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〈1-16〉の精読その2

前回〈1-16〉に続いてもう少し。

前回言い足りなかったあれこれについて。

補足1

まず<1-16>の、最後のこの箇所は実に周到だと思いました。

Gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit ist Arbeitszeit, erheischt, um irgendeinen Gebrauchswert mit den vorhandenen gesellschaftlich-normalen Produktionsbedingungen und dem gesellschaftlichen Durchschnittsgrad von Geschick und Intensität der Arbeit darzustellen. Nach der Einführung des Dampfwebstuhls in England z.B. genügte vielleicht halb so viel Arbeit als vorher, um ein gegebenes Quantum Garn in Gewebe zu verwandeln. Der englische Handweber brauchte zu dieser Verwandlung in der Tat nach wie vor dieselbe Arbeitszeit, aber das Produkt seiner individuellen Arbeitsstunde stellte jetzt nur noch eine halbe gesellschaftliche Arbeitsstunde dar und fiel daher auf die Hälfte seines frühern Werts.

 社会的に求められる労働時間であるが、これは、何らかの使用価値を、現存する社会的に正常な生産条件と、社会的に平均的な熟練度と強度でもって表す(darstellen)ところの労働時間である。たとえば、イギリスで蒸気織機が導入された後、ある特定の数量値(Quantum)の糸を織物に変えるのに必要な労働時間は、それ以前の約半分になった。イギリスの織工たちは、糸を織物に加工するために以前と同じ(dieselbe)労働時間を要としたが、彼の一時間あたりの労働の生産物は、今や社会的労働時間の半分を表す(darstellen)に過ぎず、したがって、価値は以前の半分である。

というと?

価値の実体を構成しているところの、「社会的に求められる労働時間(Gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit)」について、先ほどまでは小麦と鉄という異なるの商品の対比で説明していたのを、ここでは織物という一商品の話に切り替えています。

蒸気織機が普及する前の時点と後の時点。
こうすることで話が立体的になるというか歴史的な感じになるワンね。

補足2:notwendig は「必要条件」の「必要」

ところで notwendig という形容詞、
notwendige Arbeitszeit は「必要な労働時間」と訳されるのが通例みたいですね。

いくつかの翻訳を調べましたが、今のところみんなそうです。

でも「社会的に必須な労働時間」という意味もあって、どちらかというとそちらの方が強い。

どう違うワン?

うーん

必要か必要でないかは人間が判断する余地がある感じがします。
必然にはそれがない。

蒸気織機はもう社会に登場してしまったし、社会の人間たち全体の平均的な勤勉さはそうそう変わるものではないワンね。

高校で「必要条件」「十分条件」を習うと思うけど、必要条件は notwendig Bedingung です。
最初習うとき、直感的には理解できなかったと思います。

暗記した覚えが

みんな結構努力して暗記するけれど、それだけ日本語としては自然な感じがしない言葉なわけだよ。
まあ、日本語と英独語の単語は一対一に対応しないから、逐語訳だと仕方ない面があるんだけどね。

ところで。。。

ちょっと待った
生産「条件」という言葉が登場したけどこの話と関係あるワンか?

うん、Produktions(生産の)bedingungen(諸条件)、複数形だから「生産の諸条件」やね。
そしてそれは、価値決まるための「必要条件」のひとつ。

おお

とにかく、ある商品を作り出すために「社会的に notwendig な労働時間」は「社会的に定まってしまう労働時間」という感じ。これを「社会的に必要な労働時間」とするとちょっと違和感がある。

なるほど。notwendingはやむを得ない、不可避の、っていう意味だから。

ということで「社会的に求められる労働時間」としておきますが、これがベストとも思えないので、今後気が変わったら全部変えるかも。

補足3:seine individuellen Arbeitsstunde

この件は長々と note に書きました。

そのブログのこの図で思ったのだけどね。
このオレンジ色のところを「セル」って言うワンね。

ん?

資本論の序文を眺めていたのだけど、そこでマルクスは「ブルジョア社会では商品の価値形態が経済的な細胞形態だから、解剖学で顕微鏡を使うように細かい詮索をする必要がある」みたいに言っている。

そうだったねー

セルって細胞って意味ワンね。

ああそうだねえ。

それ以上分割できない最小単位というか。

補足4:dar-stellen の繰り返し

上の箇所に二回 dar-stellen が出てくるのだけど。

分離動詞ワンね。
一つ目は darzusutellen という不定詞の形で、二つ目は stellte … dar と分離している。

うん。

一つ目のほう、ぼくは
「社会的に求められる労働時間であるが、これは、何らかの使用価値を、現存する社会的に正常な生産条件と、社会的に平均的な熟練度と強度でもって表す(darstellen)ところの労働時間である。」
と「表す」と訳しました。

ここは使用価値を「生産する」と訳されることが多くて、フランス語訳版でもそうなんだよね。
けど、ぼくはここまで五回出てきた darstellen がすべて「表す」「示す」の意味であることから、ここも「表す」という感じだと思っている。

そして、二つ目の darstellen は「表す」でしょう?

細かい詮索ワンね(笑

もし dar-stellen じゃなくて her-stellen だったら「生産する」しかありえないのだけど、ここは dar-stellen なわけよ。

そして実際、次回やる節では her-stellen がその意味で使われているわけで。

五回出てくるの数えたワンか(笑

最近作り始めた資本論データベースの便利なところでね。
dar-stellen または her-stellen が使わている場所を絞れるんよ。

原文和訳
51 Welches immer ihr Austauschverhältnis, es ist stets darstellbar in einer Gleichung, worin ein gegebenes Quantum Weizen irgendeinem Quantum Eisen gleichgesetzt wird, z.B. 1 Quarter Weizen = a Ztr. Eisen.両者の交換の関係がどのようになっているとしても、それは常に一つの等式で表すことができる。つまり所与の小麦の数量値(Quantum)に対して、どれだけの数量値(Quantum)の鉄が等置されるかの式で表すことができる。たとえば「1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄」である。
51Ebenso sind die Tauschwerte der Waren zu reduzieren auf ein Gemeinsames, wovon sie ein Mehr oder Minder darstellen.同じように、商品たちの交換価値も、その多寡を表すある「共通なもの」に還元されるのである。
52Mit dem nützlichen Charakter der Arbeitsprodukte verschwindet der nützlicher Charakter der in ihnen dargestellten Arbeiten, es verschwinden also auch die verschiedenen konkreten Formen dieser Arbeiten, sie unterscheiden sich nicht länger, sondern sind allzusamt reduziert auf gleiche menschliche Arbeit, abstrakt menschliche Arbeit.労働生産物の有用性と共に労働生産物に表わされている労働の有用性は消え去り、したがってまたこれらの労働のいろいろな具体的形態も消え去り、これらの労働はもはや互いに区別されることなく、すべてことごとく、相等しい(gleiche)人間の労働に、抽象人間労働に、還元されているのである。
52Diese Dinge stellen nur noch dar, daß in ihrer Produktion menschliche Arbeitskraft verausgabt, menschliche Arbeit aufgehäuft ist.この物体が表わしているのは、ただ、その生産に人間労働力が支出され、人間労働が積み上げられたということだけだ。
53Das Gemeinsame, was sich im Austauschverhältnis oder Tauschwert der Ware darstellt, ist also ihr Wert.ゆえに、諸商品の交換関係および諸商品の交換価値のうちに表されている「共通のもの」は、商品の価値である。
53Die gesamte Arbeitskraft der Gesellschaft, die sich in den Werten der Warenwelt darstellt, gilt hier als eine und dieselbe menschliche Arbeitskraft, obgleich sie aus zahllosen individuellen Arbeitskräften besteht.社会の労働力全体、商品世界の価値に表現されるそれは、ひとかたまりで(eine)なおかつ(und)一定出力の(dieselbe)人間労働力なのである。それは無数の個別労働力で構成されているのであるが。
53Gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit ist Arbeitszeit, erheischt, um irgendeinen Gebrauchswert mit den vorhandenen gesellschaftlich-normalen Produktionsbedingungen und dem gesellschaftlichen Durchschnittsgrad von Geschick und Intensität der Arbeit darzustellen.社会的に求められる労働時間であるが、これは、何らかの使用価値を、現存する社会的に正常な生産条件と、社会的に平均的な熟練度と強度でもって表す(darstellen)ために必須の労働時間である。
53Der englische Handweber brauchte zu dieser Verwandlung in der Tat nach wie vor dieselbe Arbeitszeit, aber das Produkt seiner individuellen Arbeitsstunde stellte jetzt nur noch eine halbe gesellschaftliche Arbeitsstunde dar und fiel daher auf die Hälfte seines frühern Werts.イギリスの織工たちは、糸を織物に加工するために以前と同じ(dieselbe)労働時間を要したが、彼の一時間あたりの労働の生産物は、今や社会的労働時間の半分を表す(darstellen)に過ぎず、したがって、価値は以前の半分である。

下二つが今回ワンね。
なるほどー

五回じゃなくて六回だった!

〈1-16〉Es könnte scheinen, daß, wenn der Wert einer Ware …

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〈1-16〉

Es könnte scheinen, daß, wenn der Wert einer Ware durch das während ihrer Produktion verausgabte Arbeitsquantum bestimmt ist, je fauler oder ungeschickter ein Mann, desto wertvoller seine Ware, weil er desto mehr Zeit zu ihrer Verfertigung braucht. Die Arbeit jedoch, welche die Substanz der Werte bildet, ist gleiche menschliche Arbeit, Verausgabung derselben menschlichen Arbeitskraft. Die gesamte Arbeitskraft der Gesellschaft, die sich in den Werten der Warenwelt darstellt, gilt hier als eine und dieselbe menschliche Arbeitskraft, obgleich sie aus zahllosen individuellen Arbeitskräften besteht. Jede dieser individuellen Arbeitskräfte ist dieselbe menschliche Arbeitskraft wie die andere, soweit sie den Charakter einer gesellschaftlichen Durchschnitts-Arbeitskraft besitzt und als solche gesellschaftliche Durchschnitts-Arbeitskraft wirkt, also in der Produktion einer Ware auch nur die im Durchschnitt notwendige oder gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit braucht. Gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit ist Arbeitszeit, erheischt, um irgendeinen Gebrauchswert mit den vorhandenen gesellschaftlich-normalen Produktionsbedingungen und dem gesellschaftlichen Durchschnittsgrad von Geschick und Intensität der Arbeit darzustellen. Nach der Einführung des Dampfwebstuhls in England z.B. genügte vielleicht halb so viel Arbeit als vorher, um ein gegebenes Quantum Garn in Gewebe zu verwandeln. Der englische Handweber brauchte zu dieser Verwandlung in der Tat nach wie vor dieselbe Arbeitszeit, aber das Produkt seiner individuellen Arbeitsstunde stellte jetzt nur noch eine halbe gesellschaftliche Arbeitsstunde dar und fiel daher auf die Hälfte seines frühern Werts.

