もっぱらただもろもろの経験的な大いさだけに関係するところの、量的な区別が問題になるだけだというふうに規定される。  
 所有においては、質的な規定されたあり方からあらわれてくる量的な規定されたあり方は価値である。ここでは質的なものは、量にたいして特定量を与えるのであって、質的なものとしては廃棄されると同様にまた保存される。  
 価値の概念を考察するならば、物件そのものはただ標識と見なされるだけであって、それ自身としてではなく、それが値いするところのものとして通用する。たとえば手形はその紙としての性質ないし自然をあらわすのではなくて、ある別の普遍的なものの、つまり価値の、標識にすぎない。  

『法の哲学ⅠⅡ(合本) (中公クラシックス)』ヘーゲル著

で、この直後に「貨幣」が登場。

 一つの物件の価値は、必要ないし欲求への関係においてきわめてさまざまでありうる。だがもし価値の独特なものをではなくて抽象的なものを表現しようとするなら、貨幣がこれである。貨幣はすべての事物を代表する。だが、貨幣は必要ないし欲求そのものをあらわすのではなくて、必要ないし欲求の標識でしかない以上、貨幣自身がまた、独特な価値によって支配される。この価値を、抽象的なものとしての貨幣はただ表現するだけである。

同上

次回やる次の節は、今度はバーボンの論敵ロックが引用されます。

そうなんだ

ロックもヘーゲルのように価値と所有の関係を論じていて、所有の根拠は労働であるという論理を展開しているのですよね。

ほうほう、いわゆる労働価値説?

ロックの所有論についてはそうですね、下のブログをご覧ください。

草食系院生さんまとめを読んでみて、労働が所有の根拠というのはなるほどと思いました。

うちの子どもたちが川へ出かけると、いつも石を持って帰ります。
石を石で割ったり、研いでみたり。
彼らにしたらそれが労働で、ただ拾うのも労働で、だから自分のものだというわけですね。

次回は〈1-6〉です。
お疲れさまー

〈1-6〉
Die Nützlichkeit eines Dings macht es zum Gebrauchswert (4). Aber diese Nützlichkeit schwebt nicht in der Luft. Durch die Eigenschaften des Warenkörpers bedingt, existiert sie nicht ohne denselben. Der Warenkörper selbst, wie Eisen, Weizen, Diamant usw., ist daher ein Gebrauchswert oder Gut. Dieser sein Charakter hängt nicht davon ab, ob die Aneignung seiner Gebrauchseigenschaften dem Menschen viel oder wenig Arbeit kostet. Bei Betrachtung der Gebrauchswerte wird stets ihre quantitative Bestimmtheit vorausgesetzt, wie Dutzend Uhren, Elle Leinwand, Tonne Eisen usw. Die Gebrauchswerte der Waren liefern das Material einer eignen Disziplin, der Warenkunde (5). Der Gebrauchswert verwirklicht sich nur im Gebrauch oder der Konsumtion. Gebrauchswerte bilden den stofflichen Inhalt des Reichtums, welches immer seine gesellschaftliche Form sei. In der von uns zu betrachtenden Gesellschaftsform bilden sie zugleich die stofflichen Träger des – Tauschwerts.

(4) “Der natürliche worth jedes Dinges besteht in seiner Eignung, die notwendigen Bedürfnisse zu befriedigen oder den Annehmlichkeiten des menschlichen Lebens zu dienen.” (John Locke, “Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest”, 1691, in “Works”, edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.) Im 17. Jahrhundert finden wir noch häufig bei englischen Schriftstellen “Worth” für Gebrauchswert und “Value” für Tauschwert, ganz im Geist einer Sprache, die es liebt, die unmittelbare Sache germanisch und die reflektierte Sache romanisch auszudrücken.
(5) In der bürgerlichen Gesellschaft herrscht die fictio juris, daß jeder Mensch als Warenkäufer eine enzyklopädische Warenkenntnis besitzt.

物体の有用性がその物を使用価値にする(四)。有用性は宙に浮かんでいるのではない。有用性は、商品体(Warenkörper)の諸性質を前提としているのだから、商品体なしには存在しない。だから、鉄や小麦やダイヤモンドなどという商品体そのものが使用価値または財(Gut)である。商品体のこの性格は、人間がどれだけ労働することによってその諸性質が獲得されたとはかかわりがない。使用価値を考察する際には、一ダースの時計とか一エレの亜麻布とカ一トンの鉄などのような、その量的な規定性が常に前提とされている。諸々の商品の諸々の使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する(五)。諸々の使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。諸々の使用価値は、富の社会的な形式がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。我々によって考察されねばならない社会形式においては、諸々の使用価値は同時に、素材的な担い手になっている。交換価値の担い手に。

*(四)「諸物の自然的な価値(natural worth)は、さまざまな欲望を満足させたり人間の生活に役立つなどの適性にある。」(ジョン・ロック, “利子引き下げがもたらす帰結についての諸考察(Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest)”, 1691, in “Works”, edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.)
17世紀になっても英語の文章にはしばしば、Worthを使用価値、Valueを交換価値として表している例がしばしば登場するが、これはまったく、直接的な事物をゲルマン語で表現し、反省された事物をローマ語で表現することを好む言語の精神によるものである。
*(五)ブルジョア社会では、商品の買い手であるすべての人が、商品に関する百科全書的な知識を持っているという法的擬制(fictio juris)が当然のこととなっている。

ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(1696年)の翻訳記 1

 note マガジン「資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る」で『「国定貨幣論」の本当の元祖、ニコラス・バーボンについて』という文章を書きました。

 そこでバーボンの “A discourse concerning coining the new money lighter in answer to Mr. Lock’s Considerations about raising the value of money” (『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究:ロック氏の貨幣の価値の引上げについての考察に答えて』)という、長いタイトルの小冊子を紹介し、その翻訳をしたいと書きました。

 いろいろ探しましたが原文はこちらが読みやすいと思います。

 さて、翻訳に関していくつか思うところがあります。ある程度の背景知識を前提にしないとまったく面白くないし、むしろ意味を取り違えるでしょう。それだとただ日本語に翻訳しても意味がない。

 だって「より軽い新貨幣の鋳造」ってどういうこと?

