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資本論を nyun とちゃんと読むための準備編1 「実体」とは?

ご無沙汰です!

イイね!が90を超えた!

思ったよりイイね!多くてうれしいけどどうしよう…

というと?

資本論の時代の人たちやカントとかヘーゲルとか、もっと昔の人(スピノザやロック)やもっともっと昔の人(アリストテレスとか)の話をぶっこもうとすると言葉がむつかしくなってしまう。

なるほどー

先日、かるちゃんとこんな話をしたのだけどどう思う?

某月某日、「スマホ」という歴史的概念について

ヘーゲルとMMTで資本論を挟み撃ちする感じで図式化したいのだけど、わかりやすくキレイに語るためには。。。

世界をシステムとして把握するときに、何らかの基本的カテゴリーから語り始めるしかないのだけれど、それはMMTにあっては政府支出であり、マルクスでは商品、ヘーゲルなら「存在」ということになります。

はあ

こうして比べるとMMTの「政府支出」というのはちょっと異様ですね。
それに先立って、政府という存在が分析されないといけません。

システムは動くものである以上、構造(仕組み)と動かす力がある。  

じゃあその力はなんだろうね?ってことになると、MMTにおいてそれは税であり、政府によるセルフプロビジョンであるという論理になっていると。

「政府が○○する」には「政府がある(存在する)」が先立つし、同じように「リンネルを交換する」には「リンネルがある(存在する」が先立つように、やっぱ最初はヘーゲルでいいんですよ(笑

なるほど

しかし「ある」とはどういうことか?というのはヘーゲルより前から考えられていたわけですね。

デカルトやカント…?

ヘーゲルの哲学史講義がその後弟子によってまとめられているのですが、あれはおもしろいですよ。

いわゆる存在に始まる形式的な体系としては、アリストテレスの形而上学、いろいろ飛ばしてヘーゲル直近のバークリーとカントを考えてみましょう。

はい

端折って言うと、バークリーは「存在とは知覚されるもののことである」とし、カントは「時空をアプリオリな認識カテゴリーと位置付けてわれわれはそれを介して事物を認識する」としたという感じですね。

ヘーゲルはこうした主観と客観という二項対立を拒否しようとしたのだと思われます。

この二つは別のものではなくて、互いに浸透しあうもの、的な。

たとえば現代の私たちは「スマホがあります」という文の意味を了解しますが、前世紀には意味がわかる人は一人もいなかったと思われます。

スマホってなんだってなります

iPhone の発売は2007年なんですね。
そのあとしばらくしても、まだ「スマホ」概念はなかったと思われます。

Androidがだいぶ普及してからですよね。

ところで、仮に今の観察者が2008年くらいを観測するとスマホの存在が確認できるはず。

この期間にスマホという概念が生成したのだけれど、これは主体(サブジェクト)と客体(オブジェクト)が相互に浸透した結果としての反射なんです。
かくして今の私たちは「それ」を知覚すると(見たりすると)その反射として「スマホがあるな」という概念が返ってくる。

なるほど

なんとなく意味わかりましたでしょうか?

これは、われわれがスマホ概念がある時代となかった時代の両方を知っているから語れる話なんですね。

そんな風に、昔の人が言わんとしていることを我々が理解しようとするときに、現代の知識を使うとわかりやすくなる局面は多々あるでしょう。

「ジョブズは前世紀からスマホを構想していた!」というように。

なんとなく分かりました

これから資本論を読み込んでいく作業でも、この手を使わわない理由はありません。

あとこれ自分で気づいていなかったのだけど、ぼくが語るMMTや資本論は「ポストモダン的だ」と批評されたことがあって、確かにそういうところはあるのでしょう。

そこで開き直って、その後の思想もじゃんじゃん援用していくつもりです。

何しろ、ポストモダン的社会批評はマルクス抜きに語れないと思います。さらに、マルクス主義から距離を置く反マルクス主義思想すらも、まさにそのことによってマルクスを踏まえているわけですね。

というわけで、最初に語っておきたいのがソシュールの言語学というか、丸山圭一郎によるその説明です。

「〈犬〉という語は、〈狼〉なる語が存在しない限り、狼をも指すであろう。このように語は体系に依存している。孤立した記号というものはないのである。」(『ソシュールの思想』96頁)

「それぞれ「犬」と「狼」という語で指し示される動物が、はじめから二種類に概念別されねばならぬという必然性はどこにもないのと同様に、あらゆる知覚や経験、そして森羅万象は、言語の網を通して見る以前は連続体である。(中略)また、我々にとって、太陽光線のスペクトルや虹の色が、紫、藍、青、緑、黄、橙、赤の七色から構成されているという事実ほど、客観的で普遍的な物理的現実に基づいたものはないように思われる。ところが、英語ではこの同じスペクトルを、purple、blue、green、yellow、orange、redの六色に区切るし、ローデシアの一言語であるショナ語では三色、ウバンギの一言語であるサンゴ語では二色、リベリアの一言語であるバッサ語でも、二色にしか区切らないという事実は何を物語っているのであろうか。言語はまさに、それが話されている社会にのみ共通な、経験の固有な概念化・構造化であって、各言語は一つの世界像であり、それを通して連続の現実を非連続化するプリズムであり、独自のゲシュタルトなのである。」(『ソシュールの思想』118~119頁)

次に、フッサールの『現象学の理念』から

「赤の個別的直観を一度ないし数度おこない、純粋に内在的なものを固持し、現象学的還元にとりかかるものとする。わたしは、赤がふつうに意味するところのもの、超越的に統合されて、たとえば、わたしの机のうえの吸取紙の赤、等々としてあらわれるのをきりすて、こうして純粋に直観的に赤一般という観念の意味を、類としての赤を、たとえばあれこれの赤をはなれて直観される同一の一般者を、つくりあげる。個別性そのものはもはや思念されず、あれこれの赤ではなく、赤一般が思念される。じっさいに純粋に直観的にそうしたこころみをおこなった場合に、赤一般とはなにか、それはなにを意味するのか、その本質はなにか、といったことをなおも疑うのは筋のとおったことであろうか。われわれはたしかにそれを直観していて、赤という種類がそこにあり、そこで思念されているのだ。」(『現象学の理念』87~88頁)

ここのフッサールの「純粋赤」の論じ方は、ヘーゲルの「純粋有」「純粋無」の論じ方とそっくり。

資本論のマルクスは、これとちょうど同じように「商品」という概念から「あらゆる使用価値」を取り除いてなお「残る何か」を調べています。

さて、上の図で、「狼」は「犬」でも「山犬」でも「野犬」でもないことによって「狼」と言われます。

同じことを「色」で考えます。

ある色は、「他の色でないことによってその色」であるわけですね。

何が言いたいかというと
「言語学の父」ソシュールは1857年 – 1913年の人で、ヘーゲルやマルクスからの影響関係は語られないけれど、Subject-Objectという二項対立でなく、連関と連鎖で存在を考える思考様式はヘーゲルあたりに始まっているのです。

