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資本論を「ちゃんと」読むにあたり

「オリジナルの議論」を、どこまで「一貫したもの」と把握できるのかを考え抜くという作業は、やはり欠かせないのではないか、と今になって痛感しています

研究室訪問 経済学研究科教授 石倉雅男

 以下の引用は、昨年、つまり2020年の8月に急逝された一橋大学大学院経済学研究科の石倉雅男教授が、わたくしの若い友人であり、先生の最後の弟子のひとりであるヘッドホン氏宛ての、亡くなる二か月ほど前の 2020年6月28日 に送られたメールの内容になります。公開に当たってはヘッドホン氏の許可をいただきました。

 鈴木様

 ご連絡御礼.

 おそらく,MMTの著者たちは,マルクスは「商品貨幣論」であると理解していると思います.また,マルクス経済学を講じている多くの先生方も,『資本論』第1部で「一般的等価物」の機能が「gold」に固定化した場合について論じられているので,「gold」が本来の貨幣であるというのがマルクス自身の見解であると判断しておられると思います.
 しかし,マルクス経済学の立場をとるとしても,『資本論』第1部の論理段階に留まらないで,より具体的な次元で貨幣や金融の仕組みを考察する場合には,中央銀行・民間銀行・非銀行民間・政府などの
政府部門が関係する「決済システム」では「銀行預金」(民間銀行の負債)が決済手段として用いられること,実物資産としての「gold」と「銀行の預金債務」は性格が異なることを,ふつうに認識している人も,少なからずいます.私もそのような立場です.蛇足ながら,私自身は,『資本論』第1部第1章の商品・貨幣論から出発する場合でも,「金属貨幣」という実物資産ではなく,銀行の預金債務が決済手段として用いられる実際の取引を考察することは,十分に可能であると考えています.(このような話は,拙著の第2版のほうにも書いてあります.)
 また,(私自身はそこまで勉強できていませんが)マルクスが『資本論』第3部の利子生み資本論とか信用論で,(銀行の信用創造の仕組みを詳しく検討することまでは,マルクスは生前,出来なかったようですが),「信用貨幣」を用いた決済と言ってよい商品取引と金融取引について言及している所は,たくさんあります.マルクスの草稿を研究するためには,ドイツ語の読解能力は不可欠であると思いますが,草稿研究に従事しないかぎりは,『資本論』の原文を少し確認するくらいであれば,(私の場合には,昔の一橋大学小平分校で習った)ドイツ語入門で十分です.MMTのように中央銀行と政府部門,民間銀行,非金融民間の制度部門間の資金循環を念頭におく分析視角の検討を中心に研究を進める場合には,研究時間の配分の観点から言うと,マルクスの原文を詳しく検討する時間は,無いと思います.
 また,MMTのほか,ポストケインズ派経済学を吟味し,検討する場合には,商品貨幣論と信用貨幣論の違いという論点だけでは,問題の焦点に迫ることは難しいと思います.(ポストケインズ派経済学を長年研究している人々,たとえば,明治大学商学部名誉教授の渡辺良夫先生も,そのように言っておられました.)
 伝統的な「マルクス経済学」の教科書(―拙著は「伝統的な立場の教科書」ではないです)に書いてある古典的な「商品貨幣論」とその機械的適用[「世界貨幣は現代でも以前として金である」という類いの認識]は,実際の金融システムを検討するさいには,まったく役に立たないと私は思います.

石倉

 わたくし nyun はこの頃にヘッドホン氏と知り合い、石倉先生のお人柄やおおよその考え方を把握したうえで、おそらく近い将来にお目にかかってMMTや資本論について議論することができるだろうと予感し、その機会を楽しみにしていたものです。

 その夢は実現しませんでした。

 ただわたくしはその後の一年余りの思考を経て、今ようやく先生の知的好奇心を恐らくは大いなる驚きを持って満足させることができるだけの水準の答案が書けるようになっていると思っています。

 一言で言えば『マルクスは「商品貨幣論」である』という問いの立て方が初めから失当だっただけなのです。「商品貨幣論」という言葉は、そうではない「別の」貨幣論なるものをあらかじめ前提にしてしまっている。

 しかしマルクスにおいて「お金(Geld)」は お金(Geld) なのであって 、読者がわざわざ「商品貨幣論」と区別することはむしろその内容を台無しにしてしまう思考です。

 これは、とんでもないことです。

 『資本論』第1部第1章 で提示されている「お金(Geld)」の把握は、それどころか、「貨幣の本質は信用貨幣である」と言い募る人々の思考をはるかに超えた、掛け値なしの、史上最上級の知性によるものだったのであり、MMTの貨幣観を完全に先取りしています。

 この事情を物理学の相対性理論になぞらえると、MMTが特殊相対性理論であるとすれば、資本論は一般相対性理論に当たると言えるでしょう

 アインシュタインは光速度不変の思考実験から、特殊相対性理論を編み出し、それを一般相対性理論に「一般化」しました。(ちょうどケインズが「一般理論」において「古典派経済学」に非自発的失業を加えることで「一般化」と称したように、とも言えるでしょう)。

 MMTと資本論の論理的な関係は、これとは逆に、マルクスが「一般理論」を発見し、MMTはその「特殊理論」を再発見したという形をしているのです。

 ここで指摘しておきたいのは、通常の「科学(アインシュタインやケインズ)」とマルクスとMMTに見られるこの逆転現象は、マルクスやMMTの「わかりにくさ」の顕れであり、それはとりもなおさず「お金」というものの「掴みどころのなさ」にどうやら由来しているということです。

 掴みどころがないのは「商品」や「仕事(労働)」も同じです。

 ここで物理学の「仕事」はどうでしょうか。「力」や「座標」などが定義された後に「物体に力 F が作用し、その位置が Δx だけ変化したとき、力 F がこの物体に対してした仕事 W は W=F・Δx  である」というように、 W として定義されるのが物理学における「仕事」の一例です。

 対してマルクスはこうした考え方を採りません。そうではなく、私たちが「仕事」と呼んだり「交換」と 呼んだり 「商品」と呼んだりしているものはいったい何か?そうした「現実」から出発して、決して現実を離れない。

 だからこそ資本論は恐ろしい。

 さて、このシリーズは資本論の一文一文を丹念に読んでいくことを企図しており、さっそくそれを始めるつもりでした。

 しかし 石倉先生 の文章を拝見して「 『資本論』第1部第1章の商品・貨幣論 」に相当する部分については、あらかじめ見通しを与えておいた方が良いだろうと考えを変えることになりました。

 いったいマルクスは貨幣、お金というものををどのように把握していたのでしょうか?

 石倉先生がおっしゃられたようにオリジナルの議論を丹念に読もうとする。そうすると一貫した美しい構造が姿を現すのです。

 「お金」とは「仕事」「交換」「商品」などと呼ばれているものから浮き彫りになっていく「何か」です。

 だから、そういうわけで、まずは 「仕事」「交換」「商品」は何なのかをちゃんと考え、「お金」が導出されるところまでは見通しを付けておきたく。

 つづく


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