 その辺を確認しながら、まず序文(PREFACE)を読んでいこうと思うのですが、これはその第一回。

THIS Question, Whether it is for the Interest of England, at this time, to New-Coin their Clipt-Money, according to the Old Stan­dard both for Weight and Fineness, or to Coin it somewhat Lighter? has been, of late, the business of the Press, and the common subject of Debate.

翻訳
この問題は、イギリスの利益のために、今、すり減った硬貨(Clipt Money)を鋳造し直す際に、重量と精度の旧基準に従うのか、それとも幾分軽く鋳造するかということです。これは、ここ数年、報道されることが多く、よくある議論のテーマです。

 さて、いったいどのような大問題が?

 楊枝嗣朗の「ロック=ラウンズ論争再論―イマジナリー・マネーとしてのポンドの観点より―」という論文から少し引用します。

”盗削著しい銀貨の改鋳が最終的には,従来の鋳造価格で実施されることが決定されたのであるから,1696年末から1700年にかけて改鋳された510万ポンドもの銀貨が,造幣局から送り出されるや否や消え
去る運命にあったことは,以下の1696年の小冊子からも推測しうるように,当時の識者や実務家には常識であった。”

通貨問題の話

 英国の銀貨が、作っても作っても消失してしまい(海を渡ってフランスやオランダに渡ってしまい)英国の人々が日々の決済に困るという事態が起こっていたのです。

 と同時に、英国はフランスとの戦争(英仏第二次百年戦争)の戦費がかさんだことで大増税と、巨額の国債発行を余儀なくされていました。

 税を集めても、入ってくるのは質の悪い貨幣ばかり。

 この辺りの事情はトマス・レヴェンソン著「ニュートンと贋金づくり」というノンフィクションにも生き生きと描かれています。

 

 この本でレヴィンソンは、ヴィクトリア時代の歴史家マコーリー卿の報告をいくつか紹介しています。

危機が極限に達するころには、国庫に入る歳入一〇〇ポンドのうち、まともなシリング硬貨は一〇枚程度しかなかった--二〇〇〇枚に一枚の割合だ。マコーリー卿は「膨大な量が融解され、膨大な量が輸出され、膨大な量が貯め込まれたが、商品の現金箱にも農夫が家畜を売った代金を家に持ち帰る革袋にも、新しい硬貨はほとんどなかった」と書いている。

「わずか一年の間に劣悪なクラウンと劣悪なシリングによってもたらされた不幸は、四半世紀の間に劣悪な王、劣悪な大臣、劣悪な判事によってイングランドの国家が被ったあらゆる不幸に匹敵するのではないか」

「ホイッグとトーリーのどちらがよいか、プロテスタントとイエズス会のどちらが優っているかなどということはどうでもよく、牧畜業者は家畜を市場に運び込み、食料雑貨商はスグリの実を割り分け、服地屋はブロードを裁断し、買い手も売り手もそれまでと変わらずうるさく声を上げていた。」

「取引の主要は手段が完全に混乱してしまうと、すべての商売、すべての産業が打撃を受け、麻痺したようになった。害は日々常在し、あらゆる場所、あらゆる階層に及んでいた。」

通貨流出の理由

 さて、英国から銀通貨が流失した理由は明白です。

 それは、大陸にそれを銀地金として売れば、もっと高く売れたから。

 つまり、地金の銀を融解して製造された硬貨の額面価格が、大陸における銀の価格よりも安かったからに他なりません。削り取りが横行したのもこのためで、手に入った銀貨のふちを少し削って売ればちょっとした儲けにつながりました。

  バーボンのタイトルにある Coin it somewhat Lighter?、つまり「少し軽く鋳造してはどうか」という考えは、こうした状況に対応する一案として浮上したもので、硬貨に含まれる純銀の割合を減らせばいいのでは?という論理です。

 たとえば額面はそのままだけど、銀の含有量は少ないよ、という感じの。

ロックに挑戦するバーボンという構図

 さてバーボンの本ですが、次の三部構成になっています。

  • 序文
  • ロック氏の本の内容、もしくは主な主張
  • より軽い新貨幣の鋳造に関する論究 富、および諸事物の価値について

 このようにバーボンは、相手の主張を整理してから、それに反論を加えていくという形式を踏んでいるのです。

 だからまずはそこまでの部分を理解しないとつまらない。翻訳を序文から始めようと思ったのはそんな動機です。

 そしてロックとバーボンの論理を通じて、それを踏まえたマルクスの論理を深く理解していこうではありませんか。

 そんな風に思っています。

ついでに、MMTとこの時代

 最後に、別のエントリ(対話篇:だから貨幣の前に価格を見よ)でも触れたのですがMMTの新しい本(未翻訳)にこの時代に関する論考がありまして、ちょっとびっくりしたのです。

“Credit and the Exchequer since the Restoration”、王政復古以降の信用と財政というこの小論では、この時代の決済ぶりを別の角度から論じたもので、決済貨幣が不足したその時に、それゆえにこそタリー(信用と借用書のペアのようなもの)を用いた決済が急発達したさまが描かれています。

