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月別アーカイブ: 1月 2023

コラム:「定義」と弁証法

前回のエントリにこんな感想をいただきました!

おお

自分も整理しました

マルクスは交換価値を定義せず、使用価値ではないナニカとすることで、商品の価値を全て網羅したんですね
一方、使用価値ではないナニカは、質と量という互いに直交する概念で全て網羅することができる
全てを網羅する方法は、少なくとも2種類の方法があることがここからわかります

もし交換価値を定義していたら、使用価値ではないナニカを全て網羅できず、抜け落ちるものが出てきます
何でもかんでも定義するやり方が良くないのはこの点なのですね

ただし、絶対に定義は良くないことを意味しているわけではない
使用価値は定義したものであって良い

つまり、いちど定義したならば、その定義に当てはまらないもの全体を考えなければ、全て網羅したことにならないという訳ですね

おお、ぼくの説明は成功していたようですね\(^o^)/

ここら辺は自信なかったんですけど大丈夫ですか?

「ただし、絶対に定義は良くないことを意味しているわけではない
使用価値は定義したものであって良い」

たとえば犬を定義するってよくわからないです

内包的でも外延的でも

「犬を定義する」とは考えたこともありませんでした。
どうすればいいんですか?

内包的なら共通の性質を示す、外延的なら列挙(ハスキー、芝犬、etc)

内包Intension)はある概念がもつ共通な性質のことを指し、外延extension)は具体的にどんなものがあるかを指すものである。これらは互いに対義語の関係をもつ。

Wikipedia 内包と外延

おっしゃりたいことがわかってきました。

ぼくにはこういうことと思われます。

「内包(intension)的な定義」と「外延(extension)的な定義」のイメージ

「定義」というのは、この図の四角い枠線を引く行為のことのように思われます。

犬と、犬以外のものの間に線を引くということ言いたいわけワンね。

うん、ぼくのイメージで言うと弁証法的な思考はこんな感じ。

どのような場合に「犬ではない」のかを同時に考えつつ、あいまいな境界を決めていくとか、決まっていくという感じ?

だから内包的定義、外延的定義はどんどんやってくれてかまわない。
但し、カテゴリーは発展していくのです。

んーと?

このように書くこともできるでしょう。
内包も外延も、境界を決めていく運動だよね、みたいな。

なるほどねえ

T字表記は実に便利!

弁証法の論理は、定義から出発する推論の連鎖じゃないんです。三位一体の運動が展開し発展していく感じです。

よくマルクスの言葉は定義がなくてだんだん意味が変わる!と文句を言う人がいますが変わらない方がおかしいんですよ(笑

<1-2>「商品の二つのファクター」とは?

〈1-2〉
1.Die zwei Faktoren der Ware: Gebrauchswert und Wert(Wertsubstanz, Wertgröße)
1.商品の2因子、すなわち使用価値と価値(価値実体と価値大いさ)

前回、「準備編1」と銘打って2があるかのような書き方をしたのだけれど。

資本論を nyun とちゃんと読むための準備編1 「実体」とは? – 資本論をnyunとちゃんと読む

そのあたりはブログに書いたから準備編はもういいか(笑)

 

 

 

 

「弁証法」と訳されるディアレクティークという方法について基礎的だけれども、理解されていなさそうなことについて書いているので。。。

よろしく!

それでは、じゃーん

これは。。。

Erstes Kapital (第一章)
Die Ware (商品)
1. Die zwei Faktoren der Ware: Gebrauchswert und Wert(Wertsubstanz, Wertgröße)

今回は、この太字部分の話をします。

高畠訳
商品の二因子、すなわち使用価値と価値(価値の実体と価値の大小)

向坂訳
商品の二要素 使用価値と価値(価値実体、価値の大いさ)

中山訳
商品の二つの要素:使用価値と価値(価値の実体、価値の大きさ)

大月書店
商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)

とりあえず、この節タイトルを少し分析しましょう。
「商品の二つのファクター:使用価値と価値(価値の実体、価値の大小)」
(とりあえず nyun 訳)

はい

ファクターって何でしたっけ?



えっと

要素?

では要素とは?

難しい

そのものの性質を決めるもの?

そのように要素を考えるときには何らかの「そのもの」が考えられているはずです。
ファクターに対応するものとして”Das Ganze(ダス ガンツェ)”「全体」「総体」がある。 
ファクターとは第一には、それを欠いたら「全体」ではなくなってしまう何かです。

なるほど

もうひとつファクターは複数あることが多くて、その場合、それは互いに排他なんです。
わかりますか?

質と量のように

質を考えるとき量は捨象され、量を考えるとき質は捨象されるのでしたね

そうですね。

ところで因数分解は英語で factorization ですが、たとえば「ある数 X をA×Bという排他的なファクターに分解する操作」ということです。

このときAとBは排他であり、なおかつ、どちらかを欠いたらXにはなりません。
こういうのがファクターというわけ。

なるほど

因数分解はイメージしやすいです。

ここでマルクスは「商品」を「使用価値」と「価値」の二要素に分解しているわけですが、このように、三つとか四つではなく、対極関係にある二要素に分解するのがヘーゲルの基本的な方法です。

はい

分解と逆に、その二要素を総合すると「全体」になります。

なるほど

さて、アリストテレスだったら商品の価値を「使用価値」と「交換価値」に分解するでしょう。
というか、そうしたと言えます。

なぜならば、どの物にも二つの用途があるからである。――一方の用途はその物に固有なものであるが、他方の用途は固有ではない。たとえば、靴には、一方でははくという用途と、他方では交換品としての用途とがある。両方とも靴の使用価値である。というのは、靴を、自分の持っていないもの、たとえば食物と交換する人でも、やはり靴を靴として用いるのだからである。といっても、それは靴の固有な用い方ではない。なぜならば、靴は交換のために存在するのではないからである。アリストテレス「政治学」
資本論第2章交換過程注39

これを、こう表現してみます。

簿記のT字勘定みたいワンね

実はこの表現、そこから思いついたのです。

簿記のあれは「左右の数字がバランスする」ことが前提になるという先入観があったのでMMTには使いやすいけれど資本論の表現としてどうかと思っていたのだけど。

思っていたのだけど、と

これは三位一体的な考え方とか、ヘーゲル的な思考を表現するのにぴったりじゃないか!と気づいたのです。

ヘーゲルの、有-無-成の「弁証法の始まり」をこんな風に表すといい感じ。

ふむふむ
(実はわかっていない)

ちょっと説明すると、、、
「有」と「無」はまったく別の、対極にあるものですよね

そりゃそうワン

しかし「純粋な有」を考え、また「純粋な無」を考えるとこの二つは全く同じものなんです。

ええ?

じゃあたとえば「純粋な犬という概念」を考えてみてください。
「犬が存在する」ということを突き詰めて考えるということです。
まあやってみて。

。。。

じゃあ次に「犬が純粋に存在しない」を考えてみて。
これは「犬が存在する」とまったく同じことを考えていることになる、ということがわかりませんか?

おお、確かに!