最初に和訳を載せておくのやめたワンか?

うん。精読のときはそれでいいかなと思って。

さて、今回の個所はいっそう丁寧に読んでいこうと思います。
頭から訳していく方針で。

頭から?

その方がドイツ語を(ドイツ語で)読んでいる、という感じが出るので。

Es könnte scheinen, daß, wenn der Wert einer Ware durch das während ihrer Produktion verausgabte Arbeitsquantum bestimmt ist, je fauler oder ungeschickter ein Mann, desto wertvoller seine Ware, weil er desto mehr Zeit zu ihrer Verfertigung braucht.

Es könnte scheinen, daß,
この出だしは英語で言うと It might seem that…

「次のように思われるかもしれない」、でも違う、みたいな。

二人の宇宙人が、人間の言う諸商品の価値を調べているところを想像すると良いでしょう。
かしこい宇宙人Aは「社会の総労働という塊」というものがあって、それが商品に分割されているということに気づきました。
交換価値は労働時間で決まる!
これが前回の話。

ふむふむ

それを聞いた宇宙人Bは「でもサボる人間とか、遅い人間もいるから、、、」と考えた。そんなBにAが説明してしてあげているところ。
Bはこう考えていた

「ある商品の価値が、その生産に費やされる労働の数量値(Arbeitsquantum)によって決まるのであれば、怠け者や不器用な人など、その商品の製造にはより多くの時間が必要となるので、その商品の価値はより高くなるのでは、と。」

宇宙人AがBのこの疑問に答えていきます。

Die Arbeit jedoch, welche die Substanz der Werte bildet,

「この労働、価値の実体を構成する労働は、」

ist gleiche menschliche Arbeit, Verausgabung derselben menschlichen Arbeitskraft.

「相等しい(gleiche)人間の労働であり、人間労働力の一定の(dieselbe)支出なのである。」

この話ですね。

同じ力量を持つたくさんの人たちが、そろって一定出力で働き続けているイメージ。

それは全体として一つのものなんです。

Die gesamte Arbeitskraft der Gesellschaft, die sich in den Werten der Warenwelt darstellt,

「社会の労働力全体、商品世界の価値に表現されるそれは、」

gilt hier als eine und dieselbe menschliche Arbeitskraft, obgleich sie aus zahllosen individuellen Arbeitskräften besteht.

「ひとかたまりで(eine)なおかつ(und)一定出力の(dieselbe)人間労働力なのである。それは無数の個別労働力で構成されているのであるが。」

ここの dieselbe は「一定出力の」にしたのワンね。

時間当たりの出力が一定という感じが欲しいのです。
いちいち細かく見るとサボっている人、遅い人はいるけれど、全体としての仕事は淡々と進んでいる、みたいな。

翻訳のもう一つの工夫は「ひとかたまりで、なおかつ、一定出力の人間労働力」としたところです。

eine dieselbe … ではなくて eine und dieselbe … となっているのには理由があって、社会の労働力全体は「ひとかたまりの」巨大な力であり、それが一定出力で発揮されているということをマルクスは書いています。それが部分に分割される。

部分の合計が全体なのではなく、ひとつの全体が元素に分割される。この違い。

アリストテレスにしてもヘーゲルにしても「一」と「多」の違いって、問題の核心というか出発点なのですよね。
これについては詳しく別に書こうと思います。
gelten という動詞についても書かないと。

(商品世界では)X=Yという法則関係がある。
ここで
Xは「(価値に現れる)社会の労働力全体」
Yが「ひとかたまりで(eine)なおかつ(und)一定出力の(dieselbe)人間労働力」

社会の労働力はひとかたまりということですね。

「そういうことになっている」ということを賢い宇宙人Aは発見しました。
これは言葉の定義ではありません。科学的事実と言うべきでしょう。

で、gelten という動詞は「そういうことになっている」という意味です。

Jede dieser individuellen Arbeitskräfte ist dieselbe menschliche Arbeitskraft wie die andere,

「時間あたりの労働力が、どの人も変わらない、一定出力の人間労働力である。」

soweit sie den Charakter einer gesellschaftlichen Durchschnitts-Arbeitskraft besitzt

社会的に均等割された労働力

「それは社会的に均等割りされた労働力という性格をもち、」

ここは社会的平均労働ではなく、「均等割り」という訳語を選びました。
その事情は下の note に書いています。

und als solche gesellschaftliche Durchschnitts-Arbeitskraft wirkt,

「社会的に均等割りされた労働力として機能するのだから、」

also in der Produktion einer Ware auch nur die im Durchschnitt notwendige oder gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit braucht.

「ある一つの商品の生産に必要ということになるのは、平均として求められる、社会的な均等割りで必須になる労働時間だけなのだ。」

具体的なあるものを実際に製造したのが怠け者や不器用な人かどうかは関係がない。

gleichgültig

え?

「まったく無関係だ」という意味のドイツ語で、資本論だと次の節で出てくるのかな。
gleich(同じ)-gelten (とうことになっている)という意味からの形容詞表現ですが、ものすごく大事な言葉なのでそのうち書きますね。

Gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit ist Arbeitszeit, erheischt, um irgendeinen Gebrauchswert mit den vorhandenen gesellschaftlich-normalen Produktionsbedingungen und dem gesellschaftlichen Durchschnittsgrad von Geschick und Intensität der Arbeit darzustellen.

「社会的に求められる労働時間であるが、これは、何らかの使用価値を、現存する社会的に正常な生産条件と、社会的に平均的な熟練度と強度でもって表す(darstellen)ところの労働時間である。」

使用価値を時間で表す。

商品世界ではそういうことになっている。

Nach der Einführung des Dampfwebstuhls in England z.B. genügte vielleicht halb so viel Arbeit als vorher, um ein gegebenes Quantum Garn in Gewebe zu verwandeln. Der englische Handweber brauchte zu dieser Verwandlung in der Tat nach wie vor dieselbe Arbeitszeit, aber das Produkt seiner individuellen Arbeitsstunde stellte jetzt nur noch eine halbe gesellschaftliche Arbeitsstunde dar und fiel daher auf die Hälfte seines frühern Werts.

「たとえば、イギリスで蒸気織機が導入された後、ある特定の数量値(Quantum)の糸を織物に変えるのに必要な労働時間は、それ以前の約半分になった。イギリスの織工たちは、糸を織物に加工するために以前と同じ(dieselbe)労働時間を要したが、彼の一時間あたりの労働の生産物は、今や社会的労働時間の半分を表す(darstellen)に過ぎず、したがって、価値は以前の半分である。」

ここも note に書いた箇所ですね。

(次回)

〈1-17
<54> Es ist also nur das Quantum gesellschaftlich notwendiger Arbeit oder die zur Herstellung eines Gebrauchswerts gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit, welche seine Wertgröße bestimmt (9). Die einzelne Ware gilt hier überhaupt als Durchschnittsexemplar ihrer Art (10). Waren, worin gleich große Arbeitsquanta enthalten sind oder die in derselben Arbeitszeit hergestellt werden können, haben daher dieselbe Wertgröße. Der Wert einer Ware verhält sich zum Wert jeder andren Ware wie die zur Produktion der einen notwendige Arbeitszeit zu der für die Produktion der andren notwendigen Arbeitszeit. “Als Werte sind alle Waren nur bestimmte Maße festgeronnener Arbeitszeit.”(11)

(9) Note zur 2. Ausg. “The value of them (the necessaries of life) when they are exchagend the one for another, is regulated by the quantity of labour necessarily required, and commonly taken in producing them.” “Der Wert von Gebrauchsgegenständen, sobald sie gegeneinander ausgetauscht werden, ist bestimmt durch das Quantum der zu ihrer Produktion notwendig erheischten und gewöhnlich angewandten Arbeit.” (“Some Thoughts on the Interest of Money in general, and particularly in the Public funds etc.”, London, p. 36, 37.) Diese merkwürdige anonyme Schrift des vorigen Jahrhunderts trägt kein Datum. Es geht jedoch aus ihrem Inhalt hervor, daß sie unter Georg II., etwa 1739 oder 1740, erschienen ist.
(10) “Alle Erzeugnisse der gleichen Art bilden eigentlich nur eine Masse, deren Preis allgemein und ohne Rücksicht auf die besonderen Umstände bestimmt wird.”
(11) K. Marx, l.c.p.6. <Siehe Band 13, S. 18>

〈1-15〉Ein Gebrauchswert oder Gut hat also nur einen Wert, …

本文リンク

〈1-15〉

Ein Gebrauchswert oder Gut hat also nur einen Wert, weil abstrakt menschliche Arbeit in ihm vergegenständlicht oder materialisiert ist. Wie nun die Größe seines Werts messen? Durch das Quantum der in ihm enthaltenen “wertbildenden Substanz”, der Arbeit. Die Quantität der Arbeit selbst mißt sich an ihrer Zeitdauer, und die Arbeitszeit besitzt wieder ihren Maßstab an bestimmten Zeitteilen, wie Stunde, Tag usw.
このように、ある一つの使用価値または財の価値はただ一つの値を持つ。それはそこに抽象的な人間労働が対象化され、物質化されているからである。では、その価値の大いさ(Größe)はどのように測られるのだろうか。それは、それらの中に含まれる「価値形成の実体」である労働の、その数量値(Quantum)を通じてである。労働の量(Quantität)は、その経過時間で比較されるが、労働時間もまた、一時間、一日など、ある特定の幅の度量標準を持っている。

この個所に関連して、文章を note で二回に分けで書きました。

Ein Gebrauchswert oder Gut hat also nur einen Wert, weil abstrakt menschliche Arbeit in ihm vergegenständlicht oder materialisiert ist.
このように、ある一つの使用価値または財の価値はただ一つの値を持つ。それはそこに抽象的な人間労働が対象化され、物質化されているからである。

これのことワンね。↓

それを読んで、ABC予想を証明した日本人の紹介をしていたNHKのこの映像を思い出しました。

よろしく!

