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〈1-3〉Der Reichtum der Gesellschaften, ….

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〈1-3〉

さあ、いよいよ始まります。
資本論の有名な出だし。

[49] Der Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine “ungeheure Warensammlung” (1), die einzelne Ware als seine Elementarform. Unsere Untersuchung beginnt daher mit der Analyse der Ware.
(1) Karl Marx, “Zur Kritik der Politischen Ökonomie”, Berlin 1859, pag. 3. <Siehe Band 13, S. 15>

資本制生産様式が支配的である社会(複数)では、富は『商品の膨大なる集積』(一)として現れ、個別の商品がその要素形態として表れている。だから我々の研究は商品の分析から始まる。
*(一)カール・マルクス『経済学批判』(べルリン、一八九五年刊、第四頁)。

形としては翻訳を引用して、それとは別に対話や解説?を入れていこうということワンね

うんそんな感じで。

早速、ここは「〇〇は××である」ではなく「××として現れる(erscheinen)」という言い方をしているのが目を引きます。

(画伯、Ding an sich じゃなかっけか)

(しまった)

Schein という、「現れ」「外観」というような意味の名詞があって、er- という接頭詞が付いた erscheinen「現れる」

Schein という語は資本論第一部全体で 26回出てくるそうです。

これは哲学を知っている人なら誰でもいきなりカントの純粋理性批判以降の哲学の諸議論を想起させられるところです。

人間はモノ Ding を直に「物自体(Ding an sich )」を認識するのではなくて、感覚のカテゴリーを通じて現れたものを認識しているというあの話。 

ややこしい

このことは、直後に続く文でますますはっきりして行きます。

Reichtum

Reichtum 豊かさ。リッチ(rich) と似てるワンね、字が。

マルクスは Reichtum (富、豊かさ)について別のところで次のように書いています。

„Wahrhaft reich eine Nation, wenn statt 12 Stunden 6 gearbeitet werden. Reichtum ist nicht Kommando von Surplusarbeitszeit“ (realer Reichtum)_sondern verfügbare Zeit außer der in der unmittelbaren Produktion gebrauchten für jedes Individuum und die ganze Gesellschaft.“
(12時間働くより6時間働く状態の方が、その国は真に豊かだ。各個人や社会全体にとって、富とは命令される「余剰労働時間」(実質的な富)ではなく、即時の生産に使われる時間とは別に利用可能な時間のことである。)

ある無名のパンフで「富とは剰余労働時間ではなくて、直接的生産に使用された時間以外の、すべての個人と社会全体にとっての自由に処分できる時間である。」に表現があったそうで、これを激賞してたりするのです。

つまり冒頭のこの Reichtum は絶対的概念ではなく、ある限定された状態での現れというニュアンスが出ているわけです。 

つまり「資本制生産様式が支配的である社会」ではない社会においては、富が「商品の集積」として現れるとは限らない。

二つ指摘しておきましょう。
たとえばアダムスミスの「国富論」のような、結果的に商品の集積を富と把握する「ものの見方」が相対化されています。リカードでもまたそうですし、もし現代のわたしたちがGDPが富の増大だと考えるとしたら、そうした考えが批判・吟味されることになるわけです。

富という本質があって、それはなんなのか掴むのは難しいのだけど、無限に分岐した可能性としての社会を吟味してみると、それぞれ違った概念としての富が現れるようなイメージ…?

ただそう言うと「本質」って何?となるか。
言葉が表す内容は社会的な文脈に依存しているということを表しているように思います。

なるほど
その社会に生きる人達が何に価値をおくのか、というか。
商品の集積を富とみなす社会はなんか分かるというか、直感的にわかりやすいです。
GDPは私達はなんで増えると成長したとか、良いことだと思ってるのだろうか。

もしも「全商品」またはその増加が豊かさなら、その多くは金持ち階級に所有されているものですよね。
第二十二章のリカードら「ブルジョワ経済学者」批判では、彼ら経済学者がナチュラルにそうしたものを「豊かさ」と見ていることが批判されます。

そうなんですね
ブルジョワ経済学者と一緒だった…orz

Gesellschaft

ゲゼルシャフト(社会)は複数形で登場しています。

この単語はゲゼル – シャフト (Gesell – schaft) と分解できる。

シャフトの方から説明すると、フレンドという意味の Freund にシャフトが付くとFreund – schaft は「友情」。
知識という意味の Wissen にシャフトがつく Wissen-schaft は「学問、科学」つまり「知の体系」。
というようにシャフトは多くのものの集合を表す感じです。

ゲゼルは?