してみると「犬」とは「犬がいる(犬である)」と「犬がいない(犬ではない)」の両方を考えていくことに他ならない。
そのことによって「犬」という概念は更新されていくわけ。

うーん

まあ、慣れです。

マルクスがこのタイトルで、商品の「使用価値」と対立するものとして「交換価値」とは書かないのはなかなか味わい深いものがあります。

並べてみましょう。

ここでマルクスは、使用価値(左)と「使用価値ではない価値」(右)のことを言っているのですね。
つまり、こう。

ある商品を手に取ってみるとそこには「価格」がついているけれど、それは「使用価値」とは全く関係がない。
では何だろう?というわけですね。

「交換」を先に言いたくないわけかな。
わかってきたような。

「使用価値ではない方の価値」を ”因数分解” してみましょう。

ふむふむ

これを、上の式の「使用価値ではない価値」に「代入」します。

おぉ〜

まったくほれぼれします。
マルクスこそはヘーゲルの真の弟子ですねえ。

節タイトルの文「Die zwei Faktoren der Ware: Gebrauchswert und Wert(Wertsubstanz, Wertgröße」これを表に書き換えましょう。

これはしびれます。資本論を読んでて一番難儀するのが価値という言葉の使われ方とか整理の仕方だと思いました。この表は明快で美しいし、とても役に立ちます。

こういう三位一体の、巨大な入れ子構造が「確実な知の体系」つまり「科学そのもの」を成すわけです。

これからはこのT字表記を駆使することにしましょう。
自分もようやくこの方法にたどり着きました。

おぉ〜

タイトルの構造が読み取れれば難儀する必要は全くないんですよね。
そこがむつかしいと受け取られるとしたら、説明がよくないんです。
だってこれ以上なく明晰に、ありありと書いてある!

デカルト的な考えに見えます

そう感じる方にはヘーゲルの哲学史講義をお勧めしておきます。
あれ面白いから。

こういうのがいわゆるヘーゲル流の「論理」で、三段論法とは異なる論理だということを注意しておきましょうか。

うまく説明できないけれど、違うのです(笑

単なる要素還元とは何が違うのでしょうか?

「単なる要素還元」がちょっとピンと来ませんが、要素に還元するということは「ダス ガンツェ」がハッキリしていなくてはいけませんよね。

還元とは反対の、総合によって「ダス ガンツェ」が出来上がるという往復運動で把握するんです。

「犬」には「ワンと鳴く性質」などのファクターがあるけれど「非犬ではないもの」という全体的な把握も必要、ということとか。

あと「慣れ」も大事で、新しい思想は徐々に精神と浸透しあうんです。ヘーゲルがそんなことを言っていたと思います。

昨今のMMT的な考え方の「浸透」もぼくにはそういう感じに見えていて、だって「国債はただの政府預金調達にすぎない」みたいに言い出す人が出てきていたり。
本人は気づいていないけれど、そういうのは浸透なんですよね。 

で、後から「MMTは別に新しくない」という感じで。かつての地動説の浸透もおんなじなんですよね。コペルニクスは別に新しくない!

こう言えるかな?
現代のぼくたちが今あたりまえに「単なる要素還元」と呼んでいる思考は、デカルト~ヘーゲル時代に確立していったものなんです。

と、ここまで考えるとすごく有意義なご質問でした。
ありがとうございます。

付け加えると、要素還元思考は原子論に行き着きますよね。マルクスがそこから出発している(学位論文)のはまことに一貫しているんです。
「ちゃんと読む」ではエピクロス思想とのかかわりもちゃんとお話しできたらいいな。。。

ちょっとMMT話もしほしいワン

そうですねえ。

MMTって、貨幣という視点を取るというより、マネタリーシステムを三位一体関係の集合体として把握していると言えるでしょう。

こんなん?

マルクスやMMTに対して「言葉の定義がない」という評価をする人がいるのだけれど、こういう総体的体系把握にとって「定義」は重要ではないんですよね。
そういうところも共通しています。 

ドイツ語の科学は Wissen(知)-schaft(集合体)で、Wissenshaft です。
発展する三位一体の知の体系。

このくらいにしておこうかな…

そうだ、宇野について。
返す返すも惜しまれます。ぼくのこの説明なら「価値実体論」の意味がわかってもらえたと思うのだけど。

「価値実体」は「定義」したものじゃないんですよね。総体的な把握によって確かに見出されるもの…というわけ。
上の図のように。

なるほど
総体的な把握の意味、定義しない理由、少し理解できた気がします

慣れてきましたね。

資本論第一巻(第二版)を読む

翻訳の方針等の説明

もう一つのサブコンテンツ「資本論-MMT-ヘーゲルを三位一体で語る
「資本論をnyunとちゃんと読む」の構造
対話:「実体」概念に関して


本文

〈1-1〉
Erstes Kapital
Die Ware

第一章
商品

〈1-2〉
1.Die zwei Faktoren der Ware: Gebrauchswert und Wert(Wertsubstanz, Wertgröße)

1.商品の2因子、すなわち使用価値と価値(価値実体と価値大いさ)

<1-2> 「商品の二つのファクター」とは

〈1-3〉
[49] Der Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine “ungeheure Warensammlung” (1), die einzelne Ware als seine Elementarform. Unsere Untersuchung beginnt daher mit der Analyse der Ware.

(1) Karl Marx, “Zur Kritik der Politischen Ökonomie”, Berlin 1859, pag. 3. <Siehe Band 13, S. 15>

 資本制生産様式が支配的である社会(複数)では、富は『商品の膨大なる集積」(一)として現れ、個別の商品がその要素形態として表れている。だから我々の研究は商品の分析から始まる。

*(一)カール・マルクス『経済学批判』(べルリン、一八九五年刊、第四頁)。

〈1-3〉精読

〈1-4〉
Die Ware ist zunächst ein äußerer Gegenstand, ein Ding, das durch seine Eigenschaften menschliche -Bedürfnisse irgendeiner Art befriedigt. Die Natur dieser Bedürfnisse, ob sie z.B. dem Magen oder der Phantasie entspringen, ändert nichts an der Sache (2). Es handelt sich hier auch nicht darum, wie die Sache das menschliche Bedürfnis befriedigt, ob unmittelbar als Lebensmittel, d.h. als Gegenstand des Genusses, oder auf einem Umweg, als Produktionsmittel.

(2) Verlangen schließt Bedürfnis ein; es ist der Appetit des Geistes, und so natürlich wie Hunger für den Körper … die meisten (Dinge) haben ihren Wert daher, daß sie Bedürfnisse des Geistes befriedigen.” (Nicholas Barbon, “A Discourse on coining the new money lighter. In answer to Mr. Locke’s Considerations etc.”, London 1696, p. 2, 3.)

 商品はまずもって外界の一対象(Gegenstand)であり、その諸性質によって人類の何らかの種類の欲望を満たす物体(Ding)である。この欲望の本性(Natur)、つまりそれが胃袋から生じるものか、あるいは空想から生じるかは、ここでの分析に何等影響するものではない(二)。また、その物体がどのようにして人類の欲望を満たすものであるか、つまり直接的に生活の手段(Mittel)つまり享楽の対象としてであっても、もしくは間接的に生産の手段(Mittel)としてであっても、その違いはここの分析には影響しない。

 *(二)『願望は欲望を含む。それは心の食欲であって、身体に於ける飢えのように自然的のものである。・・・・大多数は心の欲望を充たすことによって価値を受けるのである』ニコラス・バーボン著『新貨軽鋳論、ロック氏の貨幣価値引上論考に答う』ロンドン、一六九六年刊、第二及び三頁)。 

〈1-4〉精
ニコラス・バーボンについて
「外界の一対象(Gegenstand)」について

〈1-5〉
Jedes nützliche Ding, wie Eisen, Papier usw., ist unter doppeltem Gesichtspunkt zu betrachten, nach Qualität und Quantität. Jedes solches Ding ist ein Ganzes vieler Eigenschaften und kann daher nach verschiedenen Seiten nützlich sein. Diese verschiedenen Seiten und daher die mannigfachen[49] Gebrauchsweisen der Dinge zu entdecken ist geschichtliche Tat. (3) So die Findung gesellschaftlicher Maße für die Quantität der nützlichen Dinge. Die Verschiedenheit der Warenmaße entspringt teils aus der verschiedenen Natur der zu messenden Gegenstände, teils aus Konvention.

