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資本論を nyun とちゃんと読むための準備編1 「実体」とは?

ご無沙汰です!

イイね!が90を超えた!

思ったよりイイね!多くてうれしいけどどうしよう…

というと?

資本論の時代の人たちやカントとかヘーゲルとか、もっと昔の人(スピノザやロック)やもっともっと昔の人(アリストテレスとか)の話をぶっこもうとすると言葉がむつかしくなってしまう。

なるほどー

先日、かるちゃんとこんな話をしたのだけどどう思う?

某月某日、「スマホ」という歴史的概念について

ヘーゲルとMMTで資本論を挟み撃ちする感じで図式化したいのだけど、わかりやすくキレイに語るためには。。。

世界をシステムとして把握するときに、何らかの基本的カテゴリーから語り始めるしかないのだけれど、それはMMTにあっては政府支出であり、マルクスでは商品、ヘーゲルなら「存在」ということになります。

はあ

こうして比べるとMMTの「政府支出」というのはちょっと異様ですね。
それに先立って、政府という存在が分析されないといけません。

システムは動くものである以上、構造(仕組み)と動かす力がある。  

じゃあその力はなんだろうね?ってことになると、MMTにおいてそれは税であり、政府によるセルフプロビジョンであるという論理になっていると。

「政府が○○する」には「政府がある(存在する)」が先立つし、同じように「リンネルを交換する」には「リンネルがある(存在する」が先立つように、やっぱ最初はヘーゲルでいいんですよ(笑

なるほど

しかし「ある」とはどういうことか?というのはヘーゲルより前から考えられていたわけですね。

デカルトやカント…?

ヘーゲルの哲学史講義がその後弟子によってまとめられているのですが、あれはおもしろいですよ。

いわゆる存在に始まる形式的な体系としては、アリストテレスの形而上学、いろいろ飛ばしてヘーゲル直近のバークリーとカントを考えてみましょう。

はい

端折って言うと、バークリーは「存在とは知覚されるもののことである」とし、カントは「時空をアプリオリな認識カテゴリーと位置付けてわれわれはそれを介して事物を認識する」としたという感じですね。

ヘーゲルはこうした主観と客観という二項対立を拒否しようとしたのだと思われます。

この二つは別のものではなくて、互いに浸透しあうもの、的な。

たとえば現代の私たちは「スマホがあります」という文の意味を了解しますが、前世紀には意味がわかる人は一人もいなかったと思われます。

スマホってなんだってなります

iPhone の発売は2007年なんですね。
そのあとしばらくしても、まだ「スマホ」概念はなかったと思われます。

Androidがだいぶ普及してからですよね。

ところで、仮に今の観察者が2008年くらいを観測するとスマホの存在が確認できるはず。

この期間にスマホという概念が生成したのだけれど、これは主体(サブジェクト)と客体(オブジェクト)が相互に浸透した結果としての反射なんです。
かくして今の私たちは「それ」を知覚すると(見たりすると)その反射として「スマホがあるな」という概念が返ってくる。

なるほど

なんとなく意味わかりましたでしょうか?

これは、われわれがスマホ概念がある時代となかった時代の両方を知っているから語れる話なんですね。

そんな風に、昔の人が言わんとしていることを我々が理解しようとするときに、現代の知識を使うとわかりやすくなる局面は多々あるでしょう。

「ジョブズは前世紀からスマホを構想していた!」というように。

なんとなく分かりました

これから資本論を読み込んでいく作業でも、この手を使わわない理由はありません。

あとこれ自分で気づいていなかったのだけど、ぼくが語るMMTや資本論は「ポストモダン的だ」と批評されたことがあって、確かにそういうところはあるのでしょう。

そこで開き直って、その後の思想もじゃんじゃん援用していくつもりです。

何しろ、ポストモダン的社会批評はマルクス抜きに語れないと思います。さらに、マルクス主義から距離を置く反マルクス主義思想すらも、まさにそのことによってマルクスを踏まえているわけですね。

というわけで、最初に語っておきたいのがソシュールの言語学というか、丸山圭一郎によるその説明です。

「〈犬〉という語は、〈狼〉なる語が存在しない限り、狼をも指すであろう。このように語は体系に依存している。孤立した記号というものはないのである。」(『ソシュールの思想』96頁)

「それぞれ「犬」と「狼」という語で指し示される動物が、はじめから二種類に概念別されねばならぬという必然性はどこにもないのと同様に、あらゆる知覚や経験、そして森羅万象は、言語の網を通して見る以前は連続体である。(中略)また、我々にとって、太陽光線のスペクトルや虹の色が、紫、藍、青、緑、黄、橙、赤の七色から構成されているという事実ほど、客観的で普遍的な物理的現実に基づいたものはないように思われる。ところが、英語ではこの同じスペクトルを、purple、blue、green、yellow、orange、redの六色に区切るし、ローデシアの一言語であるショナ語では三色、ウバンギの一言語であるサンゴ語では二色、リベリアの一言語であるバッサ語でも、二色にしか区切らないという事実は何を物語っているのであろうか。言語はまさに、それが話されている社会にのみ共通な、経験の固有な概念化・構造化であって、各言語は一つの世界像であり、それを通して連続の現実を非連続化するプリズムであり、独自のゲシュタルトなのである。」(『ソシュールの思想』118~119頁)