よろしく!じゃないですよ!

ん?

あなたが両方の意味に取れる書き方をしたせいで後世に誤解を残したと思いますね。

上のブログ記事の表を再掲しましょう。
これらの翻訳(翻訳者)は大事なところを訳し損ねていて、これでは論理的つながりが読み取れません。

うーむ、言われてみたらそうじゃな。。。

労働が対象化するから、それゆえに商品は価値を持つ。それ以外の理由はない!という感じで読める。

その意味を間違いだとはいわないけど、不満。

少なくとも、ぜんぜん集合論ぽくはないですね。

フランス語版ではどうなっていましたか?

et une valeur d’usage, ou un articlequelconque, n’a une valeur qu’autant que du travail humain estmatérialisé en lui. 

une valeur になっているから大丈夫。

英語や日本語のある意味いい加減さが祟った感じだ。

フランス語版はワシも直接しっかり見てやったのじゃ!

先へ行くぞ!

Wie nun die Größe seines Werts messen? Durch das Quantum der in ihm enthaltenen “wertbildenden Substanz”, der Arbeit. Die Quantität der Arbeit selbst mißt sich an ihrer Zeitdauer, und die Arbeitszeit besitzt wieder ihren Maßstab an bestimmten Zeitteilen, wie Stunde, Tag usw.
では、その価値の大いさ(Größe)はどのように測られるのだろうか。それは、それらの中に含まれる「価値形成の実体」である労働の、その数量値(Quantum)を通じてである。労働の量(Quantität)は、その経過時間で比較されるが、労働時間もまた、一時間、一日など、ある特定の幅の度量標準を持っている。

にゅんさんの記事はこちらですね

はい。
そちらに書いた通り、ここでは今後 Quantumを「数量値」と訳します。

今だったら quantum は「量子」ワンね。「量子コンピュータ」とか「量子力学」とかの。

最小単位、みたいな意味になっているね。

カントはGröße(大きさ)をquantumとquantitasに分けたと書かれていましたが、マルクスは quantumだけを使ってquantitasを使っていないんですね。

両者の quantum は意味が違ってカントのは数になる前の大きさなんですよね。
一方マルクスのそれはハッキリ「数」という記号表現という感じです。

とにかくここは、論理というか言葉がヘーゲルの論理学の話の継承になっていうことがあからさまに現れている個所で、Größe 、Quantum、Quantität、さらには Maßstabという言葉から誰でもピンときます(ヘーゲルを知っていれば)。

どんな話ワンか?

ええとね、

「〇〇がある」とか「〇〇がない」とはどういうことだろうか。
それをどうして人間は知ることができるのか?

ええーそんな話なの?

ドイツ語にしても英語にしても西洋の人間の言語って基本的に主語が「ある」でしょう?
言語がそうなっているということは、思考がそうなっていいるから哲学の始まりは存在論になるのだろう。

「犬が歩く」の前提に犬の存在があるじゃんみたいな

うんそれで行こう。
「犬が歩いているね」という言葉が通じるからには犬の存在は共通の理解になっているけれども、犬という存在には質的側面と量的側面があるよね。

資本論もそういう話というご説明でしたね。

これで言うと、交換価値(価格)は使用価値が捨象されていましたね。
使用価値は商品の質的側面で、価格は量的な側面ですが、この両者は全く違う。

質と量がどのように違うか(もしくは関係しているか)について、ヘーゲルは「質は存在の最初の規定態であり、量は存在に無関心(gleichgültig)な規定態である」と論じます。
これ、よくよく考えてみると確かにそうなんですよね。

うー難しいワン

量と質はどのようにリンクするか(関係するか)。
だから上の note で書いた通り、資本論って集合論、写像の話だよねというわけ。

なるほど

まあその辺は資本論の続きを読みながらゆっくりやろう。

いまのところは資本論での Größe、Quantum、Quantität、Maßstab という単語の使い方の下敷きにはヘーゲルがいるんだなと理解してください。

その上でQuantumをワタクシは「数量値」と訳すことにします。

それはわかったワン

じゃあもう一度本文を読んで

ワシ?

Wie nun die Größe seines Werts messen? Durch das Quantum der in ihm enthaltenen “wertbildenden Substanz”, der Arbeit. Die Quantität der Arbeit selbst mißt sich an ihrer Zeitdauer, und die Arbeitszeit besitzt wieder ihren Maßstab an bestimmten Zeitteilen, wie Stunde, Tag usw.
では、その価値の大いさ(Größe)はどのように測られるのだろうか。それは、それらの中に含まれる「価値形成の実体」である労働の、その数量値(Quantum)を通じてである。労働の量(Quantität)は、その経過時間で比較されるが、労働時間もまた、一時間、一日など、ある特定の幅の度量標準を持っている。

もし現代の人がここだけを読まされたら、多くの人は「ああ古い労働価値説ね」とばかりに、それ以外の価格理論、たとえば効用価値とか需要と供給の均衡とかの限界的なところで価格は決まるんじゃないの?と感じてしまうと思う。

うんうん

実はぼくもそう思っていた!
資本論を実際に読むまでは。

そうなのか!

うん。
ヘーゲルを背景に資本論を読んでいくと、この論理は否定しようがないぞ!ってなるし、限界理論や均衡理論には決定的な欠落があるじゃんと思うようになった。

そのへんはまたおいおい。

じゃあ次回予告。

〈1-16〉
Es könnte scheinen, daß, wenn der Wert einer Ware durch das während ihrer Produktion verausgabte Arbeitsquantum bestimmt ist, je fauler oder ungeschickter ein Mann, desto wertvoller seine Ware, weil er desto mehr Zeit zu ihrer Verfertigung braucht. Die Arbeit jedoch, welche die Substanz der Werte bildet, ist gleiche menschliche Arbeit, Verausgabung derselben menschlichen Arbeitskraft. Die gesamte Arbeitskraft der Gesellschaft, die sich in den Werten der Warenwelt darstellt, gilt hier als eine und dieselbe menschliche Arbeitskraft, obgleich sie aus zahllosen individuellen Arbeitskräften besteht. Jede dieser individuellen Arbeitskräfte ist dieselbe menschliche Arbeitskraft wie die andere, soweit sie den Charakter einer gesellschaftlichen Durchschnitts-Arbeitskraft besitzt und als solche gesellschaftliche Durchschnitts-Arbeitskraft wirkt, also in der Produktion einer Ware auch nur die im Durchschnitt notwendige oder gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit braucht. Gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit ist Arbeitszeit, erheischt, um irgendeinen Gebrauchswert mit den vorhandenen gesellschaftlich-normalen Produktionsbedingungen und dem gesellschaftlichen Durchschnittsgrad von Geschick und Intensität der Arbeit darzustellen. Nach der Einführung des Dampfwebstuhls in England z.B. genügte vielleicht halb so viel Arbeit als vorher, um ein gegebenes Quantum Garn in Gewebe zu verwandeln. Der englische Handweber brauchte zu dieser Verwandlung in der Tat nach wie vor dieselbe Arbeitszeit, aber das Produkt seiner individuellen Arbeitsstunde stellte jetzt nur noch eine halbe gesellschaftliche Arbeitsstunde dar und fiel daher auf die Hälfte seines frühern Werts.

すると次のように受け取ってしまうこともあるだろう。つまり、ある商品の価値が、その生産に費やされる労働の数量値(Arbeitsquantum)によって決まるのであれば、怠け者や不器用な人など、その商品の製造にはより多くの時間が必要となるので、その商品の価値はより高くなるのでは、と。ところが(先に述べた)価値の実体を形成する労働は、相等しい(gleiche)人間労働であり、一定の(derselben)人間労働力の支出なのである。商品世界の価値に表れる限りの社会全体の労働力は、無数の個々の労働力から構成されるが、ここで適用されるのは、ある一定の(dieselbe)人間労働力である。これら個々の労働力は、平均的な社会的労働力の性格を持ち、平均的、社会的労働力として作用する限りにおいて、その他の労働力と同じ(dieselbe)人間的労働力である。すなわち、商品を生み出すのに必要とされるのは、平均的もしくは社会的に必要な労働時間だけである。この社会的に必要な労働時間であるが、これは、ある使用価値を生産する場合に、現存する社会的に正常な生産条件と、社会的に平均的な熟練度と強度と適用した時の労働時間である。たとえば、イギリスで蒸気織機が導入された後、ある特定の数量値(Quantum)の糸を織物に変えるのに必要な労働時間は、それ以前の約半分になった。イギリスの織工たちは、糸を織物に加工するために以前と同じ(dieselbe)労働時間を要としたが、彼の個人的労働時間の生産物は、今や社会的労働時間の半分にしか相当せず、したがって、価値は以前の半分である。

〈1-14〉Im Austauschverhältnis der Waren selbst erschien uns …

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〈1-14〉

Im Austauschverhältnis der Waren selbst erschien uns ihr Tauschwert als etwas von ihren Gebrauchswerten durchaus Unabhängiges. Abstrahiert man nun wirklich vom Gebrauchswert der Arbeitsprodukte, so erhält man ihren Wert, wie er eben bestimmt ward. Das Gemeinsame, was sich im Austauschverhältnis oder Tauschwert der Ware darstellt, ist also ihr Wert. Der Fortgang der Untersuchung wird uns zurückführen zum Tauschwert als der notwendigen Ausdrucksweise oder Erscheinungsform des Werts, welcher zunächst jedoch unabhängig von dieser Form zu betrachten ist.上記の交換関係において、諸商品の交換価値は、使用価値とはまったくかかわりのない何かとしてわれわれの前に現れた。そこで労働生産物から使用価値を捨象してみたところ、その結果、いま上に規定したように、その価値が得られた。ゆえに、諸商品の交換関係および諸商品の交換価値のうちに表されている「共通のもの」は、商品の価値である。この研究がもう少し進んだあと、われわれは、価値の必然的な表現形式または現象形態としての交換価値に連れ戻されるであろう。しかしこの価値は、さしあたりはまずそうした形態にはかかわりなしに考察されなければならない。

直前までの論述を、改めてまとめている感じです。

Im Austauschverhältnis der Waren selbst erschien uns ihr Tauschwert als etwas von ihren Gebrauchswerten durchaus Unabhängiges.
上記の交換関係において、諸商品の交換価値は、使用価値とはまったくかかわりのない何かとしてわれわれの前に現れた。

ふむふむ

Im って何でしたっけ?