 ちなみに筆者のRichard Tye さんは参考文献としてこちらを挙げていたりします。

 いつの日かTyeさんの論文もご紹介したいのですが、まずはバーボンですよね(笑

 次回は序文は最後まで行ける、、、かな

対話篇:だから貨幣の前に価格を見よ

宮田惟史著『マルクスの経済理論』を読まずに語る

これどうだろうワンワン

どれどれ
6,600円!!
図書館入りを待つか

試し読みがある
https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/0248350.pdf

面白そう

こういうのは論文を纏めて一つにしたものだと思うから、論文を探してみよう。

論文
マルクス信用論の課題と展開-『資本論』第3部第5篇草稿に拠って

引用

なお,紙幅が許す範囲で敷衍すると,不換制下である現代では金からの直接の制約をはなれて貨幣供給が可能となる。そのため,銀行が信用を拡張し貨幣供給量を増加させることで,兌換制下に起きたようなパニック的恐慌を緩和させる力が飛躍的に拡大する。そこで一見,銀行は預金設定を通じ無制限的に貨幣供給を行うことができ,恐慌ないし不況も回避できるように見えてくる。だが,不換制といえども「不足資本」を補塡することには限度がある。そのようなことを無制限的に行えば大量の不良債権化をまねき,市中銀行であれば倒産に追い込まれうるし,また,中央銀行信用ですべての不良債権を買い取るようなことをすれば,中央銀行信用そのものが動揺しかねないためである。不換制下で不良債権の処理を迫られれば,最終的には国民の税金(公的資金)の投入が余儀なくされる。税金とは基本的には現実の再生産過程で労働が生み出した価値物にほかならない。銀行といえども信用「創造」によって「無から有を生む」,つまり社会的富=価値物をつくり出すことはできないのである。信用の膨張も最終的には現実の生産に限度をもつのである。こうして不換制下でもかたちを変えて価値法則が貫徹する。しかしもちろん,税金(価値物)で金融機関の不良債権を補塡したとしても恐慌から不況への突入を回避することはできない。なぜなら,すでに過剰な商品が存在するとともに,利潤率は急落し現実の再生産過程が停滞しているからである。また,税金の投入には財政的な限界もあるからである。不況からの脱却もまた,根本的には現実資本の利潤を回復させる現実的諸条件にかかっているのである。

完全にズレちゃってる

佐々木隆治や斎藤幸平もそうだと思うけど、こうしたズレを抱えているマルクス研究者の書いたものとして読むならばけっこう有益なんですよね。テキストに忠実であろうとするだけに。

でも、このズレ、資本論の出だしの解釈に胚胎しているように思える。
価格という度量衡の哲学。

金属本位制は、ある時代の風俗として必然的に存在しただけだよね。

岩波書店の紹介はこうあるワンね。

マルクスが紡いだ一つ一つの概念に光をあて、MEGAの新資料にもとづき『資本論』を丹念に読み解くことで、そのテキストがもつ今日的な可能性が見えてくる。

うん、その意気や良しで素晴らしいのだけれども、よほど注意しないと今度は概念と概念の間の連関を見失ってしまう危険を孕むよね。

本人がそうならないように注意しよう注意しようと心がけていたとしても。

「カテゴリー分析に光を当てる」その前に、カテゴリーを分析するとはどういうことなのかを哲学しておかないとだめなのだろう。
現代人はこれがめっちゃ弱いと思う。

こっちは?
<論 説>
マルクスの貨幣数量説批判

なんかそうだねよさげ。

以上のように、マルクスの貨幣数量説批判の決定的な意義は、貨幣の第 1 の機能を「購買手段」にではなく、「価値尺度」にあることを解明した点にある。

ん?ちょっと引っかかる。

このように、マルクスの貨幣論の独自性は、貨幣の最も抽象的な姿から、貨幣の諸契機の相互の関連をつかみ、また他の経済的諸範疇との全体系を把握したところにあった。貨幣数量説批判という視角からいうと、先にみた貨幣の契機のどれかひとつの理解を欠けば、それはつねに貨幣数量説へと結びつくのであり、それらの諸契機は相互に条件づけあい、有機的に関連づけあっているのだから、諸契機をもらすことなくトータルにつかむ必要があるのである。以上のように、貨幣の本質規定の分析の徹底こそが、貨幣数量説の克服の分岐点であったのである。

「貨幣数量説の克服」って…
でもまあOK

これにたいし、マルクスにもとづくと、そもそも流通する貨幣量―今日のマネーストック―は中央銀行がコントロールできるものではない。「発券銀行がその銀行券の流通量にたいして統制力をもっているという考えそのものが、まったく途方もないものなのであり」(MEW,Bd.9, S. 307)、「銀行は……〔貨幣の〕流通量にたいしてはなんの力ももっていない」(Ibid., S.307)のである。先に見たように、流通する貨幣量は、実現されるべき(販売される)商品の価格総額によって規定される。言いかえれば、それは現実の再生産過程における商品流通の必要に応じて決まるのである。「通貨の量が物価を決定しえないのは、それが商工業の取引量を決定しえないのと同じである。その反対に、物価〔および取引量〕が流通にある通貨の量を決定する」(Ibid., S.307)のである。したがって銀行制度を入れて考察すると、いくら中央銀行がハイパワードマネーを増加させたとしても、実体経済からの需要が起点としてなければ、それは現金準備として市中銀行に留まるだけであって、現実の再生産過程で流通することはないのである。

まあ、いいんじゃないの?
ホリゼンタリスト的な。

おっと注記が気になる。

たとえば、ある量の小麦の価格が 3 ポンドであろうが 1 ポンドであろうが、つまり価格が価値の大きさより過少ないし過大であったとしても、それが商品の価格であることにかわりはないのであり、いずれの場合も貨幣は価値尺度の機能をはたしているのである(MEW,Bd.23,S.116-117 を参照)。商品の価値量は変わらなくても、たえず変動する価格は、量的にどのように変化しようとも、質的にはその商品の価格なのである。要するに、貨幣の価値尺度機能とは、商品の価値の大きさを過不足なく測定することではなく、その大きさ如何を問わず、商品の価値を価格として表示する貨幣の機能・役割である。これが久留間((1979), 171- 190 頁 , 196-224 頁)がマルクスに即して明らかにした、いわゆる「価値尺度の質」である。この点を理解しなければ、販売と購買がくり返される過程で商品の価値の大きさは測られ、そのくり返しを通じてはじめて貨幣は価値尺度として機能するのだといった宇野(1974)のような誤謬が生まれる。

これ、よく読むとかなりだめだなあ

そうなの?