次に、フッサールの『現象学の理念』から

「赤の個別的直観を一度ないし数度おこない、純粋に内在的なものを固持し、現象学的還元にとりかかるものとする。わたしは、赤がふつうに意味するところのもの、超越的に統合されて、たとえば、わたしの机のうえの吸取紙の赤、等々としてあらわれるのをきりすて、こうして純粋に直観的に赤一般という観念の意味を、類としての赤を、たとえばあれこれの赤をはなれて直観される同一の一般者を、つくりあげる。個別性そのものはもはや思念されず、あれこれの赤ではなく、赤一般が思念される。じっさいに純粋に直観的にそうしたこころみをおこなった場合に、赤一般とはなにか、それはなにを意味するのか、その本質はなにか、といったことをなおも疑うのは筋のとおったことであろうか。われわれはたしかにそれを直観していて、赤という種類がそこにあり、そこで思念されているのだ。」(『現象学の理念』87~88頁)

ここのフッサールの「純粋赤」の論じ方は、ヘーゲルの「純粋有」「純粋無」の論じ方とそっくり。

資本論のマルクスは、これとちょうど同じように「商品」という概念から「あらゆる使用価値」を取り除いてなお「残る何か」を調べています。

さて、上の図で、「狼」は「犬」でも「山犬」でも「野犬」でもないことによって「狼」と言われます。

同じことを「色」で考えます。

ある色は、「他の色でないことによってその色」であるわけですね。

何が言いたいかというと
「言語学の父」ソシュールは1857年 – 1913年の人で、ヘーゲルやマルクスからの影響関係は語られないけれど、Subject-Objectという二項対立でなく、連関と連鎖で存在を考える思考様式はヘーゲルあたりに始まっているのです。

でも、この話がどうして存在論(オントロジー)的なのかは日本語感覚ではわかりにくい。

それはこういう感じです↓

資本論にこんな図が出てきますが、似ています。

おお~

これに先立ってアリストテレスが引用されていて

「アリストテレスは『五台の寝台=一軒の家』は『五台の寝台=これこれの額の貨幣』と『違わない』と語っている。」

等置する、ということは、すなわち「違いがないということにする」という意味ですね。
different ではない、つまり右辺は左辺と「indifferent である」。

インディファレント…

MMTと資本論を繋ぐ indifference

ここで思考をMMTに飛ばすとですね。
「価格は売り手と借り手のインディファレントな水準を表す」、というのはMMTの価格理論の重要な出発点なんです。
マルクスもそうだよということ。

”markets allocating by price as they express indifference levels between buyers and sellers

これ↑はモズラーの言葉なわけだけれども、上の資本論の図の左辺、つまり「20エレのリンネル」、「1着の上着」、「10ポンドの茶」…というそれぞれは indifferent な水準で並べられいる。

だからモズラーは資本論と同じ話をしているということになる。
彼がそれに気づいていても、そうでないにしても。

indifference という言葉は、異なるモノの価値が同じになる(=差がない)ところで価格が決まるという意味で、主流経済学ではあまり出てきませんがMMTでは重要なはずなので覚えてくださいね!

はい!

というわけで「実体」の話

というわけでこんな感じだとむつかしすぎるか?

何がやりたいのかがよくわからないワンね

うん。ええとねえ。
ここは「資本論をちゃんと読む」っていうテーマでやるわけだけど、そういうテーマの本はすでにたくさんあるし、探すとサイトもぼちぼちある。
で、みんなそれなりに「ちゃんと」書こうとしているんだよね。

同じことをやっても意味ないワンね

出だしが有名なんだけど知ってるよね

なんだっけ?

「資本制生産様式が主流を占める諸社会の富は、商品の膨大な集まりとして現れる…」

うん、
そこはみんな力こぶ入れて語っているし、ぼくもそうしたい(笑

じゃあどうしよう。

序文から始めるパターンもある。けどやっぱ本文からかな。

本文の最初の節の見出しに注目!
ここが新しい(笑

節の見出し。。。

この「実体」って何でしょうね?

ご丁寧に「価値(価値実体 価値量)」とここで入れる意味は何でしょうか。

本文を読むとわかるしくみなのかな

いや、ぼくはこれ、現代のほとんどの人にはわからないと思う。

そうなの?!