でも、この話がどうして存在論(オントロジー)的なのかは日本語感覚ではわかりにくい。

それはこういう感じです↓

資本論にこんな図が出てきますが、似ています。

おお~

これに先立ってアリストテレスが引用されていて

「アリストテレスは『五台の寝台=一軒の家』は『五台の寝台=これこれの額の貨幣』と『違わない』と語っている。」

等置する、ということは、すなわち「違いがないということにする」という意味ですね。
different ではない、つまり右辺は左辺と「indifferent である」。

インディファレント…

MMTと資本論を繋ぐ indifference

ここで思考をMMTに飛ばすとですね。
「価格は売り手と借り手のインディファレントな水準を表す」、というのはMMTの価格理論の重要な出発点なんです。
マルクスもそうだよということ。

”markets allocating by price as they express indifference levels between buyers and sellers

これ↑はモズラーの言葉なわけだけれども、上の資本論の図の左辺、つまり「20エレのリンネル」、「1着の上着」、「10ポンドの茶」…というそれぞれは indifferent な水準で並べられいる。

だからモズラーは資本論と同じ話をしているということになる。
彼がそれに気づいていても、そうでないにしても。

indifference という言葉は、異なるモノの価値が同じになる(=差がない)ところで価格が決まるという意味で、主流経済学ではあまり出てきませんがMMTでは重要なはずなので覚えてくださいね!

はい!

というわけで「実体」の話

というわけでこんな感じだとむつかしすぎるか?

何がやりたいのかがよくわからないワンね

うん。ええとねえ。
ここは「資本論をちゃんと読む」っていうテーマでやるわけだけど、そういうテーマの本はすでにたくさんあるし、探すとサイトもぼちぼちある。
で、みんなそれなりに「ちゃんと」書こうとしているんだよね。

同じことをやっても意味ないワンね

出だしが有名なんだけど知ってるよね

なんだっけ?

「資本制生産様式が主流を占める諸社会の富は、商品の膨大な集まりとして現れる…」

うん、
そこはみんな力こぶ入れて語っているし、ぼくもそうしたい(笑

じゃあどうしよう。

序文から始めるパターンもある。けどやっぱ本文からかな。

本文の最初の節の見出しに注目!
ここが新しい(笑

節の見出し。。。

この「実体」って何でしょうね?

ご丁寧に「価値(価値実体 価値量)」とここで入れる意味は何でしょうか。

本文を読むとわかるしくみなのかな

いや、ぼくはこれ、現代のほとんどの人にはわからないと思う。

そうなの?!

たとえば宇野弘蔵という人は、「マルクスがこの節で価値の実体規定を与えているのはおかしい!」みたいな読み方をして、資本論の論理構成を独自のものに組み替えるんだよ。

そうなんだ

前にヘッドホンが教えてくれたのを引用するね。

マルクスは,価値形態論においても,したがってまた価値尺度論においても,商品はその価値を,その生産に社会的に必要とされる労働によって規定され,価値形態はそれをそのままに表示するものとして解明されなければならないとしている。貨幣の価値尺度としての機能も,価格の価値との不一致の可能性を認めながらも,価値通りに表示するものとして尺度するものと考えているのである。しかし商品経済は,マルクス自身も十分によく知っているように,価格の変動を通して価値法則を貫徹せしめるのであって,商品の価値形態も,貨幣の価値尺度機能も,かかる価格の価値を中心とした変動を容れる形態であり,機能である。それは最初から商品の価値を価値通りに表示するものとしたのでは,むしろそういう特殊の性格が見失われることになる。価値の実体論的規定を形態規定に先だって与えたことは,形態論の方法を誤ることにならざるをえなかったといってよい。

(宇野弘蔵『宇野弘蔵著作集 第九巻』岩波書店,211ページ)

一般に形態は実体あっての形態であって,先ず実体が明らかにされなければ,形態は展開されないーと考えられるであるが,しかし商品論にあっては,したがってまた資本家的商品経済を支配する経済法則を明らかにする経済学の原理論にあっては,それはむしろいわゆる本末転倒といってよい。商品経済がその商品価値の実体となすものは,単に商品経済にのみ特有なものに基くのではない。労働価値論によって価値の実体をなすものとして明らかにされる,商品の生産に社会的に必要とされる労働は,社会的に必要とされる生産物が商品形態を与えられないでも,社会的実体をなすものである。しかしまたかかる社会的実体は,それ自身として商品価値の実体をなすものとしてその形態を展開するわけではない。むしろ逆である。商品形態は,共同体と共同体との間に発生して,共同体の内部に滲透していって,それらの共同体を一社会に結合しつつ社会的実体を把握することになるのであって,形態自身はいわば外から実体を包摂し,収容するのである。もちろん形態自身にも社会的実体を包摂しうる等置関係の形式が有るのであるが,しかしそれはすでに繰り返し述べてきたように,実体をそのままに等置関係におくものではなく,貨幣を通して間接的に,しかも繰り返し行われる売買関係の内に,社会的実体を包摂する形態となるのである。それは実体をそのままに包摂する,実体あっての形態としては,決してその特殊の性質を明らかにしえないものなのである。

(宇野弘蔵『宇野弘蔵著作集 第九巻』岩波書店,212-213ページ) 

『資本論』は,第一巻の第一章商品の最初に,生産物の商品形態が主題たることを指摘し,使用価値と価値とが商品の二要因をなすことを明らかにすると直ちに価値の実体を,商品の生産によってその生産に要する労働として説くのであるが,商品の生産過程自身はここではなお解明されてはいない。また実際商品は資本と異なって生産の形態をなすものではなく,その生産過程なるものは,一般的なる生産過程を包摂する特殊形態の生産過程として説きうるものではない。マルクスは,本文に指摘したように,後に「絶対的剰余価値の生産」と題する第三篇において資本の生産過程を説くとき始めて,その篇の最初に「労働過程」を説くのである。しかしすでに第一章で商品の生産を説いているために,反ってこの「労働過程」は一般的な労働生産過程としての規定を十分には展開しえないことになっている。

(宇野弘蔵『経済原論』岩波文庫,25-26ページ)

ぼくは宇野のことをよく知らなかったのだけど、とてもユニークな人だなとは思っていて、でも、動機がよくわからなかったんです。

でも宇野がああいう独自のことができしまったのかというと、ドイツ語の Substanz という言葉の意味を完全につかみそこなったせいだなと今は思うんだよね。
ヘーゲルが使った Substanz という言葉の意味ね。

その言葉は大事なわけワンね

うん。
とくに宇野が言うような、「一般に形態は実体あっての形態であって,先ず実体が明らかにされなければ,形態は展開されないーと考えられる」ということはまったくないのよ。

観察者が「明らか」にしていようがしていなかろうが、サブスタンツは形態を変えるんです。つぼみが花になり実になるように。

そういう意味ならそうワンね

うん。
資本論の論理展開は、ヘーゲルのそれが下敷きになっているのだけど、
「価値(価値実体と価値量)」、Wert(Wertsubstanz, Wertgröße) という見出しは、この時点でそれを宣言しているようなものなんだよ。

ヘーゲルを知っている人なら一目で気づくの。
ヘーゲルのエンチクロペディー(Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse、哲学的知識体系の百科事典・要綱)という壮大な著作があるのだけど、それが下敷きなんですよ。

はー

というわけで、「価値(価値実体 価値量)」について語りたいのだけど、我々としてはそのまえに、例えばドイツ語の Substanz と日本語の「実体」という言葉には意味内容に違いが出てしまうだよね、という話を挟むことにしなければ。。。

続・資本論を「ちゃんと」読むにあたり

前回(資本論を「ちゃんと」読むにあたり)のつづき

一枚目の図、こういう図を見てみたかった!商品が持ち主を変える図!生産から流通、消費に移る、分かりやすい!