In dem (英語の in the)の省略形です。つまり先に書かれている Austauschverhältnis der Waren、商品の交換関係の話だとピンときます。

〈1-8〉や〈1-9〉あたりの下の式で表せる「関係」ワンね。

右と左が等置されているということは、両者に「共通なもの」(ein Gemeinsames)が存在しているよね!というわけでした。
そして…

Abstrahiert man nun wirklich vom Gebrauchswert der Arbeitsprodukte, so erhält man ihren Wert, wie er eben bestimmt ward.
そこで労働生産物から使用価値を捨象してみたところ、その結果、いま上に規定したように、その価値が得られた

「上で規定した」とは前の段落〈1-13〉ワンね。

Das Gemeinsame, was sich im Austauschverhältnis oder Tauschwert der Ware darstellt, ist also ihr Wert.
ゆえに、諸商品の交換関係および諸商品の交換価値のうちに表されている「共通のもの」は、商品の価値である。

Das Gemeinsame 、これも定冠詞付きの「共通のもの」だから上で論じたソレということワンね。

ここはとても好きな(大事な)箇所なので、ぼくも図でまとめてみよう。

諸商品の交換関係、たとえば「1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄」という等式はどのような事態を表しているのか。

言い換えれば、「1クォーターの小麦商品はaツェントナーの鉄商品と等価値であり」とわれわれが言うとき、それは何を表しているのか?

三角形①と三角形②でまず描いてみます。
「三角形①と三角形②の面積は等しい」と誰かが言う。
これはどういうこと?

〈1-10〉の三角形の比喩

”このことは簡単な幾何学の実例で考えると明瞭になる。多数の直線で囲まれている図形の面積を計算し比較するために、それはいくつもの三角形に分割される。三角形は、その目に見える形とはまったく異なる表現─その底辺と高さの積の2分の1─に還元される。同じように、商品たちの交換価値も、その多寡を表すある「共通なもの」(Gemeinsames)に還元されるのである。”

宇宙人には「①と②ハ、メンセキガヒトシイ」の意味がなかなか分からない可能性があります。

宇宙人には面積とは何か、というところから説明しないといけなくなりますね。

商品を交換している私たちは、「等しい」とか「見合う」とか納得して取引していても、何かを捨象しているのは意識していなくて、無意識的ですね。

尺度は、その性質が有用であるから公認されるのだけれども、たとえば身体の大きさを任意に変えられる宇宙人には面積、広さの意味はわからないのでは。

ピダハンもそうじゃないかなあ。(今はともかく)

そもそも分からない

三角形の面積とは底辺×高さ÷2という操作の結果であるというルールであれば、高度な知性体ならばいつか理解可能かもしれません。

われわれのようにはわかっていなくても、同じ操作はできるようになるでしょう。
コンピュータと一緒です。

そこで「底辺×高さ÷2」という形式に還元します。

この計算結果が等しければ、人々は「面積は等しい」と言う。
これだったらどうだろう。

操作に還元

If
 「底辺×高さ÷2の計算結果が等しい(等しくない)」
then
 「面積が等しい(等しくない)」

同じように…

おお

んーつまりこういうことワンね。
人間は、商品を抽象的人間労働の量に還元して比較して、それが等しい時に「価値が等しい」と言っている。

論理の順番としては、まず等置関係が成り立っていることから、「共通のもの」が必ず存在するということが示され、次に、使用価値を捨象することによって労働生産物の価値が得られた。
従って「共通のもの」は価値以外にあり得ないよねということが論証されたというわけだ。

うーむ
「労働の量を表すのが価値である。従って、価値が同じならば労働の量は等しい」
みたいな話ではなくて、
「価値が等しい(異なる)という言葉は、労働の量が等しい(異なる)という意味」
みたいな感じワンね。
この二つはまるで違う。

マルクスの話を前者のように誤解している人は多いように思われるけれど。

私も前者のように言ってしまいそう

「マルクスの労働価値説」の論理って、労働を神聖視するところからスタートしているかのように誤解されていることが多いように思うのだけど、価格と労働の量の関係は論理の前提ではなくて、人間たちが「価値が同じと言っている事態」の分析の結果なんだよね。

分析哲学。

すごくそう思います。
ちょうど先日分析哲学の専門家の方がこんな note を書いていらっしゃいました。

時間は価格にどうかかわるワンか?

それは利子とか利潤や資本の蓄積に関わる大テーマなので、本文を読みながら考えていくことになるけれど、さしあたりは前回の図で。

たとえばですが、過去において商品の生産にどれだけ労働力が投入されたとしても、現時点の新技術をもってすれば労働力はだいぶ少なくて済むという場合に、価格は新技術を基準に再設定されていきまね。

この図の「過去」は、今の時点の技術を基準に「制作される過去」というべきでしょう。

売られる商品には商標や価格表示はなく、規格化も包装もされていない。従って買い物には常に危険がともない、買い手は警戒してかからねばならなかった。何を買うにしても、価格は売り手と買い手との間の駆け引きで決まった。やっと値段が決まってからも、いざ支払う段になると、またぞろいざこざが起こりかねない。
(モリ―・ハリソン「買い物の社会史」らぶりあ選書法政大学出版局)

イギリスで値段をあらかじめ設定した商売が始まったのは18世紀半ばのことでした。

現代でも値段はあって無いようなものだと思うことはあって。
洋服や靴などは新作の時の値段と、バーゲン時期の値段が全然違うので。

春に気に入って買った靴が、最近セールで安くなってて。
セール時期には欲しい色とかサイズが無かったりするので、セール時期まで待つのはそれはそれで賭けなんですけど。

だから今も駆け引きはあるワンね

そこでも一貫して基準になるのは、同じものが今の技術をもってするとどのくらいの労働で生産できるか、であるはず。

Der Fortgang der Untersuchung wird uns zurückführen zum Tauschwert als der notwendigen Ausdrucksweise oder Erscheinungsform des Werts, welcher zunächst jedoch unabhängig von dieser Form zu betrachten ist.
この研究がもう少し進んだあと、われわれは、価値の必然的な表現形式または現象形態としての交換価値に連れ戻されるであろう。しかしこの価値は、さしあたりはまずそうした形態にはかかわりなしに考察されなければならない。

(次回)

〈1-15〉
Ein Gebrauchswert oder Gut hat also nur einen Wert, weil abstrakt menschliche Arbeit in ihm vergegenständlicht oder materialisiert ist. Wie nun die Größe seines Werts messen? Durch das Quantum der in ihm enthaltenen “wertbildenden Substanz”, der Arbeit. Die Quantität der Arbeit selbst mißt sich an ihrer Zeitdauer, und die Arbeitszeit besitzt wieder ihren Maßstab an bestimmten Zeitteilen, wie Stunde, Tag usw.
ある使用価値ないし財は、ただ一つの価値だけを持つ。なぜなら抽象的な人間の労働がその中に対象化、物質化されるからだ。では、その価値の大きさはどのように測られるのだろうか。それは、それらの中に含まれる「価値形成物質」である労働の量によるのである。労働の量は、その経過時間で比較されるが、労働時間もまた、一時間、一日など、ある特定の幅の度量標準を持っている。

<1-13> Betrachten wir nun das Residuum der Arbeitsprodukte. …

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〈1-13〉

Betrachten wir nun das Residuum der Arbeitsprodukte. Es ist nichts von ihnen übriggeblieben als dieselbe gespenstige Gegenständlichkeit, eine bloße Gallerte unterschiedsloser menschlicher Arbeit, d.h. der Verausgabung menschlicher Arbeitskraft ohne Rücksicht auf die Form ihrer Verausgabung. Diese Dinge stellen nur noch dar, daß in ihrer Produktion menschliche Arbeitskraft verausgabt, menschliche Arbeit aufgehäuft ist. Als Kristalle dieser ihnen gemeinschaftlichen Substanz sind sie Werte – Warenwerte.
 では、これらの労働生産物の残滓を検討しよう。それらに残っているものは、まぼろしのような、持続する(dieselbe)対象性(Gegenständlichkeit)だけであり、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出のただの凝固物のほかにはなにもない。この物体が表わしているのは、ただ、その生産に人間労働力が支出され、人間労働が積み上げられたということだけだ。こうした、これらに共通の社会的(gemeinschaftlichen実体の結晶として、それは価値─商品価値なのである。

Betrachten wir nun das Residuum der Arbeitsprodukte.
では、これらの労働生産物の残滓を検討しよう。

商品体から使用価値を捨象して観察して、残るのが「労働の生産物である」という属性だったのでした。だから「残滓」。

残滓とは?

ざんし、ざんさい、のこりかす。

海水から水分を蒸発させると塩の結晶が残るように、何かを取り除いた後に「残る方のもの」だね。

Es ist nichts von ihnen übriggeblieben als dieselbe gespenstige Gegenständlichkeit, eine bloße Gallerte unterschiedsloser menschlicher Arbeit, d.h. der Verausgabung menschlicher Arbeitskraft ohne Rücksicht auf die Form ihrer Verausgabung.
それらに残っているものは、まぼろしのような、持続する(dieselbe)対象性(Gegenständlichkeit)だけであり、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出のただの凝固物のほかにはなにもない。

Gegenständlichkeit、対象性

Gegenständlichkeit「対象性」という語はここで登場ワンね。
Gegenstand 「対象」は出てきていて、冒頭(〈1-4〉)の「外界の一対象」。

もう一か所あって、〈1-5〉の尺度の話のところ。
量を秤る「対象」にはいろいろあるから、尺度もいろいろあるよねという。

たとえば「長さ」だったら、モノサシ(尺度)だけ持っていても「対象」がなければ測定にならないワンね。

対象が認識されるからモノサシが生まれ、測定が成立するのであって、逆ではないよね。

なるほど

「意識の焦点」、しかも、形すらはっきりしない「漠然とした意識の焦点みたいなもの」。そういうのが Gegenstand 「対象」。

じゃあ Gegenständlichkeit「対象性」というのは?

うん。
商品という対象から、あらゆる使用価値を除いてみたら残るもの、ということだろうね。

こういうの知ってる?
この絵を30秒凝視してから目をつむる。

見つめるとキリストが現れる

髭のおじさんが現れた!

でもそれも徐々に消えていく。

消えていくね

けれど、それでも「それ」を見続けようと頑張ることはできる。
そのとき狙っている「それ」はもはや対象というより、対象性と言ったほうがぴったり来ない?