たとえば宇野弘蔵という人は、「マルクスがこの節で価値の実体規定を与えているのはおかしい!」みたいな読み方をして、資本論の論理構成を独自のものに組み替えるんだよ。

そうなんだ

前にヘッドホンが教えてくれたのを引用するね。

マルクスは,価値形態論においても,したがってまた価値尺度論においても,商品はその価値を,その生産に社会的に必要とされる労働によって規定され,価値形態はそれをそのままに表示するものとして解明されなければならないとしている。貨幣の価値尺度としての機能も,価格の価値との不一致の可能性を認めながらも,価値通りに表示するものとして尺度するものと考えているのである。しかし商品経済は,マルクス自身も十分によく知っているように,価格の変動を通して価値法則を貫徹せしめるのであって,商品の価値形態も,貨幣の価値尺度機能も,かかる価格の価値を中心とした変動を容れる形態であり,機能である。それは最初から商品の価値を価値通りに表示するものとしたのでは,むしろそういう特殊の性格が見失われることになる。価値の実体論的規定を形態規定に先だって与えたことは,形態論の方法を誤ることにならざるをえなかったといってよい。

(宇野弘蔵『宇野弘蔵著作集 第九巻』岩波書店,211ページ)

一般に形態は実体あっての形態であって,先ず実体が明らかにされなければ,形態は展開されないーと考えられるであるが,しかし商品論にあっては,したがってまた資本家的商品経済を支配する経済法則を明らかにする経済学の原理論にあっては,それはむしろいわゆる本末転倒といってよい。商品経済がその商品価値の実体となすものは,単に商品経済にのみ特有なものに基くのではない。労働価値論によって価値の実体をなすものとして明らかにされる,商品の生産に社会的に必要とされる労働は,社会的に必要とされる生産物が商品形態を与えられないでも,社会的実体をなすものである。しかしまたかかる社会的実体は,それ自身として商品価値の実体をなすものとしてその形態を展開するわけではない。むしろ逆である。商品形態は,共同体と共同体との間に発生して,共同体の内部に滲透していって,それらの共同体を一社会に結合しつつ社会的実体を把握することになるのであって,形態自身はいわば外から実体を包摂し,収容するのである。もちろん形態自身にも社会的実体を包摂しうる等置関係の形式が有るのであるが,しかしそれはすでに繰り返し述べてきたように,実体をそのままに等置関係におくものではなく,貨幣を通して間接的に,しかも繰り返し行われる売買関係の内に,社会的実体を包摂する形態となるのである。それは実体をそのままに包摂する,実体あっての形態としては,決してその特殊の性質を明らかにしえないものなのである。

(宇野弘蔵『宇野弘蔵著作集 第九巻』岩波書店,212-213ページ) 

『資本論』は,第一巻の第一章商品の最初に,生産物の商品形態が主題たることを指摘し,使用価値と価値とが商品の二要因をなすことを明らかにすると直ちに価値の実体を,商品の生産によってその生産に要する労働として説くのであるが,商品の生産過程自身はここではなお解明されてはいない。また実際商品は資本と異なって生産の形態をなすものではなく,その生産過程なるものは,一般的なる生産過程を包摂する特殊形態の生産過程として説きうるものではない。マルクスは,本文に指摘したように,後に「絶対的剰余価値の生産」と題する第三篇において資本の生産過程を説くとき始めて,その篇の最初に「労働過程」を説くのである。しかしすでに第一章で商品の生産を説いているために,反ってこの「労働過程」は一般的な労働生産過程としての規定を十分には展開しえないことになっている。

(宇野弘蔵『経済原論』岩波文庫,25-26ページ)

ぼくは宇野のことをよく知らなかったのだけど、とてもユニークな人だなとは思っていて、でも、動機がよくわからなかったんです。

でも宇野がああいう独自のことができしまったのかというと、ドイツ語の Substanz という言葉の意味を完全につかみそこなったせいだなと今は思うんだよね。
ヘーゲルが使った Substanz という言葉の意味ね。

その言葉は大事なわけワンね

うん。
とくに宇野が言うような、「一般に形態は実体あっての形態であって,先ず実体が明らかにされなければ,形態は展開されないーと考えられる」ということはまったくないのよ。

観察者が「明らか」にしていようがしていなかろうが、サブスタンツは形態を変えるんです。つぼみが花になり実になるように。

そういう意味ならそうワンね

うん。
資本論の論理展開は、ヘーゲルのそれが下敷きになっているのだけど、
「価値(価値実体と価値量)」、Wert(Wertsubstanz, Wertgröße) という見出しは、この時点でそれを宣言しているようなものなんだよ。

ヘーゲルを知っている人なら一目で気づくの。
ヘーゲルのエンチクロペディー(Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse、哲学的知識体系の百科事典・要綱)という壮大な著作があるのだけど、それが下敷きなんですよ。

はー

というわけで、「価値(価値実体 価値量)」について語りたいのだけど、我々としてはそのまえに、例えばドイツ語の Substanz と日本語の「実体」という言葉には意味内容に違いが出てしまうだよね、という話を挟むことにしなければ。。。


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