なんかいろいろ分かった気がする。

というと?

ちょうど今日、MMTについて変なことを言っている人がいたから、こんなコメントをしたんだよね。

モズラーに「MMTは貨幣の理論ですか?」と聞いたらノーというだろう。

むしろ「量よりも価格」、つまりMMTは一義的には価格や価値の理論なんだよね。

なるほど

貨幣という尺度(モノサシ)で商品の価値が測定されるのではなくて、商品が世界のすべてに対して貨幣の姿で現前するんだよね。

マルクスの表現はどうだったっけかな。

岩波文庫「経済学批判」76頁
”諸商品がそれらの交換価値を全面的に金で表現することによって、金は直接その交換価値をすべての商品で表現する。諸商品はたがいに交換価値の形態をあたえあうことによって、金に一般的等価物の形態、つまり貨幣の形態をあたえるのである。
 すべての商品がその交換価値を金で、一定量の金と一定量の商品とがひとしい労働時間をふくむような割合でもってはかるので、金は価値の尺度となる、しかも金は、さしあたり、ただ価値の尺度としてのこの規定によってのみ、一般等価物または貨幣となるのであって、価値の尺度としての金自身の価値は、直接に商品等価物の範囲全体ではかられるのである。他方、いまやすべての商品の交換価値は、金で自分を表現する。”

うん、こういうのは経済学批判ですね。
そのほかにも直接的に、貨幣がモノサシだと考えてしまう錯誤を批判しているところがあったように思うので備忘として。

前同84頁
”ある量の金を度量単位としてさだめ、そしてその可除部分をこの単位の補助単位としてさだめる必要は、あたかも、一定の、もちろん可変の価値をもった金量が、商品の交換価値にたいしてある固定した価値比例におかれるかのような考えを生みだしたが、この考えにおいては、金が価格の度量標準として発展するまえに、商品の交換価値がすでに価格、つまり金量に転化されていることがまったく見のがされていた。”

あとはスチュワート批判のあたりかな

前同98頁
”かれは、価値の尺度が価格の度量標準に転化することを理解していないので、自然にまた、度量単位として役立つ一定量の金は、尺度として、ほかの金量に関連するのではなくて、価値そのものに関連するものだと信じている。
かれは、価値の尺度が価格の度量標準に転化することを理解していないので、自然にまた、度量単位として役立つ一定量の金は、尺度として、ほかの金量に関連するのではなくて、価値そのものに関連するものだと信じている。”

前同83頁
”商品は、もはや労働時間によってはかられるべき交換価値としてではなく、金ではかられる同じよび名の大きさとして、たがいに関連しあうのであり、それによって、金は価値の尺度から価格の度量標準に転化する。こうしてさまざまな金量としての商品価格同志のあいだにおこなわれる比較は、つぎのような表現に、つまりある考えられた金量に記入され、これを可除部分の度量標準として表示する表現に、結晶するのである。価値の尺度としての金と、価格の度量標準としての金は、まったくちがった形態規定性をもつが、この一方を他方と混同することによって、ひどくばかばかしい理論がうみだされている。”

おお、これこれ

宮田のこれがおかしな話だというのが分かると思います。

”要するに、貨幣の価値尺度機能とは、商品の価値の大きさを過不足なく測定することではなく、その大きさ如何を問わず、商品の価値を価格として表示する貨幣の機能・役割である。これが久留間((1979), 171- 190 頁 , 196-224 頁)がマルクスに即して明らかにした、いわゆる「価値尺度の質」である。”

この宮田という人も佐々木と同じく久留間鮫造の影響を受けているね。

さっきも言ったけれど「貨幣の機能」という前に、貨幣に先立つ商品というカテゴリーの理解が浅いんじゃないかというか。

もし久留間がそう書いていたなら、マルクスに即してないよ。

貨幣はシンボルではない!

Das Geld ist nicht Symbol, so wenig wie das Dasein eines Gebrauchswerts als Ware Symbol ist.

ん?

「貨幣はシンボルではない。ちょうど、使用価値としての商品がシンボルではないように。」
もっとちゃんと訳せば
「貨幣はシンボルではない。商品を使用価値として見るときにそれをシンボルだと言わないが、それと同じ程度に貨幣はシンボルではない。」

かっこいいなあ

これは経済学批判からですか?

昨日岩波文庫のを借りましたが53ページですね。

見つけました。

「商品としての使用価値の定住が象徴でないように、貨幣も象徴ではない。」

「定在」、がなあ。

例によってトリニティで描いてみる。

「使用価値として存在する」とは、〇〇は栄養になる、〇〇はおいしい、〇〇は楽しい、という形で存在するということ。

an sich

ここ、高校英語で習うクジラ構文です。

A whale is no more a fish than a horse is (a fish).
クジラが魚ではないのは、馬が魚ではないのと同じ。

貨幣(貨幣形態の商品)がシンボルでないのは、使用価値としての商品がシンボルでないのと同じ。

飲んだり食べたり遊んだりするものをシンボルとは言わないワンね。

しつこいけれど、これが分かっていたらこういう言葉は絶対に出ないのですよね。

”要するに、貨幣の価値尺度機能とは、商品の価値の大きさを過不足なく測定することではなく、その大きさ如何を問わず、商品の価値を価格として表示する貨幣の機能・役割である。これが久留間((1979), 171- 190 頁 , 196-224 頁)がマルクスに即して明らかにした、いわゆる「価値尺度の質」である。”