(3) “Dinge haben einen intrinsick vertue” (dies bei Barbon die spezifische Bezeichnung für Gebrauchswert), “der überall gleich ist, so wie der des Magnets, Eisen anzuziehen” (l.c.p. 6). Die Eigenschaft des Magnets, Eisen anzuziehn, wurde erst nützlich, sobald man vermittelst derselben die magnetische Polarität entdeckt hatte. 

 鉄や紙など、それぞれ有用な物体は、二重の(doppelt)観点、つまり質と量との両面から考察される。こうした有用な物体はどれも、多くの性質がまとまった一全体(ein Ganze)であり、だからさまざまな方面に有用ということになる。これら物体のさまざまな方面の諸用途は、人類がその都度発見してきたものである(三)。有用物体の分量の社会的な公認尺度(Maß)もまたその都度決められてきたものである。商品の量を測る尺度にはさまざまなものがあるが、それは秤量される対象(Gegenstand)の本性(Natur)が多種多様であるためであり、あるいは慣習でそうなった部分もある。

*(三)「諸物は内的な効力(intrinsick vertue、これはバーボン特有の使用価値を意味する言葉である)を持っている。すなわち、どこにあっても同じ効力を持っている。たとえば磁石は鉄を引き付けるというように。」(同前、第六頁)
磁石が鉄を引きつけるという性質は、その性質自体(derselben)を通じて人が磁極性を発見して初めて有用になったのである。

〈1-5〉精読
「尺度のアポリア」について

〈1-6〉
Die Nützlichkeit eines Dings macht es zum Gebrauchswert (4). Aber diese Nützlichkeit schwebt nicht in der Luft. Durch die Eigenschaften des Warenkörpers bedingt, existiert sie nicht ohne denselben. Der Warenkörper selbst, wie Eisen, Weizen, Diamant usw., ist daher ein Gebrauchswert oder Gut. Dieser sein Charakter hängt nicht davon ab, ob die Aneignung seiner Gebrauchseigenschaften dem Menschen viel oder wenig Arbeit kostet. Bei Betrachtung der Gebrauchswerte wird stets ihre quantitative Bestimmtheit vorausgesetzt, wie Dutzend Uhren, Elle Leinwand, Tonne Eisen usw. Die Gebrauchswerte der Waren liefern das Material einer eignen Disziplin, der Warenkunde (5). Der Gebrauchswert verwirklicht sich nur im Gebrauch oder der Konsumtion. Gebrauchswerte bilden den stofflichen Inhalt des Reichtums, welches immer seine gesellschaftliche Form sei. In der von uns zu betrachtenden Gesellschaftsform bilden sie zugleich die stofflichen Träger des – Tauschwerts.

(4) “Der natürliche worth jedes Dinges besteht in seiner Eignung, die notwendigen Bedürfnisse zu befriedigen oder den Annehmlichkeiten des menschlichen Lebens zu dienen.” (John Locke, “Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest”, 1691, in “Works”, edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.) Im 17. Jahrhundert finden wir noch häufig bei englischen Schriftstellen “Worth” für Gebrauchswert und “Value” für Tauschwert, ganz im Geist einer Sprache, die es liebt, die unmittelbare Sache germanisch und die reflektierte Sache romanisch auszudrücken.
(5) In der bürgerlichen Gesellschaft herrscht die fictio juris, daß jeder Mensch als Warenkäufer eine enzyklopädische Warenkenntnis besitzt.

 物体が使用価値になるのはその有用性によってである(四)。但しこの有用性は宙に浮かんでいるのではない。この有用性は、商品体(Warenkörper)の諸性質を前提としており、それ(商品体)そのもの(denselben)を抜きに存在するものではない。それゆえ、鉄や小麦やダイヤモンドなどという商品体そのものが使用価値または財である。商品体のこのような性格は、その使用に資する諸性質の取得が人間に費やさせるところの労働の多少にはかかわりがない。使用価値を考察する際には、一ダースの時計とか一エレの亜麻布とカ一トンの鉄などのような、その量的な規定性が常に前提とされている。諸々の商品の諸々の使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する(五)。諸々の使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。諸々の使用価値は、富の社会的な形式がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。我々によって考察されねばならない社会形式においては、諸々の使用価値は同時に、素材的な担い手になっている。交換価値の担い手に。


*(四)「諸物の自然的な価値(natural worth)は、さまざまな欲望を満足させたり人間の生活に役立つなどの適性にある。」(ジョン・ロック, “利子引き下げがもたらす帰結についての諸考察(Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest)”, 1691, in “Works”, edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.)
17世紀になっても英語の文章にはしばしば、Worthを使用価値、Valueを交換価値として表している例がしばしば登場するが、これはまったく、直接的な事柄をゲルマン語で表現し、反射された事柄をローマ語で表現することを好む言語の精神によるものである。
*(五)ブルジョア社会では、商品の買い手であるすべての人が、商品に関する百科全書的な知識を持っているという法的擬制(fictio juris)が当然のこととなっている。

〈1-6〉精読
Körper(ケルパー)=「体」について

〈1-7〉
Der Tauschwert erscheint zunächst als das quantitative Verhältnis, die Proportion, worin sich Gebrauchswerte einer Art gegen Gebrauchswerte anderer Art austauschen (6), ein Verhältnis, das beständig mit Zeit und Ort wechselt. Der Tauschwert scheint daher etwas Zufälliges und rein Rela- <51> tives, ein der Ware innerlicher, immanenter Tauschwert (valeur intrinsèque) also eine contradictio in adjecto (7). Betrachten wir die Sache näher.

(6) “Der Wert besteht in dem Tauschverhältnis, das zwischen einem Ding und einem anderen, zwischen der Menge eines Erzeugnisses und der eines anderen besteht.” (Le Trosne, “De l’Intérêt Social”, [in] “Physiocrates”, éd. Daire, Paris 1846, p. 889.) 
(7) “Nichts kann einen inneren Tauschwert haben” (N. Barbon, l.c.p. 6), oder wie Butler sagt:
“Der Wert eines Dings ist grade so viel, wie es einbringen wird.” 

 交換価値は、まずもって量の関係、すなわち、ある「使用価値の一束」が別の「使用価値の一束」と交換される割合として現れる(六)。こうした量の関係は、時間や場所によって絶えず変化する。このため交換価値は、偶然的で純粋に相対的なものでありながら、商品の内的で内在的な価値(valeur intrinsèque)であるという形容矛盾(eine contradictio in adjecto)に見える(七)。この問題をもっと詳しく見てみよう。
*(六)“価値とは、あるモノと別のあるモノとの間に存在する交換関係、ある製品の量と別の製品の量との間に存在する交換関係で成り立っている。” (ル・トローヌ, “社会の利益”, [in] “Physiocrates”, éd. Daire, Paris 1846, p. 889.) 
*(七)“内なる交換価値を持つ物は存在しえない” (N. バーボン, 前掲書 6), もしくはバトラーがこう言ったように。”モノの価値は、それがもたらすものと同じだけである。” 

〈1-7〉精読

〈1-8〉
Eine gewisse Ware, ein Quarter Weizen z.B. tauscht, sich mit x Stiefelwichse oder mit y Seide oder mit z Gold usw., kurz mit andern Waren in den verschiedensten Proportionen. Mannigfache Tauschwerte also hat der Weizen statt eines einzigen. Aber da x Stiefelwichse, ebenso y Seide, ebenso z Gold usw. der Tauschwert von einem Quarter Weizen ist, müssen y Stiefelwichse, y Seide, z Gold usw. durch einander ersetzbare oder einander gleich große Tauschwerte sein. Es folgt daher erstens: Die gültigen Tauschwerte derselben Ware drücken ein Gleiches aus. Zweitens aber: Der Tauschwert kann überhaupt nur die Ausdrucksweise, die “Erscheinungsform” eines von ihm unterscheidbaren Gehalts sein.