この図にないのは財政支出と税、ということになりますね。
貨幣の生産と消費?

次元を増やす感じ?垂直方向に貨幣の生産と消費の軸が追加されるイメージですかね。

サーキットセオリーという考え方がそれです

サーキットセオリー(^^)初めて聞く言葉です。

MMTの手法として紹介されてました

齋藤潤の経済バーズアイ (第87回)
新たな財政再建不要論:現代貨幣理論(MMT)

このセンセイの文はネタに使えるかも。

【MMTの貨幣論】
このように考えるのは、彼らが、主流派経済学が想定してきたものとは異なる貨幣論に立脚していることが大きく影響しています。主流派経済学は、貨幣の起源を物々交換が直面する「二重の欲望」という困難性を克服するために登場した「一般的受容性」に求めます。これは金属主義(Metallism)と呼ばれている立場です。これに対して、MMTは、貨幣の起源を、政府が発行し、それによって納税することを要求することに求めています。これは表券主義(Chartalism)と呼ばれている考え方です。このため、MMTは、しばしば新表券主義(Neo-Chartalism)とも呼ばれています。


この引用箇所、どう思いますか?

二重の欲望、とか一般的受容性とか小難しい言葉が満載で一読して意味が分かりません。

表券主義ということばは聞いたことがあります、nyunさんのブログで

一般的受容性ってもしかして、皆が価値があると思っているから貨幣は流通するという考えかなぁ。

ダメだなあと思うの「これに対して」というレトリックなんです。

金属主義というのと表券主義が対立するように扱っているからですか?

このバカが言う「一般受容性」というやつがあるものを政府が発行して納税させているという考えは、どちらに入りますかね?

両方?

そうなりますよね

なるほど

「一つに過ぎないものを分けて考えてしまう。」

スピノザ?!

まあこれはとてもよくあるバカな論法なのですが、「MMTは表券主義である」というようにそれ自体は間違いとは言い切れない小さな真実をあげつらうことによって、それとは「金属主義」なるものの「一般的受容性」を軽視しているかのようなウソをいうわけです。
マルクスだって、むしろ「信用貨幣」をちゃんと論じたほとんど最初の人の一人であるにもかかわらず「金属主義」の仲間に入れられてしまうとか。

ほんとうに学者ってバカしかいないのかな?と思ってしまうわけです。

資本論で言えば、金なり銀なりの硬貨が紙幣になり、それは記号なのだということがちゃんと書いてありますよね。その同じ考えは現代の電子マネーにも展開できるわけですよ。

そのように考えるためのとりかかりとして、熊野さんのこの図を発展させていけばいい

流通の媒介者としての姿では、金は、ありとあらゆる侮辱をこうむり、けずりとられ、そしてただの象徴的な紙切れになるまでうすくされさえした。だが貨幣としては、これにその金色の栄光がかえしあたえられる。それは奴僕から主人になる。それはただの下働きから諸商品の神となるのである。
「経済学批判」岩波文庫 p160

諸商品の交換価値がその交換過程をつうじて金貨に結晶するように、金貨は通流のなかで自分自身の象徴に昇華し、まず摩滅した金鋳貨の形態をとり、つぎには補助金属鋳貨の形態をとり、そしてついには無価値な徴票の、紙券の、つまり単なる価値表章の形態をとるのである。
同 p147

そうですね。
そして、資本論の交換過程の記述は、熊野や佐々木のような「図」を思わず書きたくなるんです。

図を描きたくなると言うとMMTもそうで、こんなのを描いていたことを懐かしく思い出します。

懐かしい(^^)これで勉強しました!

ん?

どこが似ているかと言うと、経済をインプットとアウトプットがあるシステムとして、まるっと把握しようとするホーリスティックなビューなんですね。

系、つまりシステム思考なんです。
生態系もまた「系」ですから。熊野さんの図を見て、資本論の前半を読み直してますますそう思えてきました。

そして、貨幣や商品を「記号」と見る考え方。これも新しい。
昨今流行りのグラフ理論を先取りしている感じがします。

対して経済学の考え方は、結局のところ、こうなんです。

あるいはせいぜい、こう

ここには法則がない

経済学者は、だから好きなことが言える

それぞれの「記号」が独立しているものとして解釈していいなら、解釈は無限に作れてしまいます。

なるほど

なのだけど、マルクスが新しいのはこういう感じで

システムに入ったWは必ず等価なGとつながっているとか、システムから出ていくWの前には必ず等価なGがある、みたいな。

あと。。。
「誰かの売りは誰かの買いである」
「システムを循環する金貨の量は、出入りがない限り不変」

こうした絶対事実から論理的な推論を組み立てていくのは、まさにグラフ理論的なんですよね。

なるほど〜

MMTは「民間(非政府部門)の純金融資産は、政府の累積財政赤字である」という絶対事実を出発点の一つとしますけれど、考え方が全く同じなんですよ。
現代のわれわれは、すでに整理されている「グラフ理論」などを知っているのでマルクスの文を「なるほどそういう感じか!」と理解することができるわけですが、先端を行き過ぎていると、読者が付いていけない。

マルクス自身、表現に苦心したはずなんです。

だからわれわれはマルクスを読むときは、「いつもシステムで考えている人なんだ」という意識を手放さないことが肝要だと思います。これはMMTも同じですね。

それは石倉先生が言われる「オリジナルの議論を、どこまで「一貫したもの」と把握できるのかを考え抜く態度」と同じものだと思います。

だからマルクスの言いたかったことを視覚化していくという作業が重要になるのですね

そういうことになりますね

視覚というか、幾何的な把握?
ここは本当にスピノザと通じるところがあります。

スピノザと幾何的な把握はどのように通じますか?

そもそもエチカはユークリッドの「原論」の形式で書かれているわけで。。。

それはおいおいやりましょう(笑)

かるちゃんはフーリエ変換習いました?

習ってないです

ではNMR分析は?
分子構造を解析する核磁気共鳴

学生時代にやった気がします
なんかスペクトルを解読する

それです!

たとえば純粋なエタノールだと、こういうスペクトルが観察される

今となってはなんでこうなるのか思い出せない…でも勉強した記憶はあります

このスペクトルは、もとの測定データをフーリエ変換して見やすくしたやつなんですね。変換する前のFID信号を見ても人間には何が何だかわからない。

へぇ〜

これは、同じものの「見方」を変えているだけなんです。

こういうイメージ

おおー

「時間領域を周波数領域に変換する」というのはこういうことなんですね

これがフーリエ変換!