ああ、観察する側の努力が必要ワンね。

うん。
そして、そのとき商品の価格、一万円とか500円とかは消し去られていない。「商品」というものを考えている以上は。

そうワンね。
値札がないなら「商品」ではないわけだし、、、

あとそれは「使用価値」ではないからまだ捨象することができないワン。

というわけで、商品をこんな図でイメージしてみようというわけ。
形がないはずのものに形を与えているから「形容矛盾」なんだけどさ。

「まぼろしのような対象性」としての商品たちのイメージ

立ち現われ一元論、的な話

ここで大森荘蔵である。

われわれは何を「現実」だと呼んでいるのだろうか。それは何よりもまず自分自身の命にかかわることであろう。そしてそれとともにまた、自分の生きている状態とでもいえるもの、例えば苦痛や快楽、気分や感情とかである。否応なく自分の命と生にかかわるもの、それがわれわれの現実の核である。
 だから痛みには幻はありえないのである。激痛におそわれている人に向かって、君は今、痛みの幻覚におそわれているのであって本当は痛みなんてないんだよ、と言うことこそもっとも非現実的であろう。それと同様、悲しみや喜びや怒りにも幻はありえない。幻の賞金で喜ぶことはあっても、その喜び自体は幻ではありえない。ある妄想のため怒ることはあっても、その怒りは怒りの幻覚ではない。このように人間の生きることそものもである苦痛や感情に幻がありえないのと同様に、同じく生きることの核心である「さわる」ことにも幻はありえない。手で摑んで触れ、口で触れ、胃腸で触れるものが幻だということはありえない。そういうものこそわれわれが「現実」と呼んでいるものだからである。
 それに対して幽霊が幻だとされるのは、この人間の命の「現実」に疎遠だというがために過ぎない。この世に存在せぬ虚妄のものだからというのではない。幽霊はその傍らの柳の木と同様に存在したのである。「見えるが触れえぬもの」として存在したのである。それを幻と呼ぶのは、われわれが存在を二つに分類して「見えて触れうるもの」と「見えるが触れないもの」とに区分したからである。だから幻は不可触な存在ではあるが、虚妄の非在ではない。存在のこの区分は存在と非在との区分ではなく、われわれの生き死ににかかわるものと、かかわらぬものとへの分類なのである(もっとも幽霊に驚いて心臓マヒを起こすこともありうるが)。それによって現実と幻が区分けされ、真と偽とが区別される。だからこられの区別はきわめて人工的な区別、というよりもむしろ動物的な区別なのである。
区別は区別された両方のものが存在していなくてはその働きを失ってしまう。すべての人間が正気であり善人であれば、狂気と正気、善人と悪人の区別は無用となるように。だが時に人はこのことを忘れる。

大森荘蔵「流れとよどみ」(産業図書,3-5頁)(強調は nyun)

ここで大森は「幽霊」という存在を分析している。
幽霊は「見えるが触れないものという性質がある。

同じように商品には無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出が凝固したものとして値札が付いている。

という性質がある。

こういう空間的に等質な人間たちの、時間的に等質な支出の結果が凝固している。

「等質な人間たち」のイメージ

あと、dieselbe gespenstige Gegenständlichkeit を 「持続する続する(dieselbe)、まぼろしのような対象性」と訳したその心は?

それは次の個所の後で。

Diese Dinge stellen nur noch dar, daß in ihrer Produktion menschliche Arbeitskraft verausgabt, menschliche Arbeit aufgehäuft ist. Als Kristalle dieser ihnen gemeinschaftlichen Substanz sind sie Werte – Warenwerte.
この物体が表わしているのは、ただ、その生産に人間労働力が支出され、人間労働が積み上げられたということだけだ。こうした、それの社会的(gemeinschaftlichen実体の結晶として、それは価値─商品価値なのである。

直訳する感じだと、
「それらの物体は依然としてまだ次のことを表している。」
続けて、”次のこと”はすなわち
「その生産において人間労働力が支出され、人間労働が積み上げられてきたということ」
であると。

「使用価値を捨象しても、なお、まだ何かを表している」

それは「過去において、それに対して労働力の支出がなされた」ということだよね。

そりゃそうだ。今ではない。

というわけで、こういうことだよね。

共時的に等質な(gleich)人間労働力の、経時的に均等な(dasselbe)支出が結晶しているの図

人間たちってこんなことを頭の中でやっているのワンか!

すごいよねえ。。。

それでこの話だったワンね。

うん。こういう感じの図は使っていきたい。

というわけで次回予告。

〈1-14〉
Im Austauschverhältnis der Waren selbst erschien uns ihr Tauschwert als etwas von ihren Gebrauchswerten durchaus Unabhängiges. Abstrahiert man nun wirklich vom Gebrauchswert der Arbeitsprodukte, so erhält man ihren Wert, wie er eben bestimmt ward. Das Gemeinsame, was sich im Austauschverhältnis oder Tauschwert der Ware darstellt, ist also ihr Wert. Der Fortgang der Untersuchung wird uns zurückführen zum Tauschwert als der notwendigen Ausdrucksweise oder Erscheinungsform des Werts, welcher zunächst jedoch unabhängig von dieser Form zu betrachten ist.
上記の交換関係において、諸商品の交換価値は、使用価値とはまったくかかわりのない何かとしてわれわれの前に現れた。そこで労働生産物から使用価値を捨象してみたところ、その結果、いま上に規定したように、その価値が得られた。ゆえに、諸商品の交換関係および諸商品の交換価値のうちに現われた「共通のもの」は、商品の価値である。この研究がもう少し進んだあと、われわれは、価値の必然的な表現形式または現象形態としての交換価値に連れ戻されるであろう。しかしこの価値は、さしあたりはまずそうした形態にはかかわりなしに考察されなければならない。

〈1-12〉Sieht man nun vom Gebrauchswert der Warenkörper ab, …

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〈1-12〉

今回の<1-12>に関連してちょっと解説みたいなのを書いているから、にゃん君もまずこれ読んでおいてほしんだよね。

読んだワン。

同じ時間軸上にある「別のもの」、たとえば彼女の歯ブラシと彼の歯ブラシは「同じ」である言う場合が一つで、gleich の方ワンね。

そして「彼女のその歯ブラシ」は過去においても現在においても「同じもの」であることを言いたいときは、das-selbe 。それのアイデンティティのことワンね。

素晴らしい、そうですそうです!

ここからはその二つの使い分けを徹底的に意識して読解していきたいのだけれど、ちょうど<1-12>の最後の方に出てくる gleiche と、<1-13>の最初の方に出てくる die-selbe の違いは注目だよ。

なるほど。

にしても gleich が gleiche になったり、das-selbe だったり die-selbe だったり、最初は混乱するけれど、そいういうのは慣れるしかないワンね…

では参りましょう。

Sieht man nun vom Gebrauchswert der Warenkörper ab, so bleibt ihnen nur noch eine Eigenschaft, die von Arbeitsprodukten. Jedoch ist uns auch das Arbeitsprodukt bereits in der Hand verwandelt. Abstrahieren wir von seinem Gebrauchswert, so abstrahieren wir auch von den körperlichen Bestandteilen und Formen, die es zum Gebrauchswert machen. Es ist nicht länger Tisch oder Haus oder Garn oder sonst ein nützlich Ding. Alle seine sinnlichen Beschaffenheiten sind ausgelöscht. Es ist auch nicht länger das Produkt der Tischlerarbeit oder der Bauarbeit oder der Spinnarbeit oder sonst einer bestimmten produktiven Arbeit. Mit dem nützlichen Charakter der Arbeitsprodukte verschwindet der nützlicher Charakter der in ihnen dargestellten Arbeiten, es verschwinden also auch die verschiedenen konkreten Formen dieser Arbeiten, sie unterscheiden sich nicht länger, sondern sind allzusamt reduziert auf gleiche menschliche Arbeit, abstrakt menschliche Arbeit.
 今、その商品体から使用価値を捨象して観察すれば、そこに残るのは、それが労働の生産物であるという性質だけである。とは言え、この労働生産物も、われわれの手の内ですでに変えられている。労働生産物の使用価値を捨象するならば、それを使用価値にしている物体的な諸成分や諸形態をも捨象することになるのだ。その商品は、もはや机や家や糸やその他の有用な物体ではない。労働生産物の感覚的性状はすべて消し去られている。それはまた、指物労働や建築労働や紡績労働やその他の特定の生産的労働の生産物でも最早ない。労働生産物の有用性と共に労働生産物に表わされている労働の有用性は消え去り、したがってまたこれらの労働のいろいろな具体的形態も消え去り、これらの労働はもはや互いに区別されることなく、すべてことごとく、相等しい(gleiche)人間の労働に、抽象人間労働に、還元されているのである。

Sieht man nun vom Gebrauchswert der Warenkörper ab, so bleibt ihnen nur noch eine Eigenschaft, die von Arbeitsprodukten. Jedoch ist uns auch das Arbeitsprodukt bereits in der Hand verwandelt. Abstrahieren wir von seinem Gebrauchswert, so abstrahieren wir auch von den körperlichen Bestandteilen und Formen, die es zum Gebrauchswert machen.  
 今、その商品体から使用価値を捨象して観察すれば、そこに残るのは、それが労働の生産物であるという性質だけである。とは言え、この労働生産物も、われわれの手の内ですでに変えられている。労働生産物の使用価値を捨象するならば、それを使用価値にしている物体的な諸成分や諸形態をも捨象することになるのだ。

複雑な話になってきた?
もう一回ねじれているというか。

うん、マルクスご自慢の「労働の二重性」の匂わせみたいな。

んだから、それを初めて指摘したのはワシなのじゃ!