 ある一つの商品、たとえば1クォーターの小麦は、xの靴墨や、yの絹や、zの金、などなど、要するに、自分以外の諸商品と、それぞれに異なった比率で交換される。このように、小麦は多様な(Mannigfach)交換価値を持つのであって、ただ一つの固有のそれを持つのではない。そしてxの靴墨も、yの絹も、zの金などなどは、みな1クォーターの小麦の交換価値なのだから、xの靴墨も、yの絹も、zの金などなどは、互いに置き換えることができる、もしくは互いに等しい大きさの交換価値でなけれならない。従って次のことが言える。第一に、同一の(derselben)商品の有効な交換価値たちは、一つの等しいもの(ein Gleiches)を表している。しかし第二に、およそ交換価値は、ただ、それとは区別される或る内実(Gehalt)の表現形式、「現象形態」でしかありえない。

「多様な交換価値」の図

〈1-8〉精読

〈1-9〉
Nehmen wir ferner zwei Waren, z.B. Weizen und Eisen. Welches immer ihr Austauschverhältnis, es ist stets darstellbar in einer Gleichung, worin ein gegebenes Quantum Weizen irgendeinem Quantum Eisen gleichgesetzt wird, z.B. 1 Quarter Weizen = a Ztr. Eisen. Was besagt diese Gleichung? daß ein Gemeinsames von derselben Größe in zwei verschiednen Dingen existiert, in 1 Quarter Weizen und ebenfalls in a Ztr. Eisen. Beide sind also gleich einem Dritten, das an und für sich weder das eine noch das andere ist. Jedes der beiden, soweit es Tauschwert, muß also auf dies Dritte reduzierbar sein.

 次は二つの商品を考えよう。例えば小麦と鉄だ。両者の交換の関係がどのようになっているとしても、それは常に一つの等式で表すことができる。つまり所与の小麦の数量値(Quantum)に対して、どれだけの数量値(Quantum)の鉄が等置されるかの式で表すことができる。たとえば「1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄」である。この等式(「1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄」)は何を語っているのだろうか? それは、大いさを一にする(derselben)、ある「共通なもの」(ein Gemeinsames)が、二つの違った物体のうちに存在しているということである。1 クォーターの小麦の内に、そして同じくaツェントナーの鉄の内に。小麦と鉄の両者はしたがって「ある一つの第三のもの」と等しい。この第三のもの自体は「あるもの」ではないし「別のもの」でもない。交換価値である限り、それはこうした第三のものに還元されうるのでなければならないのである。

〈1-9〉精読

〈1-10〉
Ein einfaches geometrisches Beispiel veranschauliche dies. Um den Flächeninhalt aller gradlinigen Figuren zu bestimmen und zu vergleichen, löst man sie in Dreiecke auf. Das Dreieck selbst reduziert man auf einen von seiner sichtbaren Figur ganz verschiednen Ausdruck – das halbe Produkt seiner Grundlinie mit seiner Höhe. Ebenso sind die Tauschwerte der Waren zu reduzieren auf ein Gemeinsames, wovon sie ein Mehr oder Minder darstellen.

このことは簡単な幾何学の実例で考えると明瞭になる。多数の直線で囲まれている図形の面積を計算し比較するために、それはいくつもの三角形に分割される。三角形は、その目に見える形とはまったく異なる表現─その底辺と高さの積の2分の1─に還元される。同じように、商品たちの交換価値も、その多寡を表すある「共通なもの」(Gemeinsames)に還元されるのである。

〈1-10〉精読

〈1-11〉
Dies Gemeinsame kann nicht eine geometrische, physikalische, chemische oder sonstige natürliche Eigenschaft der Waren sein. Ihre körperlichen Eigenschaften kommen überhaupt nur in Betracht, soweit selbe sie nutzbar machen, also zu Gebrauchswerten. Andererseits aber ist es grade die Abstraktion von ihren Gebrauchswerten, was das Austauschverhältnis <52> der Waren augenscheinlich charakterisiert. Innerhalb desselben gilt ein Gebrauchswert grade so viel wie jeder andre, wenn er nur in gehöriger Proportion vorhanden ist. Oder, wie der alte Barbon sagt:

“Die eine Warensorte ist so gut wie die andre, wenn ihr Tauschwert gleich groß ist. Da existiert keine Verschiedenheit oder Unterscheidbarkeit zwischen Dingen von gleich großem Tauschwert.”(8)

Als Gebrauchswerte sind die Waren vor allem verschiedner Qualität, als Tauschwerte können sie nur verschiedner Quantität sein, enthalten also kein Atom Gebrauchswert.

(8) “One sort of wares are as good as another, if the value be equal. There is no difference or distinction in things of equal value … One hundred pounds worth of lead or iron, is of as great a value as one hundred pounds worth of silver and gold.” <” … Blei oder Eisen im Werte von einhundert Pfund Sterling haben gleich großen Tauschwert wie Silber und Gold im Werte von einhundert Pfund Sterling.”> (N. Barbon, l.c.p. 53 u. 7.)

 この「共通なもの」(Gemeinsame)は、幾何学的また物理学的また化学的などの自然の性質ではありえない。その体的な諸性質が考慮されるのは、その諸性質そのもの(selbe)がそれを有用にしている限りにおいて、つまりそれを使用価値にしている限りにおいてである。他方、諸商品の使用価値を捨象するということこそが、まさに諸商品の交換関係の明白な性格である。この関係のdesselben中において、ある一つの使用価値は、ふさわしい割合でそれ自身の内部に存在すれば、他の商品とちょうど同じだけと認められるのである。かの老バーボンは言っている、

「一方の商品種類は、その交換価値が同じ大きさならば、他方の商品種類と同じである。同じ大きさの交換価値をもつ諸物のあいだには差異や区別はないのである。」(八)

 使用価値としては、諸商品は、なによりもまず、いろいろに違った質であるが、交換価値としては、諸商品はただいろいろに違った量でしかありえない。したがって一原子の使用価値すら含んではいないのである。

*(八)“One sort of wares are as good as another, if the value be equal. There is no difference or distinction in things of equal value … One hundred pounds worth of lead or iron, is of as great a value as one hundred pounds worth of silver and gold.” ” …価値100ポンドの鉛や鉄は、価値100ポンドの銀や金と同じ大いさの交換価値を持つ。”(N. Barbon, l.c.p. 53 u. 7.)