これはフーリエ変換の一つの実用例、というわけです。

変換の本質は、あらゆる曲線は正弦波の重ね合わせで表現できる!ということでしょうね。

昔NHKのテレビでこういうのやってて見た記憶が。

上のNMRは典型的だと思いますけれど、マルクスにも見られるのは「視点」をガラリと変えて、もういちど全体を把握し直すという思考ですね。

なるほど

そうすると、「一見したところ○○」なものがぜんぜん別の相貌で「現れる」。

現代で言うと、国債は「一見したところ」財源のためということになっている

しかし!

こうやって「見る」と、国債のグロテスクな談合構造がありありと見えるわけです。

NMRはまさにそうなのですが、見方を変えて、見やすくしてからさらに細かく「見る」のですね。

たとえば、この黄色く囲ったあたりを特に「よく見る」とか

そうですね

それが科学ですよね!

ですね(^o^)

だから「主流経済学は○○観でありマルクスなりMMTは××観である」みたいな主張は、バカな非科学的妄想にしか見えないんですよ。

わざわざ一番わかりにくいビューのままで、それぞれが勝手に好きな物語をでっちあげる。

それがまっとうな議論と言えますか?

わんわんわんわんわわんわんわ

ニュんさんのスイッチが(^o^)

マルクスのデビュー作「哲学の貧困」もそうですが、「資本論」でも「経済学は自分でわざわざそのように観察したものを、自分が発見したかのように説明する」というような批判をしていて、そんな箇所に出会うと楽しくなりますね。

GとWの話に戻ると、Wの移動を「持ち主が変わった」と把握しますよね。これはとても現代的だと思います。

この図、持ち主を書いたらもっと分かりやすいのになと思ったり

わたくしもちょっと描いてみましょう

マルクスって、こういう「状態変化」的な把握をしてますよね。

ふむふむ

現代のわれわれはこういう思考に慣れているので、次のこの図にもついていけると思います。

どうですか?

Aさんが商品Wを所有していて、Bさんに4千で売った?

これはグラフ理論的な表記です。
紙幣は「記号」であり、それは当然「誰かが持っているものである」と気づいていたマルクスは、ほとんどこの理解に到達していたわけです。だから、最初からそう考えて読むべきだと思うんでよね。

「オリジナルの議論を、どこまで「一貫したもの」と把握できるのかを考え抜く」
(石倉雅男先生)

なるほど

というわけで思考を進めましょう。わたくしたちの理解では、IOUも商品でしたよね。

だからこれも理解できる

AさんがIOUを発行して、Bさんから4000受け取った

ん-
そうではなくてこのIOUは「債務証書」のつもりです。
上のAさんは「誰かの債務証書」を持っていて、それをBさんに4000で売ったことの描写です。

なるほど

資本論の交換過程のところで、リンネル織布者さんは、まず手持ちのリンネルを市場に持ち込んで2ポンド金貨を手に入れます。

はい

こうも書けます

ふむふむ

次に、その金貨で別の人から聖書を買います。
こうでしょうか

リンネル織布者さんが聖書を買いました

これからここでは、資本論をこんな感覚で読んでみようと思うんです。

マルの中の下の数字はその人の「正味のお金」ですが、マルクスが単に「お金」と言ったときに、それはこの「正味のお金」なのか、それとも「金貨」なのかをちゃんと区別するわけです。

商品としての金貨と、計算貨幣としての金貨みたいな感じですかね

好みとしては「計算貨幣」でなく「計算単位」かなあ。
とにかく図の通り(笑)

そう理解します

なるほど(^^)

図の実物側(上)と数字側(下)というか。

ふむふむ、理解できます

現代なら一般化して「(文字、数字)と表記する」とか言いそう

コンピュータのプログラミングとかでも

面白い(^^♪

ほんとに\(^o^)/

熊野さんの図は間違いじゃないけれど、つまらない

こちらはそれでいてちゃんと「系の中の金貨の量は不変」とか「数字の合計は不変」という真理を維持しているでしょう?

たしかに!

わたくしは最近、流体粒子のシミュレーションなんかもやるのですが、ほんと同じだなって思うんですよね。
粒子の性質をいくつかのパラメーターとして定義して、数字をぶち込んで、ランダムに衝突させたりするとか。

そんな、現代の工学の先端に近いところと同じ思考をマルクスはしてるぞ!としか思えない。

マルクスって天才なんだなぁ

シミュレーションで、粒子が動く「場」を考えなくてはいけないんですね。
重力場とか電場とか磁場とか。
マルクス理論では、それが mode of production 、生産様式にあたるという感じです。

なるほど

シミュレーションすると「国債をどんどん発行しましょう!」という立場をとる粒子のとこにはどんどん「数字」が集まる、みたいな。

多くの粒子は死ぬんですけどね。
(イメージです)

ひえ~( ゚Д゚)

(たぶん死ぬ粒子の側)

歴史的には矛盾に気づく粒子たちが団結して革命になるはず?

そうでないと、子供がかわいそすぎる( ;∀;)

結論からいうと「場の条件」として「生産手段の私有」を維持する限り、どうしても格差は拡大するんです。

ふむふむ

プルードン氏の言うようになるはずがない。それは法則に反しているわけで逆に悪いことが起こるか、せいぜい破滅の速度を落とすくらいで。

たとえ消費税が廃止になってもあんまり意味ないんです。

問題は生産様式、生産手段の私有にあると

というよりも、それが支配的な条件であることに多くの人が気づいていないことかなと。

たしかに、今の状態が当たり前すぎて、悪いことだと気づけないかも

経済学者のように変な思考をせずに科学的に考えるとJG以外にないと思われるんですよね

なんで反対する人がいるんか理解ができないんですよね

自分はなにも難しい事は分からないんですけど、さいしょ直観でJGいいと思ったんです。

具体例をだせとかオラついている人たちの気持ちが全然理解できないんです

なんで自分らの利益になること、権利の保障を恐れるのか

「異なる枠組みを前提にするMMTに対しては、これまでの財政再建否定論に対するのとは別の検討を必要とします。その理論的な起源にまで遡って、その議論を丁寧に吟味する必要があるように思います。」
だそうで

これはいったい

いまのは、上の 齋藤潤 センセイの締めの言葉ですが学者はこうなっちゃうわけですよ

「丁寧」だ????

わんわんわんわんんわんわんわんわん

わーにゅんさん落ち着いて~(^^)

資本論に戻りまかすか(笑

フーリエ変換ってMMTと似てるワンね。

「数字のほうのお金」は、預金とか現金とか、さまざまな IOU の重ね合わせである、とか。

確かに

本文を読み始める前にあと一回、今日説明した考え方でマルクスの「交換」を分析してみようと思いまーす

資本論を「ちゃんと」読むにあたり

「オリジナルの議論」を、どこまで「一貫したもの」と把握できるのかを考え抜くという作業は、やはり欠かせないのではないか、と今になって痛感しています

研究室訪問 経済学研究科教授 石倉雅男

 以下の引用は、昨年、つまり2020年の8月に急逝された一橋大学大学院経済学研究科の石倉雅男教授が、わたくしの若い友人であり、先生の最後の弟子のひとりであるヘッドホン氏宛ての、亡くなる二か月ほど前の 2020年6月28日 に送られたメールの内容になります。公開に当たってはヘッドホン氏の許可をいただきました。

 鈴木様

 ご連絡御礼.