Es ist nicht länger Tisch oder Haus oder Garn oder sonst ein nützlich Ding. Alle seine sinnlichen Beschaffenheiten sind ausgelöscht. Es ist auch nicht länger das Produkt der Tischlerarbeit oder der Bauarbeit oder der Spinnarbeit oder sonst einer bestimmten produktiven Arbeit. Mit dem nützlichen Charakter der Arbeitsprodukte verschwindet der nützlicher Charakter der in ihnen dargestellten Arbeiten, es verschwinden also auch die verschiedenen konkreten Formen dieser Arbeiten, sie unterscheiden sich nicht länger, sondern sind allzusamt reduziert auf gleiche menschliche Arbeit, abstrakt menschliche Arbeit.
その商品は、もはや机や家や糸やその他の有用な物体ではない。労働生産物の感覚的性状はすべて消し去られている。それはまた、指物労働や建築労働や紡績労働やその他の特定の生産的労働の生産物でも最早ない。労働生産物の有用性と共に労働生産物に表わされている労働の有用性は消え去り、したがってまたこれらの労働のいろいろな具体的形態も消え去り、これらの労働はもはや互いに区別されることなく、すべてことごとく、相等しい(gleiche)人間の労働に、抽象人間労働に、還元されているのである。

なるほど、社会における平均的な労働者の平均的な能力のようなものが前提になってるよね、というか。
確かに商品を交換するときに、どのような能力の人が、それを生産するためのどの仕事を担当したかは完全に捨象されているワンね。

”gleiche menschliche Arbeit, abstrakt menschliche Arbeit”
これは
”相等しい(gleiche)人間の労働に、抽象人間労働”
としてみた。
gleichだから時間軸に平行な比較で、その仕事を誰がやっているかは問われない。
ぼくの心の中にはこんな図が浮かぶんだよ、

「特性のない人間たち」のイメージ

ムージルの「特性のない男」っていう小説あるワンね。

「特性のない人間」が無数にいるイメージか。

この本、昔読んで、読みやすい翻訳だったけど絶版ワンね。

馬力の話

この小説の話は次回もしようか。

ところで「馬力」っていう単位あるやんか。

エンジンとかの

うん。
あれって馬が何頭分の出力があるかという「仕事率」を表現する単位なのだけど。


あるエンジンとあるバッテリーが馬力で等置されているとする。
これはどういうことだろう?

バッテリーがエンジンに等置されている図

=という記号、イコールの記号、つまり等号はドイツ語で Gleich-heits-zeihen 、等しさを表す印です。

いま、バッテリーはエンジンに対して「最高出力の馬力」という観点で等置されているんだよう、としよう。

とすると?

なるほど!
この「同じさ」は gleich の方ワンね。

最高出力時の仕事率はどちらも馬が五頭分とすると。

両者の最高出力は「抽象的馬たち」に還元されている

そうか。。。
両者の最高出力ってのが、すべてことごとく、相等しい(gleiche)「馬」の力に、「抽象的馬」の力に、還元されている、ワンね。

抽象的、平均的「馬」たち

そう。
ちょうど、この仮想的な平均的な馬を考えることで「同じ」とか「一方がすごい/すごくない」を判別しているんだね。

で、次回はもう一つの方の「同じ」が出てくると。

〈1-13〉
Betrachten wir nun das Residuum der Arbeitsprodukte. Es ist nichts von ihnen übriggeblieben als dieselbe gespenstige Gegenständlichkeit, eine bloße Gallerte unterschiedsloser menschlicher Arbeit, d.h. der Verausgabung menschlicher Arbeitskraft ohne Rücksicht auf die Form ihrer Verausgabung. Diese Dinge stellen nur noch dar, daß in ihrer Produktion menschliche Arbeitskraft verausgabt, menschliche Arbeit aufgehäuft ist. Als Kristalle dieser ihnen gemeinschaftlichen Substanz sind sie Werte – Warenwerte.
 では、これらの労働生産物の残滓を検討しよう。それらに残っているものは、同一の(dieselbe)まぼろしのような対象性だけであり、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出のただの凝固物のほかにはなにもない。この物体が表わしているのは、ただ、その生産に人間労働力が支出され、人間労働が積み上げられたということだけだ。こうした、これらに共通の社会的(gemeinschaftlichen実体の結晶として、それは価値─商品価値なのである。

<1-11> Dies Gemeinsame kann nicht eine geometrische,…

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〈1-11〉

「一つの共通物(ein Gemeinsames)」の深堀が続きます。

【「1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄」である。この式は何を語っているのだろうか? それは、同じ大いさの一つの共通物(ein Gemeinsames)が、二つの違った物のうちに存在しているということである。】

<1-9>で登場したここワンね。

続いて似た例として、多角形の面積をその要素である三角形で測定するよねという比喩的事例が語られ、それに続く箇所です。

Dies Gemeinsame kann nicht eine geometrische, physikalische, chemische oder sonstige natürliche Eigenschaft der Waren sein. Ihre körperlichen Eigenschaften kommen überhaupt nur in Betracht, soweit selbe sie nutzbar machen, also zu Gebrauchswerten. Andererseits aber ist es grade die Abstraktion von ihren Gebrauchswerten, was das Austauschverhältnis <52> der Waren augenscheinlich charakterisiert. Innerhalb desselben gilt ein Gebrauchswert grade so viel wie jeder andre, wenn er nur in gehöriger Proportion vorhanden ist. Oder, wie der alte Barbon sagt:

“Die eine Warensorte ist so gut wie die andre, wenn ihr Tauschwert gleich groß ist. Da existiert keine Verschiedenheit oder Unterscheidbarkeit zwischen Dingen von gleich großem Tauschwert.”(8)

Als Gebrauchswerte sind die Waren vor allem verschiedner Qualität, als Tauschwerte können sie nur verschiedner Quantität sein, enthalten also kein Atom Gebrauchswert.

(8) “One sort of wares are as good as another, if the value be equal. There is no difference or distinction in things of equal value … One hundred pounds worth of lead or iron, is of as great a value as one hundred pounds worth of silver and gold.” <” … Blei oder Eisen im Werte von einhundert Pfund Sterling haben gleich großen Tauschwert wie Silber und Gold im Werte von einhundert Pfund Sterling.”> (N. Barbon, l.c.p. 53 u. 7.)

この共通なものは、幾何学的また物理学的また化学的などの自然の性質ではありえない。およそ商品の体的(körperlich)な性質は、ただそれらが商品を有用にし、したがって使用価値にする限りにおいてのみしか問題にならないのである。他方、諸商品の使用価値を捨象するということこそが、まさに諸商品の交換関係の明白な性格である。交換関係において、ある一つの使用価値は、それがただ適当な割合でその内部に存在すれば、他の商品とちょうど同じだけと認められるのである。かの老バーボンは言っている、

「一方の商品種類は、その交換価値が同じ大きさならば、他方の商品種類と同じである。同じ大きさの交換価値をもつ諸物のあいだには差異や区別はないのである。」(八)

使用価値としては、諸商品は、なによりもまず、いろいろに違った質であるが、交換価値としては、諸商品はただいろいろに違った量でしかありえない。したがって一原子の使用価値すら含んではいないのである。


*(八)“One sort of wares are as good as another, if the value be equal. There is no difference or distinction in things of equal value … One hundred pounds worth of lead or iron, is of as great a value as one hundred pounds worth of silver and gold.” ” …価値100ポンドの鉛や鉄は、価値100ポンドの銀や金と同じ大いさの交換価値を持つ。”(N. Barbon, l.c.p. 53 u. 7.)

Dies Gemeinsame kann nicht eine geometrische, physikalische, chemische oder sonstige natürliche Eigenschaft der Waren sein. Ihre körperlichen Eigenschaften kommen überhaupt nur in Betracht, soweit selbe sie nutzbar machen, also zu Gebrauchswerten.
この共通なものは、幾何学的また物理学的また化学的などの自然の性質ではありえない。およそ商品の体的(körperlich)な性質は、ただそれらが商品を有用にし、したがって使用価値にする限りにおいてのみしか問題にならないのである。

面積は幾何学的な性質だけど、この「共通のもの」はそういうの(幾何学的、物理学的、化学的)ではある(kann nicht… sein)ことはありえないのだと。

それらはすべて、自然の、体的(körperlich)な性質ですから。
Körper(ケルパー)=「体」については<1-6>関連で書きました。

三角形には幾何学的 Körper(ケルパー)があるけれど、この「共通のもの」にそれはない。。。
そして三角形に価格が付くとして、それは Körper(ケルパー)とは関係がないワンね。

ワシは既にこう書いていた。

”物体が使用価値になるのはその有用性によってである。但しこの有用性は宙に浮かんでいるのではない。この有用性は、商品体(Warenkörper)の諸性質を前提としており、商品体(Warenkörper)なしには存在するものではない。”

三角形で言うと、その色や形や面積も körperlich(体的)な性質いうことワンね。
そして、この「共通のモノ」はそういう性質では決してない。

Andererseits aber ist es grade die Abstraktion von ihren Gebrauchswerten, was das Austauschverhältnis der Waren augenscheinlich charakterisiert. Innerhalb desselben gilt ein Gebrauchswert grade so viel wie jeder andre, wenn er nur in gehöriger Proportion vorhanden ist.
他方、諸商品の使用価値を捨象するということこそが、まさに諸商品の交換関係の明白な性格である。交換関係において、ある一つの使用価値は、それがただ適当な割合でその内部に存在すれば、他の商品とちょうど同じだけと認められるのである。

ここの文脈で Abstraktion を「捨象」とするのは仕方ないと思いながらそうしました。
けれど。。。

けれど?

英語でも abstraction ってよく抽象と訳される。「抽象」と「捨象」ってだいぶ違う感じがするよね。
化学だと「抽出」だ。

抽象は、ある対象から注目すべき要素を重点的に抜き出して他は捨て去る方法のことで、捨象は、そのときに捨て去ったものを表す。「○○である」と「○○ではない」を分割するのが Abstraltion だよねということで。

Innerhalb desselben gilt ein Gebrauchswert grade so viel wie jeder andre, wenn er nur in gehöriger Proportion vorhanden ist. Oder, wie der alte Barbon sagt:

“Die eine Warensorte ist so gut wie die andre, wenn ihr Tauschwert gleich groß ist. Da existiert keine Verschiedenheit oder Unterscheidbarkeit zwischen Dingen von gleich großem Tauschwert.”

交換関係において、ある一つの使用価値は、それがただ適当な割合でその内部に存在すれば、他の商品とちょうど同じだけと認められるのである。かの老バーボンは言っている、

「一方の商品種類は、その交換価値が同じ大きさならば、他方の商品種類と同じである。同じ大きさの交換価値をもつ諸物のあいだには差異や区別はないのである。」(八)


(八)“One sort of wares are as good as another, if the value be equal. There is no difference or distinction in things of equal value … One hundred pounds worth of lead or iron, is of as great a value as one hundred pounds worth of silver and gold.” ” …価値100ポンドの鉛や鉄は、価値100ポンドの銀や金と同じ大いさの交換価値を持つ。”(N. Barbon, l.c.p. 53 u. 7.)