なんでいけないんだっけ

価値や価格よりも「先に」貨幣を考えちゃう

あー

一番左の価値の尺度としての金と、左から3番目の度量標準としての金を混同しているのですね。

これ、とてもいいように思えます

(´▽`) ホッ

「マルクスなきマルクス経済学」

宮田の前書きから。

マルクスの遺産を最大限に汲み取り、それを現代の分析に生かしてゆくためになにが求められているのだろうか。一言でそれは、基本原則に立ち返り、マルクス本人の原文を徹底的に読み解き、かれの経済学の到達点を確定することである。その経済学を批判、発展させるためにも、その実像をつかむことが出発点をなす。この作業をおざなりにすると、誤解や偏見にもとづく「マルクスなきマルクス経済学」が独り歩きをしたり、無用な論争までもが生まれてしまう。

40歳くらいかな。
もっと頑張れって感じだ。

ところで、マルクスに思いもよらなかったのは、通貨が電子データになって瞬間的に移動するような時代がやってきたことでしょうね。一般的等価形態は、いまどの商品にも付着していないということになるでしょう。
しかし、それが存在しないということではない。

「販売と購買がくり返される過程で商品の価値の大きさは測られ、そのくり返しを通じてはじめて貨幣は価値尺度として機能するのだといった宇野(1974)」

宮田(久留間?)はそういうけれど、宇野のこれはいい線を行っている。

商品たちは交換のたびに価値尺度を更新しているのだけれど、このとき支配的な影響を与えているのが政府支出におけるプライシングなんですよ。

MMTとつながった!

17世紀英国のドラマ

17世紀における、英国の金貨や銀貨やその決済の歴史と議論はすごく示唆的です。同時代の大阪堂島米市場の歴史とかも。

あーそれでジョン・ロックとか読んでたわけね

これはすごく面白い。

資本論の冒頭で、ニコラス・バーボンとかジョン・ロックが引用されているけれど、すごく関係があるんよ。

今日この本が届いたのですけれど,バーボンを参考文献に挙げている論考が入っていることに気づきました。

そう聞いて、二章だけ一気読みしました

Richard Tye という人の、”Credit and the Exchequer since the Restoration” という論考で。

the Restoration ってなんだっけ。

それね!
英国の王政復古の時代。

ロックやニュートンが大活躍!

じゃあこんど詳しく

〈1-4〉Die Ware ist zunächst ein äußerer Gegenstand, …

本文リンク
〈1-4〉

Die Ware ist zunächst ein äußerer Gegenstand, ein Ding, das durch seine Eigenschaften menschliche -Bedürfnisse irgendeiner Art befriedigt. Die Natur dieser Bedürfnisse, ob sie z.B. dem Magen oder der Phantasie entspringen, ändert nichts an der Sache (2). Es handelt sich hier auch nicht darum, wie die Sache das menschliche Bedürfnis befriedigt, ob unmittelbar als Lebensmittel, d.h. als Gegenstand des Genusses, oder auf einem Umweg, als Produktionsmittel.
(2) Verlangen schließt Bedürfnis ein; es ist der Appetit des Geistes, und so natürlich wie Hunger für den Körper … die meisten (Dinge) haben ihren Wert daher, daß sie Bedürfnisse des Geistes befriedigen.” (Nicholas Barbo, “A Discourse on coining the new money lighter. In answer to Mr. Locke’s Considerations etc.”, London 1696, p. 2, 3.)

商品は、さしあたり外界の一対象(Gegenstand)であり、その性質(複数)によって人間の何らかの欲望を満たす物体(Ding)である。その欲望の本性(Natur)、つまりそれが胃袋から生じるものか、あるいは空想から生じるかは、ここでの分析には何ら影響するものではない(二)。また、その物体がどのようにして人類の欲望を満たすものであるか、つまり直接的に生活の手段(Mittel)、つまり享楽の対象としてなのか、もしくは間接的に生産の手段(Mittel)としてなのかの区別も、この分析には何ら影響しない。
*(二)『願望は欲望を含む。それは心の食欲であって、身体に於ける飢えのように自然的のものである。・・・・大多数は心の欲望を充たすことによって価値を受けるのである』ニコラス・バーボン著『新貨軽鋳論、ロック氏の貨幣価値引上論考に答う』ロンドン、一六九六年刊、第二及び三頁)。 

ここは語り始めると一生戻ってこれないのでほどほどにします。

みんな大好き
「商品は、さしあたり(zunächst)外界の一対象(Gegenstand)である。」

どうして
「さしあたり」なんだろうか
「商品は、さしあたり外界の一対象(Gegenstand)であり、」

大月書店のは、「まず第一に」ですね

at first
外界の一対象、ein äußerer Gegenstand であると。
「外界の」
external、outer
つまりこの時点で内と外を分ける境界線のようなものが含意されています。
https://note.com/nkms/n/na89ac0e3268a#8e92ddf5-790b-424a-bd5e-df4b435d99a7

点線で表現されてましたね

あとは、Gegenstand(対象)という言葉が出てくることから、カントやフィヒテやヘルダーやヘーゲルとかがやっていた話であることが感じられます。
続く「一つの物体(ein Ding)」で、もはや明らか。

認識論でしたっけ

彼らがやっていた哲学全般のうちの認識に関わる話ぽいなということがわかります。
この世界には意識やモノ(諸物)という要素があって、それらの関係を扱っていますよということです。
意識を担うものが「人」ですね。

なるほど

「その性質(複数)によって人間の何らかの欲望を満たす物体(Ding)である。」
なので、単に「商品」の話ではなく、諸人間と諸商品の関係の話であることが宣言されていることになります。
あとは、あえて「手段(Mittel)」と表記しましたが、「手段」も重要な基本語です。
「手段は推論の中間項である」

読み方はミッテルですか?