 おそらく,MMTの著者たちは,マルクスは「商品貨幣論」であると理解していると思います.また,マルクス経済学を講じている多くの先生方も,『資本論』第1部で「一般的等価物」の機能が「gold」に固定化した場合について論じられているので,「gold」が本来の貨幣であるというのがマルクス自身の見解であると判断しておられると思います.
 しかし,マルクス経済学の立場をとるとしても,『資本論』第1部の論理段階に留まらないで,より具体的な次元で貨幣や金融の仕組みを考察する場合には,中央銀行・民間銀行・非銀行民間・政府などの
政府部門が関係する「決済システム」では「銀行預金」(民間銀行の負債)が決済手段として用いられること,実物資産としての「gold」と「銀行の預金債務」は性格が異なることを,ふつうに認識している人も,少なからずいます.私もそのような立場です.蛇足ながら,私自身は,『資本論』第1部第1章の商品・貨幣論から出発する場合でも,「金属貨幣」という実物資産ではなく,銀行の預金債務が決済手段として用いられる実際の取引を考察することは,十分に可能であると考えています.(このような話は,拙著の第2版のほうにも書いてあります.)
 また,(私自身はそこまで勉強できていませんが)マルクスが『資本論』第3部の利子生み資本論とか信用論で,(銀行の信用創造の仕組みを詳しく検討することまでは,マルクスは生前,出来なかったようですが),「信用貨幣」を用いた決済と言ってよい商品取引と金融取引について言及している所は,たくさんあります.マルクスの草稿を研究するためには,ドイツ語の読解能力は不可欠であると思いますが,草稿研究に従事しないかぎりは,『資本論』の原文を少し確認するくらいであれば,(私の場合には,昔の一橋大学小平分校で習った)ドイツ語入門で十分です.MMTのように中央銀行と政府部門,民間銀行,非金融民間の制度部門間の資金循環を念頭におく分析視角の検討を中心に研究を進める場合には,研究時間の配分の観点から言うと,マルクスの原文を詳しく検討する時間は,無いと思います.
 また,MMTのほか,ポストケインズ派経済学を吟味し,検討する場合には,商品貨幣論と信用貨幣論の違いという論点だけでは,問題の焦点に迫ることは難しいと思います.(ポストケインズ派経済学を長年研究している人々,たとえば,明治大学商学部名誉教授の渡辺良夫先生も,そのように言っておられました.)
 伝統的な「マルクス経済学」の教科書(―拙著は「伝統的な立場の教科書」ではないです)に書いてある古典的な「商品貨幣論」とその機械的適用[「世界貨幣は現代でも以前として金である」という類いの認識]は,実際の金融システムを検討するさいには,まったく役に立たないと私は思います.

石倉

 わたくし nyun はこの頃にヘッドホン氏と知り合い、石倉先生のお人柄やおおよその考え方を把握したうえで、おそらく近い将来にお目にかかってMMTや資本論について議論することができるだろうと予感し、その機会を楽しみにしていたものです。

 その夢は実現しませんでした。

 ただわたくしはその後の一年余りの思考を経て、今ようやく先生の知的好奇心を恐らくは大いなる驚きを持って満足させることができるだけの水準の答案が書けるようになっていると思っています。

 一言で言えば『マルクスは「商品貨幣論」である』という問いの立て方が初めから失当だっただけなのです。「商品貨幣論」という言葉は、そうではない「別の」貨幣論なるものをあらかじめ前提にしてしまっている。

 しかしマルクスにおいて「お金(Geld)」は お金(Geld) なのであって 、読者がわざわざ「商品貨幣論」と区別することはむしろその内容を台無しにしてしまう思考です。

 これは、とんでもないことです。

 『資本論』第1部第1章 で提示されている「お金(Geld)」の把握は、それどころか、「貨幣の本質は信用貨幣である」と言い募る人々の思考をはるかに超えた、掛け値なしの、史上最上級の知性によるものだったのであり、MMTの貨幣観を完全に先取りしています。

 この事情を物理学の相対性理論になぞらえると、MMTが特殊相対性理論であるとすれば、資本論は一般相対性理論に当たると言えるでしょう

 アインシュタインは光速度不変の思考実験から、特殊相対性理論を編み出し、それを一般相対性理論に「一般化」しました。(ちょうどケインズが「一般理論」において「古典派経済学」に非自発的失業を加えることで「一般化」と称したように、とも言えるでしょう)。

 MMTと資本論の論理的な関係は、これとは逆に、マルクスが「一般理論」を発見し、MMTはその「特殊理論」を再発見したという形をしているのです。

 ここで指摘しておきたいのは、通常の「科学(アインシュタインやケインズ)」とマルクスとMMTに見られるこの逆転現象は、マルクスやMMTの「わかりにくさ」の顕れであり、それはとりもなおさず「お金」というものの「掴みどころのなさ」にどうやら由来しているということです。

 掴みどころがないのは「商品」や「仕事(労働)」も同じです。

 ここで物理学の「仕事」はどうでしょうか。「力」や「座標」などが定義された後に「物体に力 F が作用し、その位置が Δx だけ変化したとき、力 F がこの物体に対してした仕事 W は W=F・Δx  である」というように、 W として定義されるのが物理学における「仕事」の一例です。

 対してマルクスはこうした考え方を採りません。そうではなく、私たちが「仕事」と呼んだり「交換」と 呼んだり 「商品」と呼んだりしているものはいったい何か?そうした「現実」から出発して、決して現実を離れない。

 だからこそ資本論は恐ろしい。

 さて、このシリーズは資本論の一文一文を丹念に読んでいくことを企図しており、さっそくそれを始めるつもりでした。

 しかし 石倉先生 の文章を拝見して「 『資本論』第1部第1章の商品・貨幣論 」に相当する部分については、あらかじめ見通しを与えておいた方が良いだろうと考えを変えることになりました。

 いったいマルクスは貨幣、お金というものををどのように把握していたのでしょうか?

 石倉先生がおっしゃられたようにオリジナルの議論を丹念に読もうとする。そうすると一貫した美しい構造が姿を現すのです。

 「お金」とは「仕事」「交換」「商品」などと呼ばれているものから浮き彫りになっていく「何か」です。

 だから、そういうわけで、まずは 「仕事」「交換」「商品」は何なのかをちゃんと考え、「お金」が導出されるところまでは見通しを付けておきたく。

 つづく

タイトル「Das Kapital」は「ザ★頭文字」?(その1)

「資本論」という日本語タイトルで知られている「Das Kapital」という本だけど

いきなり何?

日本語タイトルは「資本論」でいいのか?みたいに考えてしまって

「資本論」じゃなくて「資本」だとか言いたいのかな?

まあ、聞いて

ちょうど、こんなことを言っているヘンな人がいて

ただ、この動画はとても面白かったから見てほしい

道に財布が落ちていると、多くの人は気が付いて、ほどなく誰かに拾われる。

わんわん

ところがわざとこんな風に落としておくと?

なるほどワン

目立たせると、そのことによってむしろ「誰も拾わない」ということが起こるということワンね。

上の人は「労働でお金を作っている」というは「根本的なウソ」だという!

根本的なウソ?