こういうことかな?
ものを売る人にとって、同じ値段で売れるものはみんな同じものに見えるよね。同じ額のお金に変わるのだから。

そういうことだね。

あと注四の、英語だと Worthを使用価値、Valueを交換価値みたいに区別されるという話がここでも確認できる。

Als Gebrauchswerte sind die Waren vor allem verschiedner Qualität, als Tauschwerte können sie nur verschiedner Quantität sein, enthalten also kein Atom Gebrauchswert.
使用価値としては、諸商品は、なによりもまず、いろいろに違った質であるが、交換価値としては、諸商品はただいろいろに違った量でしかありえない。したがって一原子の使用価値すら含んではいないのである。

お金としてしか見えないからワンね。

次回はこちら。

〈1-12〉
Sieht man nun vom Gebrauchswert der Warenkörper ab, so bleibt ihnen nur noch eine Eigenschaft, die von Arbeitsprodukten. Jedoch ist uns auch das Arbeitsprodukt bereits in der Hand verwandelt. Abstrahieren wir von seinem Gebrauchswert, so abstrahieren wir auch von den körperlichen Bestandteilen und Formen, die es zum Gebrauchswert machen. Es ist nicht länger Tisch oder Haus oder Garn oder sonst ein nützlich Ding. Alle seine sinnlichen Beschaffenheiten sind ausgelöscht. Es ist auch nicht länger das Produkt der Tischlerarbeit oder der Bauarbeit oder der Spinnarbeit oder sonst einer bestimmten produktiven Arbeit. Mit dem nützlichen Charakter der Arbeitsprodukte verschwindet der nützlicher Charakter der in ihnen dargestellten Arbeiten, es verschwinden also auch die verschiedenen konkreten Formen dieser Arbeiten, sie unterscheiden sich nicht länger, sondern sind allzusamt reduziert auf gleiche menschliche Arbeit, abstrakt menschliche Arbeit.
そこで商品の使用価値を捨象して見れば、商品体に残るのは、それがただ労働生産物という性質だけである。しかし、この労働生産物も、われわれの手の内ですでに変えられている。労働生産物の使用価値を捨象するならば、それを使用価値にしている物体的な諸成分や諸形態をも捨象するということだ。その商品、もはや机や家や糸やその他の有用な物体ではない。労働生産物の感覚的性状はすべて消し去られている。それはまた、もはや指物労働や建築労働や紡績労働やその他の一定の生産的労働の生産物でもない。労働生産物の有用性といっしょに、労働生産物に表わされている労働の有用性は消え去り、したがってまたこれらの労働のいろいろな具体的形態も消え去り、これらの労働はもはや互いに区別されることなく、すべてことごとく同じ人間労働に、抽象的人間労働に、還元されているのである。

〈1-10〉Ein einfaches geometrisches Beispiel…

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〈1-10〉

Ein einfaches geometrisches Beispiel veranschauliche dies. Um den Flächeninhalt aller gradlinigen Figuren zu bestimmen und zu vergleichen, löst man sie in Dreiecke auf. Das Dreieck selbst reduziert man auf einen von seiner sichtbaren Figur ganz verschiednen Ausdruck – das halbe Produkt seiner Grundlinie mit seiner Höhe. Ebenso sind die Tauschwerte der Waren zu reduzieren auf ein Gemeinsames, wovon sie ein Mehr oder Minder darstellen.
このことは簡単な幾何学の実例で考えると明瞭になる。多数の直線で囲まれている図形の面積を計算し比較するために、それはいくつもの三角形に分割される。三角形は、その目に見える形とはまったく異なる表現─その底辺と高さの積の2分の1─に還元される。同じように、商品たちの交換価値も、その多寡を表すある「共通なもの」に還元されるのである。

Ein einfaches geometrisches Beispiel veranschauliche dies. Um den Flächeninhalt aller gradlinigen Figuren zu bestimmen und zu vergleichen, löst man sie in Dreiecke auf.
このことは簡単な幾何学の実例で考えると明瞭になる。多数の直線で囲まれている図形の面積を計算し比較するために、それはいくつもの三角形に分割される。

ここは比喩で、むつかしくないワンね。

こういうの。

たとえばA国の「富」が青い多角形で、B国のそれが赤い多角形で表されるとして。
青は赤より大きいか小さいか等しいかを判定する。

ふむふむ

そんなとき、三角形という要素に分解してそれぞれの面積を求めます。
富を「商品」という要素に分解して調べるのと同じです。

小学校でやったワンね

青い方を調べるとして、その要素である三角形A、B、C、Dはそれぞれどのくらいの面積だろうか?みたいにやるわけです。
そしてそれを合計するわけだけど…

多角形を「三角形という諸要素の集まり」と考える

確かに。

パット見で三角形Bと三角形Dは同じであるとはどういうことかというと?

それぞれの「底辺×高さ÷2」が同じ数字になるということワンね。

Das Dreieck selbst reduziert man auf einen von seiner sichtbaren Figur ganz verschiednen Ausdruck – das halbe Produkt seiner Grundlinie mit seiner Höhe. Ebenso sind die Tauschwerte der Waren zu reduzieren auf ein Gemeinsames, wovon sie ein Mehr oder Minder darstellen.
三角形は、その目に見える形とはまったく異なる表現─その底辺と高さの積の2分の1─に還元される。同じように、商品たちの交換価値も、その多寡を表すある「共通なもの」に還元されるのである。

スミスやリカードを読んでいると感じるのだけど、確かに彼らの「富」は商品の集合なんですよね。
現代の、たとえばGDPの比較をする経済学でもやっぱりそう。

漠然とした集まり。

わかったか!
ということで商品の分析に戻るぞよ。

まとめると、まず
 多角形」:(の比喩)
その要素として
 三角形商品」(の比喩)
共通のもの
 底辺×高さ÷2???

???は何だろうということになるワンね。

〈1-11〉
Dies Gemeinsame kann nicht eine geometrische, physikalische, chemische oder sonstige natürliche Eigenschaft der Waren sein. Ihre körperlichen Eigenschaften kommen überhaupt nur in Betracht, soweit selbe sie nutzbar machen, also zu Gebrauchswerten. Andererseits aber ist es grade die Abstraktion von ihren Gebrauchswerten, was das Austauschverhältnis <52> der Waren augenscheinlich charakterisiert. Innerhalb desselben gilt ein Gebrauchswert grade so viel wie jeder andre, wenn er nur in gehöriger Proportion vorhanden ist. Oder, wie der alte Barbon sagt:

“Die eine Warensorte ist so gut wie die andre, wenn ihr Tauschwert gleich groß ist. Da existiert keine Verschiedenheit oder Unterscheidbarkeit zwischen Dingen von gleich großem Tauschwert.”(8)

Als Gebrauchswerte sind die Waren vor allem verschiedner Qualität, als Tauschwerte können sie nur verschiedner Quantität sein, enthalten also kein Atom Gebrauchswert.
(8) “One sort of wares are as good as another, if the value be equal. There is no difference or distinction in things of equal value … One hundred pounds worth of lead or iron, is of as great a value as one hundred pounds worth of silver and gold.” <” … Blei oder Eisen im Werte von einhundert Pfund Sterling haben gleich großen Tauschwert wie Silber und Gold im Werte von einhundert Pfund Sterling.”> (N. Barbon, l.c.p. 53 u. 7.)

この共通なものは、幾何学的また物理学的また化学的などの自然の性質ではありえない。およそ商品の体的(körperlich)な性質は、ただそれらが商品を有用にし、したがって使用価値にする限りにおいてのみしか問題にならないのである。ところが、他方、諸商品の交換関係の明白な特徴は、まさに諸商品の使用価値の捨象である。交換関係において、ある一つの使用価値は、それがただ適当な割合でそこにありさえすれば、他の商品の使用価値とちょうど同じだけと認められるのである。かの老バーボンが言っているように、

「一方の商品種類は、その交換価値が同じ大きさならば、他方の商品種類と同じである。同じ大きさの交換価値をもつ諸物のあいだには差異や区別はないのである。」(八)

使用価値としては、諸商品は、なによりもまず、いろいろに違った質であるが、交換価値としては、諸商品はただいろいろに違った量でしかありえないのであり、したがって一原子の使用価値すら含んではいないのである。


*(八)“One sort of wares are as good as another, if the value be equal. There is no difference or distinction in things of equal value … One hundred pounds worth of lead or iron, is of as great a value as one hundred pounds worth of silver and gold.” ” …価値100ポンドの鉛や鉄は、価値100ポンドの銀や金と同じ大いさの交換価値を持つ。”(N. Barbon, l.c.p. 53 u. 7.)

〈1-9〉Nehmen wir ferner zwei Waren, z.B….

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〈1-9〉

Nehmen wir ferner zwei Waren, z.B. Weizen und Eisen. Welches immer ihr Austauschverhältnis, es ist stets darstellbar in einer Gleichung, worin ein gegebenes Quantum Weizen irgendeinem Quantum Eisen gleichgesetzt wird, z.B. 1 Quarter Weizen = a Ztr. Eisen. Was besagt diese Gleichung? daß ein Gemeinsames von derselben Größe in zwei verschiednen Dingen existiert, in 1 Quarter Weizen und ebenfalls in a Ztr. Eisen. Beide sind also gleich einem Dritten, das an und für sich weder das eine noch das andere ist. Jedes der beiden, soweit es Tauschwert, muß also auf dies Dritte reduzierbar sein.
 次は二つの商品を考えよう。例えば小麦と鉄だ。両者の交換の関係がどのようになっているとしても、それは常に一つの等式で表すことができる。つまり所与の小麦の数量値(Quantum)に対して、どれだけの数量値(Quantum)の鉄が等置されるかの式で表すことができる。たとえば「1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄」である。この式は何を語っているのだろうか? それは、同じ大いさの一つの「共通なもの」(ein Gemeinsames)が、二つの違った物体のうちに存在しているということである。小麦と鉄の両者はだから「ある一つの第三のもの」と等しい。この第三のもの自体は「あるもの」ではないし「別のもの」でもない。交換価値である限り、それはこうした第三のものに還元されうるのでなければならないのである。

Nehmen wir ferner zwei Waren, z.B. Weizen und Eisen
次は二つの商品を考えよう。例えば小麦と鉄だ。

はい。

Welches immer ihr Austauschverhältnis, es ist stets darstellbar in einer Gleichung, worin ein gegebenes Quantum Weizen irgendeinem Quantum Eisen gleichgesetzt wird, z.B. 1 Quarter Weizen = a Ztr. Eisen.
両者の交換の関係がどのようになっているとしても、それは常に一つの等式で表すことができる。つまり所与の小麦の数量値(Quantum)に対して、どれだけの数量値(Quantum)の鉄が等置されるかの式で表すことができる。たとえば「1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄」である。