<1-11>精読

〈1-12〉
Sieht man nun vom Gebrauchswert der Warenkörper ab, so bleibt ihnen nur noch eine Eigenschaft, die von Arbeitsprodukten. Jedoch ist uns auch das Arbeitsprodukt bereits in der Hand verwandelt. Abstrahieren wir von seinem Gebrauchswert, so abstrahieren wir auch von den körperlichen Bestandteilen und Formen, die es zum Gebrauchswert machen. Es ist nicht länger Tisch oder Haus oder Garn oder sonst ein nützlich Ding. Alle seine sinnlichen Beschaffenheiten sind ausgelöscht. Es ist auch nicht länger das Produkt der Tischlerarbeit oder der Bauarbeit oder der Spinnarbeit oder sonst einer bestimmten produktiven Arbeit. Mit dem nützlichen Charakter der Arbeitsprodukte verschwindet der nützlicher Charakter der in ihnen dargestellten Arbeiten, es verschwinden also auch die verschiedenen konkreten Formen dieser Arbeiten, sie unterscheiden sich nicht länger, sondern sind allzusamt reduziert auf gleiche menschliche Arbeit, abstrakt menschliche Arbeit.

 今、その商品体から使用価値を捨象して観察すれば、そこに残るのは、それが労働の生産物であるという性質だけである。とは言え、この労働生産物も、われわれの手の内ですでに変えられている。労働生産物の使用価値を捨象するならば、それを使用価値にしている物体的な諸成分や諸形態をも捨象することになるのだ。その商品は、もはや机や家や糸やその他の有用な物体ではない。労働生産物の感覚的性状はすべて消し去られている。それはまた、指物労働や建築労働や紡績労働やその他の特定の生産的労働の生産物でも最早ない。労働生産物の有用性と共に労働生産物に表わされている労働の有用性は消え去り、したがってまたこれらの労働のいろいろな具体的形態も消え去り、これらの労働はもはや互いに区別されることなく、すべてことごとく、相等しい(gleiche)人間の労働に、抽象人間労働に、還元されているのである。

<1-12>精読

〈1-13〉
Betrachten wir nun das Residuum der Arbeitsprodukte. Es ist nichts von ihnen übriggeblieben als dieselbe gespenstige Gegenständlichkeit, eine bloße Gallerte unterschiedsloser menschlicher Arbeit, d.h. der Verausgabung menschlicher Arbeitskraft ohne Rücksicht auf die Form ihrer Verausgabung. Diese Dinge stellen nur noch dar, daß in ihrer Produktion menschliche Arbeitskraft verausgabt, menschliche Arbeit aufgehäuft ist. Als Kristalle dieser ihnen gemeinschaftlichen Substanz sind sie Werte – Warenwerte.

 では、これらの労働生産物の残滓を検討しよう。それらに残っているものは、まぼろしのような、持続する(dieselbe)対象性(Gegenständlichkeit)だけであり、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出のただの凝固物のほかにはなにもない。この物体が表わしているのは、ただ、その生産に人間労働力が支出され、人間労働が積み上げられたということだけだ。こうした、これらに共通の社会的(gemeinschaftlichen実体の結晶として、それは価値─商品価値なのである。

<1-13>精読
価値対象性あれこれ

〈1-14〉
<53> Im Austauschverhältnis der Waren selbst erschien uns ihr Tauschwert als etwas von ihren Gebrauchswerten durchaus Unabhängiges. Abstrahiert man nun wirklich vom Gebrauchswert der Arbeitsprodukte, so erhält man ihren Wert, wie er eben bestimmt ward. Das Gemeinsame, was sich im Austauschverhältnis oder Tauschwert der Ware darstellt, ist also ihr Wert. Der Fortgang der Untersuchung wird uns zurückführen zum Tauschwert als der notwendigen Ausdrucksweise oder Erscheinungsform des Werts, welcher zunächst jedoch unabhängig von dieser Form zu betrachten ist.

 上記の交換関係において、諸商品の交換価値は、使用価値とはまったくかかわりのない何かとしてわれわれの前に現れた。そこで労働生産物から使用価値を捨象してみたところ、その結果、いま上に規定したように、その価値が得られた。ゆえに、諸商品の交換関係および諸商品の交換価値のうちに表されている「共通のもの」は、商品の価値である。この研究がもう少し進んだあと、われわれは、価値の必然的な表現形式または現象形態としての交換価値に連れ戻されるであろう。しかしこの価値は、さしあたりはまずそうした形態にはかかわりなしに考察されなければならない。

<1-14>精読

〈1-15〉
Ein Gebrauchswert oder Gut hat also nur einen Wert, weil abstrakt menschliche Arbeit in ihm vergegenständlicht oder materialisiert ist. Wie nun die Größe seines Werts messen? Durch das Quantum der in ihm enthaltenen “wertbildenden Substanz”, der Arbeit. Die Quantität der Arbeit selbst mißt sich an ihrer Zeitdauer, und die Arbeitszeit besitzt wieder ihren Maßstab an bestimmten Zeitteilen, wie Stunde, Tag usw.

 このように、ある一つの使用価値または財の価値はただ一つの値を持つ。それはそこに抽象的な人間労働が対象化され、物質化されているからである。では、その価値の大いさ(Größe)はどのように測られるのだろうか。それは、それらの中に含まれる「価値形成の実体」である労働の、その数量値(Quantum)を通じてである。労働の量(Quantität)は、その経過時間で比較されるが、労働時間もまた、一時間、一日など、ある特定の幅の度量標準を持っている。

<1-15>精読

〈1-16〉
Es könnte scheinen, daß, wenn der Wert einer Ware durch das während ihrer Produktion verausgabte Arbeitsquantum bestimmt ist, je fauler oder ungeschickter ein Mann, desto wertvoller seine Ware, weil er desto mehr Zeit zu ihrer Verfertigung braucht. Die Arbeit jedoch, welche die Substanz der Werte bildet, ist gleiche menschliche Arbeit, Verausgabung derselben menschlichen Arbeitskraft. Die gesamte Arbeitskraft der Gesellschaft, die sich in den Werten der Warenwelt darstellt, gilt hier als eine und dieselbe menschliche Arbeitskraft, obgleich sie aus zahllosen individuellen Arbeitskräften besteht. Jede dieser individuellen Arbeitskräfte ist dieselbe menschliche Arbeitskraft wie die andere, soweit sie den Charakter einer gesellschaftlichen Durchschnitts-Arbeitskraft besitzt und als solche gesellschaftliche Durchschnitts-Arbeitskraft wirkt, also in der Produktion einer Ware auch nur die im Durchschnitt notwendige oder gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit braucht. Gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit ist Arbeitszeit, erheischt, um irgendeinen Gebrauchswert mit den vorhandenen gesellschaftlich-normalen Produktionsbedingungen und dem gesellschaftlichen Durchschnittsgrad von Geschick und Intensität der Arbeit darzustellen. Nach der Einführung des Dampfwebstuhls in England z.B. genügte vielleicht halb so viel Arbeit als vorher, um ein gegebenes Quantum Garn in Gewebe zu verwandeln. Der englische Handweber brauchte zu dieser Verwandlung in der Tat nach wie vor dieselbe Arbeitszeit, aber das Produkt seiner individuellen Arbeitsstunde stellte jetzt nur noch eine halbe gesellschaftliche Arbeitsstunde dar und fiel daher auf die Hälfte seines frühern Werts.