人が賃労働をすると、お金をもらえますよね??

かるちゃんや Sarata さんが賃労働をすると、雇用主が労賃を発生させる。
かるちゃんや Sarata さんの口座のお金は、紛れもなく、そのことによって生まれている。

上の人、労働で未払給与が発生している、というのは頭にないんですね。

未払給与というIOU、お金ですね。

働でお金が生まれるっていうのはごく普通の感覚だと思います。

たぶん普通どうやってお金が生まれるの?って聞かれたら、大抵の人は働いたら生まれるって言うと思います。

なんというか、お金の生まれる源を限定しているように見えます。

かるちゃんはこんなこと言ってましたね

必ず明細まで渡されて、現実にその金額が通帳に載っても「それは嘘だ」と考えてしまう現象。

自分は二年前からこの話ばかりをしているのですが、いわゆる「エレファント・イン・ザ・ルーム」現象が起きています。

「エレファント・イン・ザ・ルーム」

会議室に巨大な象がいるのに、誰もその話題に触れない!っていうイディオムワンね

「エレファント・イン・ザ・ルーム」

会議室に巨大な象がいるのに、誰もその話題に触れない!っていうイディオムワンね

普段色々なIOUが生まれては消えているのに、彼らは統合政府IOUしか認めていない?見えてない。

うーん「銀行の信用創造!」とことさらに言う人は、思考がもっと狭いように思います。
日銀と民間銀行のIOUをことさらに見て、国債を軽く見ているでしょう?

ここ数日のtwitter 界隈でも、こういうのを見た。

おそらく、むらしん氏のこの発言に対して?

えええ?

うん。

だって、むらしんさんほど具体的なことを考えている人は珍しいくらいで、プロフィールに「ありあり」と書いている。

この、同じ事が Das Kapital と言う本にも起こっていると思います。

いちばんありありと書かれていることが「見えない」。

資本論もそうなの!?

うん

ドイツ語の Kapitalは英語の capital だけれど、英語でもわかるはず。
まずは、このサイトを見てごらん

資本金、以外に「首都」とか「大文字」とか「主要な部分」とか、いろんな意味があるワンね

頭金ていう言葉ももしかしてキャピタルから来てるんでしょうか

「頭金」の元の言葉はゲルマン語にしてもラテン語にしても、最初、とか前に、という感じの言葉ですね。

でも、頭金という言葉が出たので、これをネタにちょっと考えてみましょうか。

コドモ三名の学費を払うのに500万円が必要!
けど200万円しか払えない!、みたいな。

ふむふむ

コドモ三名の学費を払うのに500万円が必要!
けど200万円しか払えない!、みたいな。

銀行とかサラ金に500万円のIOUを発行して、すぐに200万円を頭金で支払って残りを毎月10万円で均等分割返済する場合のキャッシュフローが上ですね。

ふむふむ

ここで夫さんが、かるちゃんへの感謝として、へそくりとローンで指輪か何かを買ったとしましょうか。

えっ…絶対ないと断言できる

ま、買ったとしましょう

30万円の指輪として、20万円はすぐに支払えたけれど残り10万円が翌月払いになった

(30万は絶対ない…三千円ならある笑)

これを銀行の立場で見てみると

赤字と黒字を反転させて

あれ、にゃんちゃんも何か借金してます?

それぞれにいろんな事情があるワンね

にゃんちゃんは頭金なしのローンですね

なんかこれってクレジットカードのローンと似てる、というか一緒ですか。

そうですね、一緒です
もう一人増やしましょう

ソラタさんは頭金50万円で100万円借り入れして、毎月5万円返済のローンですね

これ銀行にとって、表の一つ一つの行のそれぞれが資産として誰かから受け取ったIOUですね。
だから銀行のバランスシート(貸借対照表)の「資産の部」に乗ります。

なるほど

私が500万のI-OUを発行して、それが銀行の資産になっている

私は500万の銀行I-OUつまり預金を受け取って、学費にあてる

あ、でも頭金200万は…

銀行に払うんだ

ん?

200万払わないと銀行は私のI-OUを500万も受け取ってくれないからか。

頭金200万は「設定」と思ってください。

ちょっと一瞬キャピタルの話題からずれるのですが、銀行にとってどのような資産なのかと言うと、こうです。

(ややこしくなるので金利はとりあえず無視)

これはわかりますか?

私が返済すると銀行にとっての資産は減る!

「現在価値」という概念が出てきたところでキャピタルの話に戻しましょう。

はい!

大事なのは、銀行は個別のIOUを、まとめて「貸出金」という資産として把握しているということです。
「貸出金」は個人に対してだけではないですよね。

はい!会社とか

団体?

じゃーん

たくさんの取引が日々動いています

ん?政府への貸付?国債のことですか。
自治体への貸付は県債、市債?

受け取ったIOUと言う意味ではそれらもここに含まれます。

なるほど

あ、銀行振込で政府支出する時って

小切手で払うから

この小切手も政府への貸付に入りますか

もちろん入ります。

そうだ、いま旬の話題の文書交通費。

あれ、政府は議員一人一人を介して政府は毎月一日に【月100万円×議員数】のIOUを発行しているというわけ。

なるほど

各議員は、各自の活動の中で、それを建て替え払いをして、領収書を受け取る。
その領収書は政府のIOUというわけ。

キャピタル(頭文字)の話に戻りますと。。。

こうした銀行の資産は日々変動するので、銀行は次の表のように「把握」するわけです。

ふむふむ

ちょっと一つ分かんなくて

領収書が政府のI-OUというのがいまいち飲み込めません

そうだそうだ!

黒柴にゃんも!

長男の資産である100は、かるちゃん発行のIOUであり、かるちゃんの負債ですね。

そうか!

長男が自分で100円のお菓子を買って、かるちゃんに領収書を持ってきたら?

それと同じなんです。

あ、わかった!飲み込めました!

私はその領収書を受け取らないといけませんものね

100万円の文書交通費という政府のIOUは、いったいいつ誰に発行されたかを考えると面白いですよ。

???

議員が調査活動にお金を使ったときかな?

もっと前だと考えることができます。

だって政府が「100万円×議員数」の負債を認識するのはいつでしょうか?

毎月一日?

そうか!

でも誰に?

この政府の負債は誰の資産だろうか?ということですね。

えー議員かな?

というか議員が支出した相手先?

国民全員と考えることができるわけです。

調査活動は国民の利益だからですか?

ですよね。
だって、そうでなければ国が支払う義理はないわけで。

そうか!

確かに〜

この件に関してわたしサメらしくなく冷静さを欠いていたから恥ずかしい…

対話大事ですね

あ、キャピタルの話に戻らなくては

この件、まさに価値の形態変化なんですよ。

??

たとえばですが、大石議員が何か印刷物を購入して有権者に配るとしましょう。

そういうことは、議員になっても、ならなくてもやっていたと思います。

そうですね

大石「未」議員が同じことをしたとき、「未」議員の仕事は国民のモノではないわけです。

大石さんの支援者のもの?

