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〈1-15〉Ein Gebrauchswert oder Gut hat also nur einen Wert, …

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〈1-15〉

Ein Gebrauchswert oder Gut hat also nur einen Wert, weil abstrakt menschliche Arbeit in ihm vergegenständlicht oder materialisiert ist. Wie nun die Größe seines Werts messen? Durch das Quantum der in ihm enthaltenen “wertbildenden Substanz”, der Arbeit. Die Quantität der Arbeit selbst mißt sich an ihrer Zeitdauer, und die Arbeitszeit besitzt wieder ihren Maßstab an bestimmten Zeitteilen, wie Stunde, Tag usw.
このように、ある一つの使用価値または財の価値はただ一つの値を持つ。それはそこに抽象的な人間労働が対象化され、物質化されているからである。では、その価値の大いさ(Größe)はどのように測られるのだろうか。それは、それらの中に含まれる「価値形成の実体」である労働の、その数量値(Quantum)を通じてである。労働の量(Quantität)は、その経過時間で比較されるが、労働時間もまた、一時間、一日など、ある特定の幅の度量標準を持っている。

この個所に関連して、文章を note で二回に分けで書きました。

Ein Gebrauchswert oder Gut hat also nur einen Wert, weil abstrakt menschliche Arbeit in ihm vergegenständlicht oder materialisiert ist.
このように、ある一つの使用価値または財の価値はただ一つの値を持つ。それはそこに抽象的な人間労働が対象化され、物質化されているからである。

これのことワンね。↓

それを読んで、ABC予想を証明した日本人の紹介をしていたNHKのこの映像を思い出しました。

よろしく!

よろしく!じゃないですよ!

ん?

あなたが両方の意味に取れる書き方をしたせいで後世に誤解を残したと思いますね。

上のブログ記事の表を再掲しましょう。
これらの翻訳(翻訳者)は大事なところを訳し損ねていて、これでは論理的つながりが読み取れません。

うーむ、言われてみたらそうじゃな。。。

労働が対象化するから、それゆえに商品は価値を持つ。それ以外の理由はない!という感じで読める。

その意味を間違いだとはいわないけど、不満。

少なくとも、ぜんぜん集合論ぽくはないですね。

フランス語版ではどうなっていましたか?

et une valeur d’usage, ou un articlequelconque, n’a une valeur qu’autant que du travail humain estmatérialisé en lui. 

une valeur になっているから大丈夫。

英語や日本語のある意味いい加減さが祟った感じだ。

フランス語版はワシも直接しっかり見てやったのじゃ!

先へ行くぞ!

Wie nun die Größe seines Werts messen? Durch das Quantum der in ihm enthaltenen “wertbildenden Substanz”, der Arbeit. Die Quantität der Arbeit selbst mißt sich an ihrer Zeitdauer, und die Arbeitszeit besitzt wieder ihren Maßstab an bestimmten Zeitteilen, wie Stunde, Tag usw.
では、その価値の大いさ(Größe)はどのように測られるのだろうか。それは、それらの中に含まれる「価値形成の実体」である労働の、その数量値(Quantum)を通じてである。労働の量(Quantität)は、その経過時間で比較されるが、労働時間もまた、一時間、一日など、ある特定の幅の度量標準を持っている。

にゅんさんの記事はこちらですね

はい。
そちらに書いた通り、ここでは今後 Quantumを「数量値」と訳します。

今だったら quantum は「量子」ワンね。「量子コンピュータ」とか「量子力学」とかの。

最小単位、みたいな意味になっているね。

カントはGröße(大きさ)をquantumとquantitasに分けたと書かれていましたが、マルクスは quantumだけを使ってquantitasを使っていないんですね。

両者の quantum は意味が違ってカントのは数になる前の大きさなんですよね。
一方マルクスのそれはハッキリ「数」という記号表現という感じです。

とにかくここは、論理というか言葉がヘーゲルの論理学の話の継承になっていうことがあからさまに現れている個所で、Größe 、Quantum、Quantität、さらには Maßstabという言葉から誰でもピンときます(ヘーゲルを知っていれば)。

どんな話ワンか?

ええとね、

「〇〇がある」とか「〇〇がない」とはどういうことだろうか。
それをどうして人間は知ることができるのか?

ええーそんな話なの?

ドイツ語にしても英語にしても西洋の人間の言語って基本的に主語が「ある」でしょう?
言語がそうなっているということは、思考がそうなっていいるから哲学の始まりは存在論になるのだろう。

「犬が歩く」の前提に犬の存在があるじゃんみたいな

うんそれで行こう。
「犬が歩いているね」という言葉が通じるからには犬の存在は共通の理解になっているけれども、犬という存在には質的側面と量的側面があるよね。

資本論もそういう話というご説明でしたね。

これで言うと、交換価値(価格)は使用価値が捨象されていましたね。
使用価値は商品の質的側面で、価格は量的な側面ですが、この両者は全く違う。

質と量がどのように違うか(もしくは関係しているか)について、ヘーゲルは「質は存在の最初の規定態であり、量は存在に無関心(gleichgültig)な規定態である」と論じます。
これ、よくよく考えてみると確かにそうなんですよね。

うー難しいワン

量と質はどのようにリンクするか(関係するか)。
だから上の note で書いた通り、資本論って集合論、写像の話だよねというわけ。

なるほど

まあその辺は資本論の続きを読みながらゆっくりやろう。

いまのところは資本論での Größe、Quantum、Quantität、Maßstab という単語の使い方の下敷きにはヘーゲルがいるんだなと理解してください。

その上でQuantumをワタクシは「数量値」と訳すことにします。

それはわかったワン

じゃあもう一度本文を読んで

ワシ?