次のように思われるかもしれない。ある商品の価値が、その生産に費やされる労働の数量値(Arbeitsquantum)によって決まるのであれば、怠け者や不器用な人など、その商品の製造にはより多くの時間が必要となるので、その商品の価値はより高くなるのでは、と。ところが、この労働、価値の実体を構成する労働は、相等しい(gleiche)人間の労働であり、人間労働力の一定の(dieselbe)支出なのである。社会の労働力全体、商品世界の価値に表現されるそれは、ひとかたまりで(eine)なおかつ(und)一定出力の(dieselbe)人間労働力なのである。それは無数の個別労働力で構成されているのであるが。その個々の労働力は、他と同じの、同一出力の人間労働力である。これ(個々の労働力)は社会の平均的な労働力という性格をもち、社会的平均労働力として機能するのだから、ある一つの商品の生産に必要ということになるのは、平均として求められる、社会的に求められる労働時間だけなのだ。社会的に求められる労働時間であるが、これは、何らかの使用価値を、現存する社会的に正常な生産条件と、社会的に平均的な熟練度と強度でもって表す(darstellen)ところの労働時間である。たとえば、イギリスで蒸気織機が導入された後、ある特定の数量値(Quantum)の糸を織物に変えるのに必要な労働時間は、それ以前の約半分になった。イギリスの織工たちは、糸を織物に加工するために以前と同じ(dieselbe)労働時間を要したが、彼の一時間あたりの労働の生産物は、今や社会的労働時間の半分を表す(darstellen)に過ぎず、したがって、価値は以前の半分である。

<1-16>精読

〈1-17〉
<54> Es ist also nur das Quantum gesellschaftlich notwendiger Arbeit oder die zur Herstellung eines Gebrauchswerts gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit, welche seine Wertgröße bestimmt (9). Die einzelne Ware gilt hier überhaupt als Durchschnittsexemplar ihrer Art (10). Waren, worin gleich große Arbeitsquanta enthalten sind oder die in derselben Arbeitszeit hergestellt werden können, haben daher dieselbe Wertgröße. Der Wert einer Ware verhält sich zum Wert jeder andren Ware wie die zur Produktion der einen notwendige Arbeitszeit zu der für die Produktion der andren notwendigen Arbeitszeit. “Als Werte sind alle Waren nur bestimmte Maße festgeronnener Arbeitszeit.”(11)

(9) Note zur 2. Ausg. “The value of them (the necessaries of life) when they are exchagend the one for another, is regulated by the quantity of labour necessarily required, and commonly taken in producing them.” “Der Wert von Gebrauchsgegenständen, sobald sie gegeneinander ausgetauscht werden, ist bestimmt durch das Quantum der zu ihrer Produktion notwendig erheischten und gewöhnlich angewandten Arbeit.” (“Some Thoughts on the Interest of Money in general, and particularly in the Public funds etc.”, London, p. 36, 37.) Diese merkwürdige anonyme Schrift des vorigen Jahrhunderts trägt kein Datum. Es geht jedoch aus ihrem Inhalt hervor, daß sie unter Georg II., etwa 1739 oder 1740, erschienen ist.
(10) “Alle Erzeugnisse der gleichen Art bilden eigentlich nur eine Masse, deren Preis allgemein und ohne Rücksicht auf die besonderen Umstände bestimmt wird.”
(11) K. Marx, l.c.p.6. <Siehe Band 13, S. 18>

仮訳
だから、社会的に求められる労働の数量値(Quantum)、もしくは、ある使用価値の生産のために社会的に求められる労働時間だけが、そのの価値の大きさ(Wertgröße)を規定している。個々の商品は、ここでは一般にその商品が属する種類の平均的なサンプルということになっているのだ。相等しい大きさの労働数量値を持つ商品同士、つまり、同じ労働時間で生産されることのできる商品同士は、したがって同じ大いさの価値をもっている。ある特定の商品の価値が他の別の商品と関係する仕方(=比率)は、当該の商品の生産に必要な労働時間が、他の別の商品の生産のために求められる労働時間と関係する仕方(=比率)と同じである。「価値としてのすべての商品は、単に凝固した労働時間の一定量であるだけだ。」(11)

〈1-18〉
Die Wertgröße einer Ware bliebe daher konstant, wäre die zu ihrer Produktion erheischte Arbeitszeit konstant. Letztere wechselt aber mit jedem Wechsel in der Produktivkraft der Arbeit. Die Produktivkraft der Arbeit ist durch mannigfache Umstände bestimmt, unter anderen durch den Durchschnittsgrad des Geschickes der Arbeiter, die Entwicklungsstufe der Wissenschaft und ihrer technologischen Anwendbarkeit, die gesellschaftliche Kombination des Produktionsprozesses, den Umfang und die Wirkungsfähigkeit der Produktionsprozesses, und durch Naturverhältnisse. Dasselbe Quantum Arbeit stellt sich z.B. mit günstiger Jahreszeit in 8 Bushel Weizen dar, mit ungünstiger in nur 4. Dasselbe Quantum Arbeit liefert mehr Metalle in reichhaltigen als in armen Minen usw. Diamanten kommen selten in der Erdrinde vor, und ihre Findung kostet daher im Durchschnitt viel Arbeitszeit. Folglich stellen sie in wenig Volumen viel Arbeit dar. Jacob bezweifelt, daß Gold jemals seinen vollen Wert bezahlt <55> hat. Noch mehr gilt dies vom Diamant. Nach Eschwege hatte 1823 die achtzigjährige Gesamtausbeute der brasilischen Diamantgruben noch nicht den Preis des 11/2jährigen Durchschnittsprodukts der brasilischen Zucker oder Kaffeepflanzungen erreicht, obgleich sie viel mehr Arbeit darstellte, also mehr Wert. Mit reichhaltigeren Gruben würde dasselbe Arbeitsquantum sich in mehr Diamanten darstellen und ihr Wert sinken. Gelingt es, mit wenig Arbeit Kohle in Diamant zu verwandeln, so kann sein Wert unter den von Ziegelsteinen fallen. Allgemein: Je größer die Produktivkraft der Arbeit, desto kleiner die zur Herstellung eines Artikels erheischte Arbeitszeit, desto kleiner die in ihm kristallisierte Arbeitsmasse, desto kleiner sein Wert. Umgekehrt, je kleiner die Produktivkraft der Arbeit, desto größer die zur Herstellung eines Artikels notwendige Arbeitszeit, desto größer sein Wert. Die Wertgröße einer Ware wechselt also direkt wie das Quantum und umgekehrt wie die Produktivkraft der sich in ihr verwirklichenden Arbeit. <1. Auflage folgt: Wir kennen jetzt die Substanz des Werts. Es ist die Arbeit. Wir kennen sein Größenmaß. Es ist die Arbeitszeit. Seine Form, die den Wert eben zum Tausch-Wert stempelt, bleibt zu analysieren. Vorher jedoch sind die bereits gefundenen Bestimmungen etwas näher zu entwickeln.>

〈1-19〉
Ein Ding kann Gebrauchswert sein, ohne Wert zu sein. Es ist dies der Fall, wenn sein Nutzen für den Menschen nicht durch Arbeit vermittelt ist. So Luft, jungfräulicher Boden, natürliche Wiesen, wildwachsendes Holz usw. Ein Ding kann nützlich und Produkt menschlicher Arbeit sein, ohne Ware zu sein. Wer durch sein Produkt sein eignes Bedürfnis befriedigt, schafft zwar Gebrauchswert, aber nicht Ware. Um Ware zu produzieren, muß er nicht nur Gebrauchswert produzieren, sondern Gebrauchswert für andre, gesellschaftliche Gebrauchswert. {Und nicht nur für andre schlechthin. Der mittelalterlichen Bauer produzierte das Zinskorn für den Feudalherrn, das Zehntkorn für den Pfaffen. Aber weder Zinskorn noch Zehnkorn wurden dadurch Ware, daß sie für andre produziert waren. Um Ware zu werden, muß das Produkt dem andern, dem es als Gebrauchswert dient, durch den Austausch übertragen werden.}(11a) Endlich kann kein Ding Wert sein, ohne Gebrauchsgegenstand zu sein. Ist es nutzlos, so ist auch die in ihm enthaltene Arbeit nutzlos, zählt nicht als Arbeit und bildet daher keinen Wert.