ミッテルで大丈夫

中間項というのはヘーゲルでしたか
媒介するもの?

意識とモノの関係において、モノが意識の欲望を満たすための「中間項」になるのがミッテルですね。

生活の手段(Mittel)生産の手段(Mittel)
便利過ぎる(笑)
こうするとイメージしやすいですね。

このイラストの初出はこちらワンね

これほんとおもしろい

「何を」イメージしやすいのですか?

ミッテルが中間項として人とモノを媒介しているイメージです

これはどうでしょう

これは、モノが中間項として人と手段を媒介してる?

こんな感じかしら

カント認識論の図

カントの認識論を図式化するとこう。

自己と対象との間に明確な境界があります

ヘーゲルは「そういうのやめよう」と訴えたとも言えます。
資本論もそのような、ヘーゲル的な立場に立っています。

以前に「観測問題」と一緒とおっしゃっていたのと関連があります?

そう言うこともできると思います。

ヘーゲルの認識論だと3つの要素が三つ巴状態で相互に関わりあっている感じがします。自己と対象も、何かを中間項にして関係しあっている。

まだ先行研究で消耗してるの? マルクス『資本論』覚書(4)

引用しちゃう

ここで「商品 Waare 」は〈手段 Mittel 〉として取り扱われている.「人間の何らかの種類の欲望を満足させる」ことがその目的である.この目的すなわち「人間的需要 menschliche Bedürfniss 」を満たす物は,肉体としての人間の外にある.
 商品という〈手段〉は、「直接的に unmittelbar 」は「生活手段 Lebensmittel 」として,間接的には「生産手段 Productionsmittel 」として用いられることが想定されている.ただし,ここでは直接的であるか間接的であるかはどうでもよいものとされている.

ここでバーボンの注が生きてきます。

(二)『願望は欲望を含む。それは心の食欲であって、身体に於ける飢えのように自然的のものである。・・・・大多数は心の欲望を充たすことによって価値を受けるのである』ニコラス・バーボン著『新貨軽鋳論、ロック氏の貨幣価値引上論考に答う』ロンドン、一六九六年刊、第二及び三頁)。 

ニコラス・バーボンの著作については、資本論を読むにあたってとても重要と思うので note の方でもこれから取り上げていきますね。

バーボンは心の欲望と身体の欲望を分類したけれど、資本論の分析においてはそれは「どうでもいい」。
バーボンの考えは、使用価値が交換価値の「原因」であるという感じですが、マルクスはむしろ弁証法的に、使用価値と交換価値の「疎遠さ」「関係のなさ」の方を強調していくことになります。

ここからしばらくマルクスは、バーボンの論理に対してバトルを挑んでいく感じになります。

次回の注3もそうワンか?

〈1-5〉
Jedes nützliche Ding, wie Eisen, Papier usw., ist unter doppeltem Gesichtspunkt zu betrachten, nach Qualität und Quantität. Jedes solches Ding ist ein Ganzes vieler Eigenschaften und kann daher nach verschiedenen Seiten nützlich sein. Diese verschiedenen Seiten und daher die mannigfachen[49] Gebrauchsweisen der Dinge zu entdecken ist geschichtliche Tat. (3) So die Findung gesellschaftlicher Maße für die Quantität der nützlichen Dinge. Die Verschiedenheit der Warenmaße entspringt teils aus der verschiedenen Natur der zu messenden Gegenstände, teils aus Konvention.

(3) “Dinge haben einen intrinsick vertue” (dies bei Barbon die spezifische Bezeichnung für Gebrauchswert), “der überall gleich ist, so wie der des Magnets, Eisen anzuziehen” (l.c.p. 6). Die Eigenschaft des Magnets, Eisen anzuziehn, wurde erst nützlich, sobald man vermittelst derselben die magnetische Polarität entdeckt hatte.

鉄や紙など、それぞれ有用な物体は、二重の(doppelt)観点、つまり質と量との両面から観察することができる。こうした有用な物体はどれも、多くの性質がまとまった一全体(ein Ganze)であり、だからさまざまな方面に有用ということになる。これら物体のさまざまな方面の諸用途は、人類がその都度発見してきたものである(三)。有用物体の分量の社会的な公認尺度(Maß)もまたその都度決められてきたものである。商品の量を測る尺度にはさまざまなものがあるが、それは秤量される対象の本性(Natur)が多種多様であるためであり、あるいは慣習でそうなった部分もある。

*(三)諸物は内的な効力(intrinsick vertue)を持っている。すなわち、どこにあっても同じ効力を持っている。たとえば磁石は鉄を引き付けるというように。」(同前、第六頁)
磁石が鉄を引きつけるという性質は、磁石によって磁極が発見されると同時に有用になったのである。

お楽しみにー

〈1-3〉Der Reichtum der Gesellschaften, ….