それは「解釈」の問題で、そう思う人もいるし、そうでない人もいる。
いずれにしても民間部門だけのやりとりということになる。

なるほど

そうですね

ところが大石議員の場合は同じことをしても、その領収書は政府がIOUとして受け取って、同額を支出することで決済しますよね。
このとき、領収書の価値形態が一瞬にして変わっているわけ。

領収書は最初、支出先の領収した証だったけど、政府が引き受けると決めたら政府のIOUになるという、このことについて価値形態が変わったと表現している?

(価値と言う言葉を使う前に)議員がそれを提出し、政府がそれを受け取った瞬間に「何か」が変わっていますよね。
何も提出しない場合と比較して。

印刷物という商品が、民間のモノから国民のモノに変わるワンね。

正確には、同じ一個人の活動の結果の「意味」が変わる。

政府支出が介在することによって…?

正確に言うと。。。

「その活動」が「国民のための活動」だったという認識がまず起こって、それが「政府支出」として記録される。
ちがいますか?

なんか以前お話があったカントのあれ

認識論でしたか
まず認識して始まるみたいなのありましたよね

ロックはまず物があります、から始まるけどそれは違うという(うろ覚え)

なるほどー、似てると言えるかも

ホッ

楽しい\(^o^)/

私も〜(^o^)

「先立つ政府支出」というものはどこにもなくて、政府、つまり主権者たる国民がその領収書を受け取り決済した時に「この議員のこの活動は国民のためのものであったということ」に、なる。

その現象をわれわれは「政府支出があった」と呼んでいるわけです。

なるほど!

あるいは言い方を変えて

「国民全員の資産」という漠然としたものが、決済の瞬間に「他ならないその議員のその活動」として、具体的なものとして「現れる」。

スピノザっぽい!気がする。

???

どういう感じ?(にゃんにも伝わるように)

エチカ第3部定理6証明から

「なぜなら、個物は神の属性をある一定の仕方で表現する様態である、(…)言いかえればそれは(…)神が存在し・活動する神の能力をある一定の仕方で表現する物である。」

自然の法則つまり神だけが実体で、その他の万物は神の表現する様態(モード)だという。神は私達のような人間の様態で表れたり、水として表れたり、太陽の光として表れたり。 

この何か大いなるものがあり、ある条件下で、あるモードとして形を伴って表れるっていうのが似てるなって

(これは泣いてしまう)

末っ子ちゃんが雨が降っていると「神様が泣いている」って言うんです

かるちゃんはどの言葉でスピノザを想起したんだろ?

現れる、かな… 

表現するっていうのと似てるから

前回のやりとり

ここで「現れる」は erscheint という語で、erscheinen という動詞です。

つながった!

資本論では、この語が Erscheinen 「出現」という名詞だったり、Erscheinungsform 、「現象形態」という形でたくさん出てくるわけです。

なるほど!
スピノザのエチカ用語だった!

もう一つ気付いたんですけどエチカに出てくる属性という言葉

「個物は神の属性をある一定の仕方で表現する様態」

一般的には実体がもつ性質を意味するそうですが、スピノザは独特の意味を込めているそうです。(100分で名著、国分功一郎さん)

人間で言えば精神に対応する「思惟」と、物体に対応する「延長」という属性を知ることができるので、一つに過ぎないものを分けて考えてしまう。

ほうほう

このところ、価値が使用価値と交換価値を二重に持っているけど、商品自体は分裂するわけじゃないっていうのと似てませんか

似てます。二通りの現れ方をしている、という感じかな。

そう!

似ているというよりも、ドイツの哲学はスピノザ解釈から出発しているところがあって、ヘーゲルもマルクスも普通にその言葉を使って議論をしているという事情ですね。

読者から見ても、こういうのを「知っている」とそういうものとして当たり前に読みとれる内容でも、「知らない」読者にはまるで分らないということになると。

それがどんなに「ありありと」書かれていたとしても、です。

そういうことだったのか!

前提となる知識がないと読み取れない

それどころか雰囲気で「こういうことだろ!」と、わかったつもりになっちゃう。
これはMMTが「インフレまで国債を発行しても大丈夫な理論だ」などと、元とはぜんぜん違う形で理解されてしまうこととそっくりなわけです。

思い出したのだけど

一番最初に岩波の資本論読んだとき、ちんぷんかんぷんだったんですよ
何が言いたいのかさっぱり分からなかった

そうだったのワンね

今見ると恥ずかしい

ひたすら恥ずかしい!

恥ずかしくないですよ。
わかろうとした人だけがだんだんわかっていくんです。
恥ずかしいってのは、こういうレベルのうちに「資本論はこうこうである」と他人に説明してしまったり、しかもそれが大学教授の立場だったりすることの方なのであって。

あと翻訳本にあほ解説を書いてしまったりわんわんわんわんわんわんわ

スイッチonしてしまった〜(^o^)

話を戻すと、「Das Kapital」は「資本論」というより「ザ★頭文字」だと思うんですよね。

イニシャルDかと思った
峠道を攻める。

よく知ってるワンね

えへへ読んだことはないけど(^o^)

Dってなんだと思いますか?

え、見当もつかないです。いま夫に聞いたらドリフトのDって。

ふふふ

それも、いち解釈ワンね

じゃーん

じつは夢、ドリームのDだったのです\(^o^)/

そうだったのかー!

「本人」がそう言っているわけでw

にゅんさん守備範囲が広すぎる!

こんな不必要な知識をほめられる日が来るとは\(^o^)/

少女マンガとかでもタイトルで伏線を張っておく、みたいのはあるじゃないですか。
それなんですよ。

なるほど

わたくしがまず思い出すのはコレ

これは「おしゃべり階段」って漫画なんですね

これもそうか

「進撃の巨人」

主人公「エレン・イェーガー」
「イェーガー」=jaeger=トウゾクカモメ=Pomarine jaeger

え、そんな意味が!

ふふふ

タイトルではなかったけど。

「頭文字D」は登場人物に説明させていましたが、「おしゃべり階段」と「進撃の巨人」は説明はない。

良く見て気づくと、なるほど。。。となるという表現です。

下のこれは「おしゃべり階段」の初回なんですが

この男の子が、左利きであることを表現されています。

ほんとだ

Das Kapital の場合は。。。

わかりますね!

アダムスミスもリカードもヘーゲルも、こういう書き方を「していない」。

あーー!!やっと分かった(遅い)

かしらもじ!

マルクスはこう書くことで表現したい「何か」があったというわけ。

それで気が付くと「ああそうか。。。」ってなる。

そういうことだったのか。なんでずっとにゅんさんが頭文字、頭文字っていってるのかやっと解りました(にぶい笑)

WーGーW

頭文字ですよ!

優れた著作というものは、二度目三度目に読む時に初めて気づくことがありますね。

そして気づいたあとは意味がまるで異なるものとして現れたり。

博覧強記の文学オタクだったマルクスはそのことをよく知っていたわけで、だからこの本は古典の引用が多用されていると。

「Das Kapita」のタイトルについてなんだけどね

Das Kapital が大きく前にあって、 Kritik der Politischen Ökonomie(政治経済学批判)という副題がついている。

1867年に出版されている。わけです。

ふんふん

そのまえに、出版を始めていたシリーズ
「Zur Kritik der Politischen Ökonomie(政治経済学批判のために)」
というのがあって、
その第一巻「Vom Kapital(資本について)」は1859年に出ている。

「経済学批判」(1859年スタート)の構成

このシリーズはどうなったのワンか?