(11a) Note zur 4. Aufl. – Ich schiebe das Eingeklammerte ein, weil durch dessen Weglassung sehr häufig das Mißverständnis entstanden, jedes Produkt, das von einem andern als dem Produzenten konsumiert wird, gelte bei Marx als Ware. – F. E.

資本論を nyun とちゃんと読むための準備編1 「実体」とは?

ご無沙汰です!

イイね!が90を超えた!

思ったよりイイね!多くてうれしいけどどうしよう…

というと?

資本論の時代の人たちやカントとかヘーゲルとか、もっと昔の人(スピノザやロック)やもっともっと昔の人(アリストテレスとか)の話をぶっこもうとすると言葉がむつかしくなってしまう。

なるほどー

先日、かるちゃんとこんな話をしたのだけどどう思う?

某月某日、「スマホ」という歴史的概念について

ヘーゲルとMMTで資本論を挟み撃ちする感じで図式化したいのだけど、わかりやすくキレイに語るためには。。。

世界をシステムとして把握するときに、何らかの基本的カテゴリーから語り始めるしかないのだけれど、それはMMTにあっては政府支出であり、マルクスでは商品、ヘーゲルなら「存在」ということになります。

はあ

こうして比べるとMMTの「政府支出」というのはちょっと異様ですね。
それに先立って、政府という存在が分析されないといけません。

システムは動くものである以上、構造(仕組み)と動かす力がある。  

じゃあその力はなんだろうね?ってことになると、MMTにおいてそれは税であり、政府によるセルフプロビジョンであるという論理になっていると。

「政府が○○する」には「政府がある(存在する)」が先立つし、同じように「リンネルを交換する」には「リンネルがある(存在する」が先立つように、やっぱ最初はヘーゲルでいいんですよ(笑

なるほど

しかし「ある」とはどういうことか?というのはヘーゲルより前から考えられていたわけですね。

デカルトやカント…?

ヘーゲルの哲学史講義がその後弟子によってまとめられているのですが、あれはおもしろいですよ。

いわゆる存在に始まる形式的な体系としては、アリストテレスの形而上学、いろいろ飛ばしてヘーゲル直近のバークリーとカントを考えてみましょう。

はい

端折って言うと、バークリーは「存在とは知覚されるもののことである」とし、カントは「時空をアプリオリな認識カテゴリーと位置付けてわれわれはそれを介して事物を認識する」としたという感じですね。

ヘーゲルはこうした主観と客観という二項対立を拒否しようとしたのだと思われます。

この二つは別のものではなくて、互いに浸透しあうもの、的な。

たとえば現代の私たちは「スマホがあります」という文の意味を了解しますが、前世紀には意味がわかる人は一人もいなかったと思われます。

スマホってなんだってなります

iPhone の発売は2007年なんですね。
そのあとしばらくしても、まだ「スマホ」概念はなかったと思われます。

Androidがだいぶ普及してからですよね。

ところで、仮に今の観察者が2008年くらいを観測するとスマホの存在が確認できるはず。

この期間にスマホという概念が生成したのだけれど、これは主体(サブジェクト)と客体(オブジェクト)が相互に浸透した結果としての反射なんです。
かくして今の私たちは「それ」を知覚すると(見たりすると)その反射として「スマホがあるな」という概念が返ってくる。

なるほど

なんとなく意味わかりましたでしょうか?

これは、われわれがスマホ概念がある時代となかった時代の両方を知っているから語れる話なんですね。

そんな風に、昔の人が言わんとしていることを我々が理解しようとするときに、現代の知識を使うとわかりやすくなる局面は多々あるでしょう。

「ジョブズは前世紀からスマホを構想していた!」というように。

なんとなく分かりました

これから資本論を読み込んでいく作業でも、この手を使わわない理由はありません。

あとこれ自分で気づいていなかったのだけど、ぼくが語るMMTや資本論は「ポストモダン的だ」と批評されたことがあって、確かにそういうところはあるのでしょう。

そこで開き直って、その後の思想もじゃんじゃん援用していくつもりです。

何しろ、ポストモダン的社会批評はマルクス抜きに語れないと思います。さらに、マルクス主義から距離を置く反マルクス主義思想すらも、まさにそのことによってマルクスを踏まえているわけですね。

というわけで、最初に語っておきたいのがソシュールの言語学というか、丸山圭一郎によるその説明です。

「〈犬〉という語は、〈狼〉なる語が存在しない限り、狼をも指すであろう。このように語は体系に依存している。孤立した記号というものはないのである。」(『ソシュールの思想』96頁)

「それぞれ「犬」と「狼」という語で指し示される動物が、はじめから二種類に概念別されねばならぬという必然性はどこにもないのと同様に、あらゆる知覚や経験、そして森羅万象は、言語の網を通して見る以前は連続体である。(中略)また、我々にとって、太陽光線のスペクトルや虹の色が、紫、藍、青、緑、黄、橙、赤の七色から構成されているという事実ほど、客観的で普遍的な物理的現実に基づいたものはないように思われる。ところが、英語ではこの同じスペクトルを、purple、blue、green、yellow、orange、redの六色に区切るし、ローデシアの一言語であるショナ語では三色、ウバンギの一言語であるサンゴ語では二色、リベリアの一言語であるバッサ語でも、二色にしか区切らないという事実は何を物語っているのであろうか。言語はまさに、それが話されている社会にのみ共通な、経験の固有な概念化・構造化であって、各言語は一つの世界像であり、それを通して連続の現実を非連続化するプリズムであり、独自のゲシュタルトなのである。」(『ソシュールの思想』118~119頁)

次に、フッサールの『現象学の理念』から

「赤の個別的直観を一度ないし数度おこない、純粋に内在的なものを固持し、現象学的還元にとりかかるものとする。わたしは、赤がふつうに意味するところのもの、超越的に統合されて、たとえば、わたしの机のうえの吸取紙の赤、等々としてあらわれるのをきりすて、こうして純粋に直観的に赤一般という観念の意味を、類としての赤を、たとえばあれこれの赤をはなれて直観される同一の一般者を、つくりあげる。個別性そのものはもはや思念されず、あれこれの赤ではなく、赤一般が思念される。じっさいに純粋に直観的にそうしたこころみをおこなった場合に、赤一般とはなにか、それはなにを意味するのか、その本質はなにか、といったことをなおも疑うのは筋のとおったことであろうか。われわれはたしかにそれを直観していて、赤という種類がそこにあり、そこで思念されているのだ。」(『現象学の理念』87~88頁)

ここのフッサールの「純粋赤」の論じ方は、ヘーゲルの「純粋有」「純粋無」の論じ方とそっくり。

資本論のマルクスは、これとちょうど同じように「商品」という概念から「あらゆる使用価値」を取り除いてなお「残る何か」を調べています。

さて、上の図で、「狼」は「犬」でも「山犬」でも「野犬」でもないことによって「狼」と言われます。

同じことを「色」で考えます。

ある色は、「他の色でないことによってその色」であるわけですね。

何が言いたいかというと
「言語学の父」ソシュールは1857年 – 1913年の人で、ヘーゲルやマルクスからの影響関係は語られないけれど、Subject-Objectという二項対立でなく、連関と連鎖で存在を考える思考様式はヘーゲルあたりに始まっているのです。