Geselleで「職人」。
ドイツのギルドの職人は徒弟制度だったわけだけど、国全体でみると親方-職人の集合が無数にあって「社会」という感じなのかな。

ゲマインシャフトというのを聞いたことがあるんですが、これは?

ええと、このサイトの説明でどうかな↓

GemeinschaftとGesellschaftの日本語訳についての補足
(日本マックス・ヴェーバー研究ポータル)

ゲマインは「普通の」、「平均的な」という感じなのだけど、全体を職業という観点ではなく、地縁や血縁のまとまりという感じの「社会」かな。

マルクスは「共同体」という感じでゲマインシャフトを、「生産が組織化された社会」というニュアンスでゲゼルシャフトというように使い分けます。

資本と労働が分離したら、もうゲゼルシャフト。

以降、この単語がどのように出てくるかどうか気にしておきましょう。

ここは「資本制生産様式が支配的なソレ…」だからゲゼルシャフトなわけワンね。

さらに詳しく↓
 「Gesellschaft と Gemeinschaft, そしてWesen

Element

あとは Elementarform、エレメントについて少しだけ触れておきましょう。
すでに小タイトルで出た Factor と Element のニュアンスの違いというか。

荒川さんのページ
まだ先行研究で消耗してるの? マルクス『資本論』覚書(3)
われわれと似たことをなさっていますねえ。

エレメントについて入江と内田の論考を紹介なさっています。
まず、荒川さんによる入江論の紹介。


 「一つ一つの商品」が社会的富の「基本形式 Elementarform 」として現象するという場合,それを〈エレメント〉の側面と〈形式〉の側面から考察することができる.入江幸男(1953-)は〈エレメント〉を次のように説明している.

「エレメント(Element)といえば,哲学史上では,ひとは直ぐに,ギリシャ哲学の四大エレメント(地・水・風・火)を想起する.この場合,エレメントとは,元素(Urstoff)の意味である.一般には,この元素の意味からの転義で,構成要素(Bestandteil)の意味で使われることが多いと思う.エレメントには,これらの周知の意味の他に,本来の乃至固有の活動領域という意味がある.この意味のエレメントの説明でよく例に挙げられるのは,魚のエレメントは水である,鳥のエレメントは空気である等,また悪例を挙げるならば,女のエレメントは家庭であるというものもある.」
入江1980:69)

 ここで入江は〈エレメント〉の意味を二つ挙げている.ひとつは「構成要素」という意味での〈エレメント〉であり,もうひとつは「固有の活動領域」という意味での〈エレメント〉である.
 マルクスが「一つ一つの商品」が「基本形式」として現象すると述べた際のElementarの意味はどちらの意味であろうか.これは一見すると,「構成要素」の意味で用いられているように思われる.しかしながら,もし「固有の活動領域」という意味で用いられていたらどうだろうか.もし「一つ一つの商品」が何らかの「活動領域」の形式として現象するものだとしたら,「一つ一つの商品」という〈エレメント〉で活動しているのは一体何なのだろうか.
 そして「一つ一つの商品」がエレメントの〈形式〉として現象するならば,同時にその「内容 Inhalt 」や「実質 Materie 」の側面に注意が払われるべきであろう.

次に内田論を紹介なさいます。

 内田弘(1939-)は,上の「エレメント」を「構成要素」の意味で理解している.さらに内田は〈要素〉に対するものは「巨大な商品の〈集合〉」だと述べている.つまり内田は,マルクスの用いるElementやSammlungを数学上の概念として理解するのである.

「名詞「Warensammlung」は「商品《集積》」と訳して,正確に理解できるのだろうか.その語彙のすぐあとに,「個々の商品はその富の要素形態(Elementarform)として現れる」とある.「要素」に対しては,「集積」でなくて「集合」であろう.資本主義的生産様式が支配する社会では,ほとんどの富は商品形態をとる.商品は「集合」であり,かつその「要素」である,とマルクスは言明しているのである(ちなみに『経済学批判』では「集合」にAggregatを当てている.この語法はカントにならっている).」
内田2011

数学上の概念としての「集合」はドイツ語でMengeという.Sammlung にせよAggregatにせよ,それらを数学上の概念として解釈するのはただのこじ付けではないだろうか.