本文リンク
〈1-3〉

さあ、いよいよ始まります。
資本論の有名な出だし。

[49] Der Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine “ungeheure Warensammlung” (1), die einzelne Ware als seine Elementarform. Unsere Untersuchung beginnt daher mit der Analyse der Ware.
(1) Karl Marx, “Zur Kritik der Politischen Ökonomie”, Berlin 1859, pag. 3. <Siehe Band 13, S. 15>

資本制生産様式が支配的である社会(複数)では、富は『商品の膨大なる集積』(一)として現れ、個別の商品がその要素形態として表れている。だから我々の研究は商品の分析から始まる。
*(一)カール・マルクス『経済学批判』(べルリン、一八九五年刊、第四頁)。

形としては翻訳を引用して、それとは別に対話や解説?を入れていこうということワンね

うんそんな感じで。

早速、ここは「〇〇は××である」ではなく「××として現れる(erscheinen)」という言い方をしているのが目を引きます。

(画伯、Ding an sich じゃなかっけか)

(しまった)

Schein という、「現れ」「外観」というような意味の名詞があって、er- という接頭詞が付いた erscheinen「現れる」

Schein という語は資本論第一部全体で 26回出てくるそうです。

これは哲学を知っている人なら誰でもいきなりカントの純粋理性批判以降の哲学の諸議論を想起させられるところです。

人間はモノ Ding を直に「物自体(Ding an sich )」を認識するのではなくて、感覚のカテゴリーを通じて現れたものを認識しているというあの話。 

ややこしい

このことは、直後に続く文でますますはっきりして行きます。

Reichtum

Reichtum 豊かさ。リッチ(rich) と似てるワンね、字が。

マルクスは Reichtum (富、豊かさ)について別のところで次のように書いています。

„Wahrhaft reich eine Nation, wenn statt 12 Stunden 6 gearbeitet werden. Reichtum ist nicht Kommando von Surplusarbeitszeit“ (realer Reichtum)_sondern verfügbare Zeit außer der in der unmittelbaren Produktion gebrauchten für jedes Individuum und die ganze Gesellschaft.“
(12時間働くより6時間働く状態の方が、その国は真に豊かだ。各個人や社会全体にとって、富とは命令される「余剰労働時間」(実質的な富)ではなく、即時の生産に使われる時間とは別に利用可能な時間のことである。)

ある無名のパンフで「富とは剰余労働時間ではなくて、直接的生産に使用された時間以外の、すべての個人と社会全体にとっての自由に処分できる時間である。」に表現があったそうで、これを激賞してたりするのです。

つまり冒頭のこの Reichtum は絶対的概念ではなく、ある限定された状態での現れというニュアンスが出ているわけです。 

つまり「資本制生産様式が支配的である社会」ではない社会においては、富が「商品の集積」として現れるとは限らない。

二つ指摘しておきましょう。
たとえばアダムスミスの「国富論」のような、結果的に商品の集積を富と把握する「ものの見方」が相対化されています。リカードでもまたそうですし、もし現代のわたしたちがGDPが富の増大だと考えるとしたら、そうした考えが批判・吟味されることになるわけです。

富という本質があって、それはなんなのか掴むのは難しいのだけど、無限に分岐した可能性としての社会を吟味してみると、それぞれ違った概念としての富が現れるようなイメージ…?

ただそう言うと「本質」って何?となるか。
言葉が表す内容は社会的な文脈に依存しているということを表しているように思います。

なるほど
その社会に生きる人達が何に価値をおくのか、というか。
商品の集積を富とみなす社会はなんか分かるというか、直感的にわかりやすいです。
GDPは私達はなんで増えると成長したとか、良いことだと思ってるのだろうか。

もしも「全商品」またはその増加が豊かさなら、その多くは金持ち階級に所有されているものですよね。
第二十二章のリカードら「ブルジョワ経済学者」批判では、彼ら経済学者がナチュラルにそうしたものを「豊かさ」と見ていることが批判されます。

そうなんですね
ブルジョワ経済学者と一緒だった…orz

Gesellschaft

ゲゼルシャフト(社会)は複数形で登場しています。

この単語はゲゼル – シャフト (Gesell – schaft) と分解できる。

シャフトの方から説明すると、フレンドという意味の Freund にシャフトが付くとFreund – schaft は「友情」。
知識という意味の Wissen にシャフトがつく Wissen-schaft は「学問、科学」つまり「知の体系」。
というようにシャフトは多くのものの集合を表す感じです。

ゲゼルは?

Geselleで「職人」。
ドイツのギルドの職人は徒弟制度だったわけだけど、国全体でみると親方-職人の集合が無数にあって「社会」という感じなのかな。

ゲマインシャフトというのを聞いたことがあるんですが、これは?

ええと、このサイトの説明でどうかな↓

GemeinschaftとGesellschaftの日本語訳についての補足
(日本マックス・ヴェーバー研究ポータル)

ゲマインは「普通の」、「平均的な」という感じなのだけど、全体を職業という観点ではなく、地縁や血縁のまとまりという感じの「社会」かな。

マルクスは「共同体」という感じでゲマインシャフトを、「生産が組織化された社会」というニュアンスでゲゼルシャフトというように使い分けます。

資本と労働が分離したら、もうゲゼルシャフト。

以降、この単語がどのように出てくるかどうか気にしておきましょう。

ここは「資本制生産様式が支配的なソレ…」だからゲゼルシャフトなわけワンね。

さらに詳しく↓
 「Gesellschaft と Gemeinschaft, そしてWesen

Element

あとは Elementarform、エレメントについて少しだけ触れておきましょう。
すでに小タイトルで出た Factor と Element のニュアンスの違いというか。

荒川さんのページ
まだ先行研究で消耗してるの? マルクス『資本論』覚書(3)
われわれと似たことをなさっていますねえ。

エレメントについて入江と内田の論考を紹介なさっています。
まず、荒川さんによる入江論の紹介。


 「一つ一つの商品」が社会的富の「基本形式 Elementarform 」として現象するという場合,それを〈エレメント〉の側面と〈形式〉の側面から考察することができる.入江幸男(1953-)は〈エレメント〉を次のように説明している.