でも、この話がどうして存在論(オントロジー)的なのかは日本語感覚ではわかりにくい。

それはこういう感じです↓

資本論にこんな図が出てきますが、似ています。

おお~

これに先立ってアリストテレスが引用されていて

「アリストテレスは『五台の寝台=一軒の家』は『五台の寝台=これこれの額の貨幣』と『違わない』と語っている。」

等置する、ということは、すなわち「違いがないということにする」という意味ですね。
different ではない、つまり右辺は左辺と「indifferent である」。

インディファレント…

MMTと資本論を繋ぐ indifference

ここで思考をMMTに飛ばすとですね。
「価格は売り手と借り手のインディファレントな水準を表す」、というのはMMTの価格理論の重要な出発点なんです。
マルクスもそうだよということ。

”markets allocating by price as they express indifference levels between buyers and sellers

これ↑はモズラーの言葉なわけだけれども、上の資本論の図の左辺、つまり「20エレのリンネル」、「1着の上着」、「10ポンドの茶」…というそれぞれは indifferent な水準で並べられいる。

だからモズラーは資本論と同じ話をしているということになる。
彼がそれに気づいていても、そうでないにしても。

indifference という言葉は、異なるモノの価値が同じになる(=差がない)ところで価格が決まるという意味で、主流経済学ではあまり出てきませんがMMTでは重要なはずなので覚えてくださいね!

はい!

というわけで「実体」の話

というわけでこんな感じだとむつかしすぎるか?

何がやりたいのかがよくわからないワンね

うん。ええとねえ。
ここは「資本論をちゃんと読む」っていうテーマでやるわけだけど、そういうテーマの本はすでにたくさんあるし、探すとサイトもぼちぼちある。
で、みんなそれなりに「ちゃんと」書こうとしているんだよね。

同じことをやっても意味ないワンね

出だしが有名なんだけど知ってるよね

なんだっけ?

「資本制生産様式が主流を占める諸社会の富は、商品の膨大な集まりとして現れる…」

うん、
そこはみんな力こぶ入れて語っているし、ぼくもそうしたい(笑

じゃあどうしよう。

序文から始めるパターンもある。けどやっぱ本文からかな。

本文の最初の節の見出しに注目!
ここが新しい(笑

節の見出し。。。

この「実体」って何でしょうね?

ご丁寧に「価値(価値実体 価値量)」とここで入れる意味は何でしょうか。

本文を読むとわかるしくみなのかな

いや、ぼくはこれ、現代のほとんどの人にはわからないと思う。

そうなの?!

たとえば宇野弘蔵という人は、「マルクスがこの節で価値の実体規定を与えているのはおかしい!」みたいな読み方をして、資本論の論理構成を独自のものに組み替えるんだよ。

そうなんだ

前にヘッドホンが教えてくれたのを引用するね。

マルクスは,価値形態論においても,したがってまた価値尺度論においても,商品はその価値を,その生産に社会的に必要とされる労働によって規定され,価値形態はそれをそのままに表示するものとして解明されなければならないとしている。貨幣の価値尺度としての機能も,価格の価値との不一致の可能性を認めながらも,価値通りに表示するものとして尺度するものと考えているのである。しかし商品経済は,マルクス自身も十分によく知っているように,価格の変動を通して価値法則を貫徹せしめるのであって,商品の価値形態も,貨幣の価値尺度機能も,かかる価格の価値を中心とした変動を容れる形態であり,機能である。それは最初から商品の価値を価値通りに表示するものとしたのでは,むしろそういう特殊の性格が見失われることになる。価値の実体論的規定を形態規定に先だって与えたことは,形態論の方法を誤ることにならざるをえなかったといってよい。

(宇野弘蔵『宇野弘蔵著作集 第九巻』岩波書店,211ページ)

一般に形態は実体あっての形態であって,先ず実体が明らかにされなければ,形態は展開されないーと考えられるであるが,しかし商品論にあっては,したがってまた資本家的商品経済を支配する経済法則を明らかにする経済学の原理論にあっては,それはむしろいわゆる本末転倒といってよい。商品経済がその商品価値の実体となすものは,単に商品経済にのみ特有なものに基くのではない。労働価値論によって価値の実体をなすものとして明らかにされる,商品の生産に社会的に必要とされる労働は,社会的に必要とされる生産物が商品形態を与えられないでも,社会的実体をなすものである。しかしまたかかる社会的実体は,それ自身として商品価値の実体をなすものとしてその形態を展開するわけではない。むしろ逆である。商品形態は,共同体と共同体との間に発生して,共同体の内部に滲透していって,それらの共同体を一社会に結合しつつ社会的実体を把握することになるのであって,形態自身はいわば外から実体を包摂し,収容するのである。もちろん形態自身にも社会的実体を包摂しうる等置関係の形式が有るのであるが,しかしそれはすでに繰り返し述べてきたように,実体をそのままに等置関係におくものではなく,貨幣を通して間接的に,しかも繰り返し行われる売買関係の内に,社会的実体を包摂する形態となるのである。それは実体をそのままに包摂する,実体あっての形態としては,決してその特殊の性質を明らかにしえないものなのである。

(宇野弘蔵『宇野弘蔵著作集 第九巻』岩波書店,212-213ページ) 

『資本論』は,第一巻の第一章商品の最初に,生産物の商品形態が主題たることを指摘し,使用価値と価値とが商品の二要因をなすことを明らかにすると直ちに価値の実体を,商品の生産によってその生産に要する労働として説くのであるが,商品の生産過程自身はここではなお解明されてはいない。また実際商品は資本と異なって生産の形態をなすものではなく,その生産過程なるものは,一般的なる生産過程を包摂する特殊形態の生産過程として説きうるものではない。マルクスは,本文に指摘したように,後に「絶対的剰余価値の生産」と題する第三篇において資本の生産過程を説くとき始めて,その篇の最初に「労働過程」を説くのである。しかしすでに第一章で商品の生産を説いているために,反ってこの「労働過程」は一般的な労働生産過程としての規定を十分には展開しえないことになっている。

(宇野弘蔵『経済原論』岩波文庫,25-26ページ)

ぼくは宇野のことをよく知らなかったのだけど、とてもユニークな人だなとは思っていて、でも、動機がよくわからなかったんです。

でも宇野がああいう独自のことができしまったのかというと、ドイツ語の Substanz という言葉の意味を完全につかみそこなったせいだなと今は思うんだよね。
ヘーゲルが使った Substanz という言葉の意味ね。

その言葉は大事なわけワンね

うん。
とくに宇野が言うような、「一般に形態は実体あっての形態であって,先ず実体が明らかにされなければ,形態は展開されないーと考えられる」ということはまったくないのよ。

観察者が「明らか」にしていようがしていなかろうが、サブスタンツは形態を変えるんです。つぼみが花になり実になるように。

そういう意味ならそうワンね

うん。
資本論の論理展開は、ヘーゲルのそれが下敷きになっているのだけど、
「価値(価値実体と価値量)」、Wert(Wertsubstanz, Wertgröße) という見出しは、この時点でそれを宣言しているようなものなんだよ。

ヘーゲルを知っている人なら一目で気づくの。
ヘーゲルのエンチクロペディー(Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse、哲学的知識体系の百科事典・要綱)という壮大な著作があるのだけど、それが下敷きなんですよ。

はー

というわけで、「価値(価値実体 価値量)」について語りたいのだけど、我々としてはそのまえに、例えばドイツ語の Substanz と日本語の「実体」という言葉には意味内容に違いが出てしまうだよね、という話を挟むことにしなければ。。。