打ち止めになった。

資本・土地所有・賃労働・国家・外国貿易・世界市場の順序で考察する大作シリーズになる予定だったけれど、その第一部「Zur Kapital」の最初の二章までで。


「Zur Kritik der Politischen Ökonomie(政治経済学批判のために)」
その
第一巻「Vom Kapital(資本について)」



「Das Kapital (資本) – Kritik der politischen Ökonomie(経済学批判)」
その
第一巻「Der Produktionsprozeß des Kapitals(資本の生産過程)」

という構成に変わったということになる。

Das Kapital が前に出てきた感じワンね

うん。

先立つ 「Zur Kritik der Politischen Ökonomie(政治経済学批判のために)」 の第一巻 「Vom Kapital(資本について)」 の中で、マルクスは W-G-W、G-W-G という定式化をしているんだよね。

そしてそこで終わっている。

中断しちゃったわけだ

そう。
マルクスは W-G-W、G-W-G のところまでを書いて「構成を変える必要がある!」とか「変えた方がいい!」ということに気付いたんだと思う。

まあ「変える」ということはそうだろうね。

項目に過ぎなかった Kapital が タイトルとして前に出たときに、Vom Kapital が Das Kapital にメタモルフォーゼしている

これはどういうことか?
ということなんだよね。

おー

「ちゃんと」読むとはどういうことか

サイト開設のごあいさつを書きたいのだけど、言いたいことは第一回のマンガに尽きているかもしれない。

言いたいこと?

世界を変える

こんなふうに?

                  第一回「豊かさ」とは?マルクス参上 より

うっとり。。。

わんわん💛

だからみんなが資本論をちゃんと読めばいいと思う

MMTはそのあとかな

でもなんか難しそう。
共産主義のバイブル、みたいな?

うん、二年前に初めて読むまではそう思っていたのだけどさ。
(はずかしならが読もうとしたことがなかった)

そうなんだ

やっぱミッチェルと大石さん

言ってたね

ただ、上の写真に nyun がいないことに象徴されると思うけれど、MMTは「主流」ではない、

(犬だから?)

ミッチェルの言うことをいちばんわかっていたのは自分だとおもうけれど、マルクスは知らなかったんだよね。これはよい経験だったと思う。

ちょうどこの頃消費税が10パーセントに上がって、コロナがやってきて、総選挙があって、給付金がどうのとかやっているよね。

そうワンね

いまわれわれはこういう状態にあるわけだ。

そうだよねえ

賭けてもいいのだけれど、MMTの人たちが言っているJGP、つまり職業保証プログラムがスタートしない限り人びとの窮乏化は止まらない。

たとえ消費税が廃止されたり、反緊縮勢力が国会の絶対多数になったととしてもね。

そんな

今の日本の窮乏化の進行はほとんど完璧に資本論で論証されていて、その通りになっているという。

MMTがあるじゃないか

それだけが希望。
考え方を変えればいいんだよ、革命的に。

だからみんな資本論を読むべき (^^)/

そういうことか(^^)/

どうやって「ちゃんと」読むのか?

どんなふうにやるの?

普通に丁寧に読んでいこうということなのだけど、スタイルとしては逐文解釈的に。


有名な、冒頭の一文を見てみると。。。

Der Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine “ungeheure Warensammlung”, die einzelne Ware als seine Elementarform.

(ドイツ語版)

英語版は、こう

The wealth of those societies in which the capitalist mode of production prevails, presents itself as an “immense accumulation of commodities”, its unit being a single commodity.

(英語版)

日本語への翻訳はいろいろあるけれど、たとえばこんなの。

資本家的生産様式が支配的である諸社会の富はひとつの‘巨大な商品の集まり’として現れ,個々の商品はかかる富の要素形態として現れる。

ふんふん

これはぜんぶ「感じ」が違う。

えー

特に日本語。
翻訳として間違っているということではなくて、思考の形が違うというか。

nyun がここで言ってた話ワンね

そうそう

ところで実は最近この動画にも感激しまして

アダムスミスは「経済学者」だったのか?の話

「アダムスミスは「経済学者」だったのか?」
大塚雄太先生

アダムスミスがこういうことを言う人だということを、普通の人は知っているだろうか?

大塚さんのご専門は、このへんだそうで

翻訳の歴史。。。
nyun の話と似てるワン

そしてここ。
レッシング!
シラー!

そのへんはわたくしもホームグラウンド\(^o^)/

そして!

古典を今の時代に生かそうということ。

それは世界を変えるということなんだよね。

nyunさん、これ動画の23分あたりなんだけど、そっくりなことやってるワン

そうなんだよ\(^o^)/

これを、マルクスでやろうということワンね

うん

ただね。

スミスの道徳感情論が出版された1759年から、マルクスの資本論の初版が出版された1867年の間には一世紀以上の開きがある。

ふんふんわんわん

上に出てきたレッシングからマルクスの哲学に至るまでにはゲーテとかカントとかシラーとかグリム兄弟とかフィヒテとかヘーゲルとか、それはそれは豪華絢爛な知の巨人が次々と現れた一世紀だったと思うんよ。

そしてナポレオンの登場や、フランス革命。
もう激動の時代。

そうワンね

nyun はもう何十年もこの時代のことを考えたり勉強してきたのだけれど、そういう基礎を土台にしてからマルクスを読み始めた犬ってめったにいないと思うんだよね。

読み書きができる犬がめったにいないワンね

そういう感覚で最初の文を読むと、いきなり何というか異様な雰囲気が漂っているわけ。

Der Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine “ungeheure Warensammlung”, die einzelne Ware als seine Elementarform.

たとえば大学とかで講義するとして、これだけで半年持たせる自信あるくらい。

どのへんだろう?

Der Reichtum もだけれど、erschent als… と言う表現の精神現象学ぽさと、sammlung と einzelne という語の対比に現れる汎神論論争ぽさと、 Elementarform の Form の形態論ぽさ。

ヘーゲルとスピノザとゲーテが見える。
もちろん、経済学者たちもね。

そうなんだ!

だけど nyun が何言ってるかぜんぜんわからないでしょ?

わんわん

自分としても、かるちゃんともう一度丁寧に読んでいくことでその辺を確認していきたいわけ。

だからどうなるかはわからないし、決めない方がいいとも思う。

数年はかかるともうけれど、難解とされているらしい冒頭の「価値形態論」をあたりを一通りちゃんと読むことが当面の目標になります。

間に合うだろうか!

「 おお、親愛なるわが友、にゃん!」

なんかスイッチ入った?

「 早急に結論を出すのは控えよう。理想世界はいつか必ずやって来るのだから 」

格調高いな

「その時は必ず来るのだから、いつでも明るく勇敢に、言葉と行為で福音を伝えてくれ」

わんわん\(^o^)/

「死が訪れる、その日まで」

えええー

今の言葉はノヴァーリスだけど、結局のところ犬が幸福に生きるってのはそうことだよなあと。

わんわん

「豊かさ」とは?マルクス登場