いやいや
こじつけじゃなくて、内田の言っていることもぼくは真実だと思います。当時の数学の集合論は現代のそれの形にはなっていないとは言え。

だってこうです。

おおー

さて、前回ぼくはファクターについて
「それを欠いたら「全体」ではなくなってしまう何かです」
と説明しましたが、エレメントは全体(集合)を構成する粒子、それ以上分割したら「それ」ではなくなってしまう、個々の基本単位という感じがあります。
内田が「数学上の概念として理解」しているかというと必ずしもそうではなくて、物理学的、天文学的、哲学的な原子論として読み解いていて、そこは自分も同調できます。

さて、あとは 注(一)カール・マルクス『経済学批判』を少しだけ見ておくと。
そこではこうなっていました。

Auf den ersten Blick erscheint der bürgerliche Reichtum als eine ungeheure Warensammlung, die einzelne Ware als sein elementarisches Dasein. Jede Ware aber stellt sich dar unter dem doppelten Gesichtspunkt von Gebrauchswert und Tauschwert.
一見したところ、ブルジョア的富は商品の膨大なる集積として現れ、個別の商品がその要素的定在として表れている。それぞれの商品は、使用価値と交換価値という二重の観点から自らを示している。

資本論よりも「硬い」感じの表現です。Dasein (ダーザイン)とか。
あと、使用価値と交換価値の対比になってる。

図にすると、こう。

まだヘーゲル式の三元論が完成されてない?
資本論はこうでしたよね、

いやむしろ三元論そのものになっています。

論理の骨格としては資本論とほとんど同じことをやっていると思うけれど、年月を経て表現が円熟したなーという感じ。

なるほど

このパラグラフはこの辺で。

次回はこちら。

〈1-4〉
Die Ware ist zunächst ein äußerer Gegenstand, ein Ding, das durch seine Eigenschaften menschliche -Bedürfnisse irgendeiner Art befriedigt. Die Natur dieser Bedürfnisse, ob sie z.B. dem Magen oder der Phantasie entspringen, ändert nichts an der Sache (2). Es handelt sich hier auch nicht darum, wie die Sache das menschliche Bedürfnis befriedigt, ob unmittelbar als Lebensmittel, d.h. als Gegenstand des Genusses, oder auf einem Umweg, als Produktionsmittel.
(2) Verlangen schließt Bedürfnis ein; es ist der Appetit des Geistes, und so natürlich wie Hunger für den Körper … die meisten (Dinge) haben ihren Wert daher, daß sie Bedürfnisse des Geistes befriedigen.” (Nicholas Barbon, “A Discourse on coining the new money lighter. In answer to Mr. Locke’s Considerations etc.”, London 1696, p. 2, 3.)

商品はまずもって外界の一対象(Gegenstand)であり、その諸性質によって人類の何らかの種類の欲望を満たす物体(Ding)である。この欲望の本性(Natur)、つまりそれが胃袋から生じるものか、あるいは空想から生じるかは、ここでの分析に何等影響するものではない(二)。また、その物体がどのようにして人類の欲望を満たすものであるか、つまり直接的に生活の手段(Mittel)つまり享楽の対象としてであっても、もしくは間接的に生産の手段(Mittel)としてであっても、その違いはここの分析には影響しない。
*(二)『願望は欲望を含む。それは心の食欲であって、餓の身体に於ける如く自然的のものである。・・・・大多数は心の欲望を充たすことによって価値を受けるのである』ニコラス・バーボン著『新貨軽鋳論、ロック氏の貨幣価値引上論考に答う』ロンドン、一六九六年刊、第二及び三頁)。 


1件のコメント

  1. マルクスについては、中学生の頃に社会科の先生から「(労働者から)生産手段が奪われる」と聞いていました。

    若い頃は理解できませんでしたが、最近は実感する様になりました。
    BIは、(労働者から)生産手段を奪う最終段階のように思えて、JGPの思想に救いを感じています。

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