「エレメント(Element)といえば,哲学史上では,ひとは直ぐに,ギリシャ哲学の四大エレメント(地・水・風・火)を想起する.この場合,エレメントとは,元素(Urstoff)の意味である.一般には,この元素の意味からの転義で,構成要素(Bestandteil)の意味で使われることが多いと思う.エレメントには,これらの周知の意味の他に,本来の乃至固有の活動領域という意味がある.この意味のエレメントの説明でよく例に挙げられるのは,魚のエレメントは水である,鳥のエレメントは空気である等,また悪例を挙げるならば,女のエレメントは家庭であるというものもある.」
入江1980:69)

 ここで入江は〈エレメント〉の意味を二つ挙げている.ひとつは「構成要素」という意味での〈エレメント〉であり,もうひとつは「固有の活動領域」という意味での〈エレメント〉である.
 マルクスが「一つ一つの商品」が「基本形式」として現象すると述べた際のElementarの意味はどちらの意味であろうか.これは一見すると,「構成要素」の意味で用いられているように思われる.しかしながら,もし「固有の活動領域」という意味で用いられていたらどうだろうか.もし「一つ一つの商品」が何らかの「活動領域」の形式として現象するものだとしたら,「一つ一つの商品」という〈エレメント〉で活動しているのは一体何なのだろうか.
 そして「一つ一つの商品」がエレメントの〈形式〉として現象するならば,同時にその「内容 Inhalt 」や「実質 Materie 」の側面に注意が払われるべきであろう.

次に内田論を紹介なさいます。

 内田弘(1939-)は,上の「エレメント」を「構成要素」の意味で理解している.さらに内田は〈要素〉に対するものは「巨大な商品の〈集合〉」だと述べている.つまり内田は,マルクスの用いるElementやSammlungを数学上の概念として理解するのである.

「名詞「Warensammlung」は「商品《集積》」と訳して,正確に理解できるのだろうか.その語彙のすぐあとに,「個々の商品はその富の要素形態(Elementarform)として現れる」とある.「要素」に対しては,「集積」でなくて「集合」であろう.資本主義的生産様式が支配する社会では,ほとんどの富は商品形態をとる.商品は「集合」であり,かつその「要素」である,とマルクスは言明しているのである(ちなみに『経済学批判』では「集合」にAggregatを当てている.この語法はカントにならっている).」
内田2011

数学上の概念としての「集合」はドイツ語でMengeという.Sammlung にせよAggregatにせよ,それらを数学上の概念として解釈するのはただのこじ付けではないだろうか.

いやいや
こじつけじゃなくて、内田の言っていることもぼくは真実だと思います。当時の数学の集合論は現代のそれの形にはなっていないとは言え。

だってこうです。

おおー

さて、前回ぼくはファクターについて
「それを欠いたら「全体」ではなくなってしまう何かです」
と説明しましたが、エレメントは全体(集合)を構成する粒子、それ以上分割したら「それ」ではなくなってしまう、個々の基本単位という感じがあります。
内田が「数学上の概念として理解」しているかというと必ずしもそうではなくて、物理学的、天文学的、哲学的な原子論として読み解いていて、そこは自分も同調できます。

さて、あとは 注(一)カール・マルクス『経済学批判』を少しだけ見ておくと。
そこではこうなっていました。

Auf den ersten Blick erscheint der bürgerliche Reichtum als eine ungeheure Warensammlung, die einzelne Ware als sein elementarisches Dasein. Jede Ware aber stellt sich dar unter dem doppelten Gesichtspunkt von Gebrauchswert und Tauschwert.
一見したところ、ブルジョア的富は商品の膨大なる集積として現れ、個別の商品がその要素的定在として表れている。それぞれの商品は、使用価値と交換価値という二重の観点から自らを示している。

資本論よりも「硬い」感じの表現です。Dasein (ダーザイン)とか。
あと、使用価値と交換価値の対比になってる。

図にすると、こう。

まだヘーゲル式の三元論が完成されてない?
資本論はこうでしたよね、

いやむしろ三元論そのものになっています。

論理の骨格としては資本論とほとんど同じことをやっていると思うけれど、年月を経て表現が円熟したなーという感じ。

なるほど

このパラグラフはこの辺で。

次回はこちら。

〈1-4〉
Die Ware ist zunächst ein äußerer Gegenstand, ein Ding, das durch seine Eigenschaften menschliche -Bedürfnisse irgendeiner Art befriedigt. Die Natur dieser Bedürfnisse, ob sie z.B. dem Magen oder der Phantasie entspringen, ändert nichts an der Sache (2). Es handelt sich hier auch nicht darum, wie die Sache das menschliche Bedürfnis befriedigt, ob unmittelbar als Lebensmittel, d.h. als Gegenstand des Genusses, oder auf einem Umweg, als Produktionsmittel.
(2) Verlangen schließt Bedürfnis ein; es ist der Appetit des Geistes, und so natürlich wie Hunger für den Körper … die meisten (Dinge) haben ihren Wert daher, daß sie Bedürfnisse des Geistes befriedigen.” (Nicholas Barbon, “A Discourse on coining the new money lighter. In answer to Mr. Locke’s Considerations etc.”, London 1696, p. 2, 3.)

商品はまずもって外界の一対象(Gegenstand)であり、その諸性質によって人類の何らかの種類の欲望を満たす物体(Ding)である。この欲望の本性(Natur)、つまりそれが胃袋から生じるものか、あるいは空想から生じるかは、ここでの分析に何等影響するものではない(二)。また、その物体がどのようにして人類の欲望を満たすものであるか、つまり直接的に生活の手段(Mittel)つまり享楽の対象としてであっても、もしくは間接的に生産の手段(Mittel)としてであっても、その違いはここの分析には影響しない。
*(二)『願望は欲望を含む。それは心の食欲であって、餓の身体に於ける如く自然的のものである。・・・・大多数は心の欲望を充たすことによって価値を受けるのである』ニコラス・バーボン著『新貨軽鋳論、ロック氏の貨幣価値引上論考に答う』ロンドン、一六九六年刊、第二及び三頁)。