Austausch-verhältnis、交換-関係なので「交換(の)関係」と訳されますが、Verhältnis を重視したのがヘーゲルです。

この訳し方に悩んで間が開いてしまいました。

そうなんだ。

先日、川崎誠の「資本の運動には際限がない」― 「論理的構文論」による『資本論』読解 ―という論文を眺めていたらこんな一節がありました。

『大論理学』におけるキーワードの一つである ‘Verhältnis’の訳語「比」については、あらか じめ以文社版訳者(寺沢恒信)の注 ― 量論 におけるものだが ― を参照しておくのがよ かろう。
[ここでは]事柄の内容に即していえば 「比」というよりも「相関関係」と訳すべ きであるが、それでは本文に述べられたこ ととの連関がつかなくなるので、無理を承知でこう訳した。要するに、ドイツ語でいえば無理のないことが、日本語に訳すと、 どう訳しても無理になる。日本語では「比」 =「相関」ではないから。(1 p.451訳者注 51)

‘Verhältnis’ は「ある何か」が「別の何か」と対峙する「比」であり「関係」なんだよな。

ふうむ

いつかちゃんと論じたいけれど、語幹の halt が大事なんです。halten は「持っている」という動詞で、Inhalt は中身、内容、容積。
Inhaltはすでに<1-6>に登場していました。
「使用価値は、富の社会的な形式がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容(Inhalt)をなしている。」

内部に持っているものという感じワンね。

うん、Inhalt の In が内部を表すことは英語の in からも類推できると思うけれど、一方、halten に ver がくっつく ver-halten という動詞は「持つようにする」という感じが出る。
「1クオーターの小麦」という「あるもの」は、「aツェントナーの鉄」という「別のもの」に手を伸ばして「1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄」という関係を取り結ぶ。

Was besagt diese Gleichung?
この式は何を語っているのだろうか?

Gleichung を「式」としたけれどこれも、「1クォーターの小麦とaツェントナーの鉄が等置されるとはどういうことだろうか?」と訳してもいいところ。
Gleichungは「等置すること」でもあるから。

確かにこれは不思議なことなんですよ。
鉄は小麦ではないし、1と a は多くの場合違う数字が入る。
「どこが、何が等しいんだ??」と宇宙人は思うでしょう。

確かに。
単位すら違うし。

なおクォーターは容積の、ツェントナーは重さの単位です。

daß ein Gemeinsames von derselben Größe in zwei verschiednen Dingen existiert, in 1 Quarter Weizen und ebenfalls in a Ztr. Eisen.
それは、同じ大いさの一つの「共通なもの」(ein Gemeinsames)が、二つの違った物体のうちに存在しているということである。

そうでしかありえない。
ここで大事なのは、等しいものがあるから等置されたと言っているのではなくて、人間たちは現に等置しているのだからそこには人間たちにとって「等しいもの」が存在するはずだと言っているわけです。

おおそうか!

Beide sind also gleich einem Dritten,
小麦と鉄の両者はだから「ある一つの第三のもの」と等しい。

das an und für sich weder das eine noch das andere ist. Jedes der beiden, soweit es Tauschwert, muß also auf dies Dritte reduzierbar sein.
この第三のもの自体は「あるもの」ではないし「別のもの」でもない。交換価値である限り、それはこうした第三のものに還元されうるのでなければならないのである。

ここはいろいろ語りたい。

an und für sich

カント的な an-sich-sein ではない形で存在するものが語られている。

第三のもの、ワンね

復習すると、カントは人間が認識するのは Ding an sich(モノ自体)ではなくて、人間はそれを空間や時間などのカテゴリーを通じて知覚し判断するとしたのでした。

カント的「もの自体」

客観的

しかしこれだと二元論に陥ってしまうのでヘーゲルは何としても避けたい。

すると人とモノの関係は、こういうことになる。

ヘーゲル的「もの自体」

こんな感じかなあ。世界には無数の人やモノがあって様々な関係を取り結ぶわけ。

ヘーゲル的世界像?

ふむふむ。
『精神現象学』の、主人と奴隷とモノの関係もこの図で行けるような。

そうだね。

ところが、ここで出てきた「第三のもの」は、それ自身、そうしたものではない。
それは「あるもの」と「別のもの」が等置されるときに、しかも「あるもの」とも「別のもの」とも違うかたちで、ある

それが「ある」ということが論証されているということワンね。

だからぼくはここはすごく好きなんです。

さて次回は<1-10>

これも面白いよね。

〈1-10〉
Ein einfaches geometrisches Beispiel veranschauliche dies. Um den Flächeninhalt aller gradlinigen Figuren zu bestimmen und zu vergleichen, löst man sie in Dreiecke auf. Das Dreieck selbst reduziert man auf einen von seiner sichtbaren Figur ganz verschiednen Ausdruck – das halbe Produkt seiner Grundlinie mit seiner Höhe. Ebenso sind die Tauschwerte der Waren zu reduzieren auf ein Gemeinsames, wovon sie ein Mehr oder Minder darstellen.
このことは簡単な幾何学の実例で考えると明瞭になる。多数の直線で囲まれている図形の面積を計算し比較するために、それはいくつもの三角形に分割される。三角形は、その目に見える形とはまったく異なる表現─その底辺と高さの積の2分の1─に還元される。同じように、商品たちの交換価値も、その多寡を表すある「共通なもの」に還元されるのである。

〈1-8〉Eine gewisse Ware, ein Quarter Weizen …

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〈1-8〉

Eine gewisse Ware, ein Quarter Weizen z.B. tauscht, sich mit x Stiefelwichse oder mit y Seide oder mit z Gold usw., kurz mit andern Waren in den verschiedensten Proportionen. Mannigfache Tauschwerte also hat der Weizen statt eines einzigen. Aber da x Stiefelwichse, ebenso y Seide, ebenso z Gold usw. der Tauschwert von einem Quarter Weizen ist, müssen y Stiefelwichse, y Seide, z Gold usw. durch einander ersetzbare oder einander gleich große Tauschwerte sein. Es folgt daher erstens: Die gültigen Tauschwerte derselben Ware drücken ein Gleiches aus. Zweitens aber: Der Tauschwert kann überhaupt nur die Ausdrucksweise, die “Erscheinungsform” eines von ihm unterscheidbaren Gehalts sein.
 ある一つの商品、たとえば1クォーターの小麦は、xの靴墨や、yの絹や、zの金、などなど、要するに、自分以外の諸商品と、それぞれに異なった比率で交換される。このように、小麦は多様な(Mannigfach)交換価値を持つのであって、ただ一つの固有のそれを持つのではない。そしてxの靴墨も、yの絹も、zの金などなどは、みな1クォーターの小麦の交換価値なのだから、xの靴墨も、yの絹も、zの金などなどは、互いに置き換えることができる、もしくは互いに等しい大きさの交換価値でなけれならない。従って次のことが言える。第一に、同じ商品の妥当な交換価値たちは一つの同じものを表している。しかし第二に、およそ交換価値は、ただ、それとは区別される或る内実(Gehalt)の表現形式、「現象形態」でしかありえない。

「多様な交換価値」の図

ここはむつかしくない気がするけれど、後半(従って次のことが言える、以降)がくどいと感じがするというか。
交換価値たちが「一つの同じもの」を表していると言えるのかな?

うん実はそこが重要なことで、「一つの同じもの」を表しているのでなければ、=(統合)でつなぐことはできないんだよね。
等しいから=で結ばれるのではなくて、=で結ばれているから等しい共通のものがあるに違いないってなるというわけ。

うーん

「あるなしクイズ」

えええ



わかった、「ある」はみんな都道府県名が隠れてる!
岐阜、滋賀、京都、高知、佐賀

ここの話はこれのちょうど逆というか似てて。
「1クォーターの小麦」、「xの靴墨、「yの絹、「zの金、などなどは共通したものがあるからこそ、世の中の人々は=で結んでいるんだなとわかるよね、という仕組みなんです。

筆者のマルクスがそれらを等号で結んでいるのではなく…

違うの?

そうではなくて、交換している人々はそういう形で異なるものをお互いに「等しい」と言っているのだから、「共通のものがあるはず」が導出できるんよ。

そうかー
人々は意識しなくてもそれを感知しているわけワンね!

じゃあわかったから次の節行こうか

いや次は重い…
よく見て! 
ここ ” an und für sich “が出てくる。

なんだっけ?

そうか、この話をしなければならない↓

Hier ist die Rose, hier tanze!(Hegel)

ここで見た!

「資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る」の、第6回「ここがロドスだ、ここで跳べ!」まんがで掴む資本論の論理バトル

ぼくとしては資本論のなかでもこここそが、人類の宝だと思うくらい。
翻訳だけ紹介。

〈1-9〉
Nehmen wir ferner zwei Waren, z.B. Weizen und Eisen. Welches immer ihr Austauschverhältnis, es ist stets darstellbar in einer Gleichung, worin ein gegebenes Quantum Weizen irgendeinem Quantum Eisen gleichgesetzt wird, z.B. 1 Quarter Weizen = a Ztr. Eisen. Was besagt diese Gleichung? daß ein Gemeinsames von derselben Größe in zwei verschiednen Dingen existiert, in 1 Quarter Weizen und ebenfalls in a Ztr. Eisen. Beide sind also gleich einem Dritten, das an und für sich weder das eine noch das andere ist. Jedes der beiden, soweit es Tauschwert, muß also auf dies Dritte reduzierbar sein.
 次は二つの商品を考える。例えば小麦と鉄である。両者の交換の関係がどのようになっているとしても、この関係は常に一つの等式で表すことができる。つまり所与の小麦の量に対して、どれだけの量の鉄と等置されるかの等式で表すことができる。たとえば「1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄」である。この等式は何を語っているのだろうか? それは、同じ大いさの一つの共通物が、二つの違った物のうちに存在しているということである、すなわち、1クォーターの小麦のうちにもaツェントナーの鉄のうちにも、一つの共通物が存在するのである。つまり両方とも「ある一つの第三のもの」に等しい。この第三のものは、小麦や鉄のようにそれ自体として存在するものではなく、無関係な別のものとして存在するのでもない。従って、二つの商品は、交換価値として、この第三のものに還元できるのでなければならない。

ではまたー