Wie nun die Größe seines Werts messen? Durch das Quantum der in ihm enthaltenen “wertbildenden Substanz”, der Arbeit. Die Quantität der Arbeit selbst mißt sich an ihrer Zeitdauer, und die Arbeitszeit besitzt wieder ihren Maßstab an bestimmten Zeitteilen, wie Stunde, Tag usw.
では、その価値の大いさ(Größe)はどのように測られるのだろうか。それは、それらの中に含まれる「価値形成の実体」である労働の、その数量値(Quantum)を通じてである。労働の量(Quantität)は、その経過時間で比較されるが、労働時間もまた、一時間、一日など、ある特定の幅の度量標準を持っている。

もし現代の人がここだけを読まされたら、多くの人は「ああ古い労働価値説ね」とばかりに、それ以外の価格理論、たとえば効用価値とか需要と供給の均衡とかの限界的なところで価格は決まるんじゃないの?と感じてしまうと思う。

うんうん

実はぼくもそう思っていた!
資本論を実際に読むまでは。

そうなのか!

うん。
ヘーゲルを背景に資本論を読んでいくと、この論理は否定しようがないぞ!ってなるし、限界理論や均衡理論には決定的な欠落があるじゃんと思うようになった。

そのへんはまたおいおい。

じゃあ次回予告。

〈1-16〉
Es könnte scheinen, daß, wenn der Wert einer Ware durch das während ihrer Produktion verausgabte Arbeitsquantum bestimmt ist, je fauler oder ungeschickter ein Mann, desto wertvoller seine Ware, weil er desto mehr Zeit zu ihrer Verfertigung braucht. Die Arbeit jedoch, welche die Substanz der Werte bildet, ist gleiche menschliche Arbeit, Verausgabung derselben menschlichen Arbeitskraft. Die gesamte Arbeitskraft der Gesellschaft, die sich in den Werten der Warenwelt darstellt, gilt hier als eine und dieselbe menschliche Arbeitskraft, obgleich sie aus zahllosen individuellen Arbeitskräften besteht. Jede dieser individuellen Arbeitskräfte ist dieselbe menschliche Arbeitskraft wie die andere, soweit sie den Charakter einer gesellschaftlichen Durchschnitts-Arbeitskraft besitzt und als solche gesellschaftliche Durchschnitts-Arbeitskraft wirkt, also in der Produktion einer Ware auch nur die im Durchschnitt notwendige oder gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit braucht. Gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit ist Arbeitszeit, erheischt, um irgendeinen Gebrauchswert mit den vorhandenen gesellschaftlich-normalen Produktionsbedingungen und dem gesellschaftlichen Durchschnittsgrad von Geschick und Intensität der Arbeit darzustellen. Nach der Einführung des Dampfwebstuhls in England z.B. genügte vielleicht halb so viel Arbeit als vorher, um ein gegebenes Quantum Garn in Gewebe zu verwandeln. Der englische Handweber brauchte zu dieser Verwandlung in der Tat nach wie vor dieselbe Arbeitszeit, aber das Produkt seiner individuellen Arbeitsstunde stellte jetzt nur noch eine halbe gesellschaftliche Arbeitsstunde dar und fiel daher auf die Hälfte seines frühern Werts.

すると次のように受け取ってしまうこともあるだろう。つまり、ある商品の価値が、その生産に費やされる労働の数量値(Arbeitsquantum)によって決まるのであれば、怠け者や不器用な人など、その商品の製造にはより多くの時間が必要となるので、その商品の価値はより高くなるのでは、と。ところが(先に述べた)価値の実体を形成する労働は、相等しい(gleiche)人間労働であり、一定の(derselben)人間労働力の支出なのである。商品世界の価値に表れる限りの社会全体の労働力は、無数の個々の労働力から構成されるが、ここで適用されるのは、ある一定の(dieselbe)人間労働力である。これら個々の労働力は、平均的な社会的労働力の性格を持ち、平均的、社会的労働力として作用する限りにおいて、その他の労働力と同じ(dieselbe)人間的労働力である。すなわち、商品を生み出すのに必要とされるのは、平均的もしくは社会的に必要な労働時間だけである。この社会的に必要な労働時間であるが、これは、ある使用価値を生産する場合に、現存する社会的に正常な生産条件と、社会的に平均的な熟練度と強度と適用した時の労働時間である。たとえば、イギリスで蒸気織機が導入された後、ある特定の数量値(Quantum)の糸を織物に変えるのに必要な労働時間は、それ以前の約半分になった。イギリスの織工たちは、糸を織物に加工するために以前と同じ(dieselbe)労働時間を要としたが、彼の個人的労働時間の生産物は、今や社会的労働時間の半分にしか相当せず、したがって、価値は以前の半分である。


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