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〈1-5〉Jedes nützliche Ding, wie Eisen, Papier usw., ist…

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〈1-5〉

Jedes nützliche Ding, wie Eisen, Papier usw., ist unter doppeltem Gesichtspunkt zu betrachten, nach Qualität und Quantität. Jedes solches Ding ist ein Ganzes vieler Eigenschaften und kann daher nach verschiedenen Seiten nützlich sein. Diese verschiedenen Seiten und daher die mannigfachen[49] Gebrauchsweisen der Dinge zu entdecken ist geschichtliche Tat. (3) So die Findung gesellschaftlicher Maße für die Quantität der nützlichen Dinge. Die Verschiedenheit der Warenmaße entspringt teils aus der verschiedenen Natur der zu messenden Gegenstände, teils aus Konvention.

(3) “Dinge haben einen intrinsick vertue” (dies bei Barbon die spezifische Bezeichnung für Gebrauchswert), “der überall gleich ist, so wie der des Magnets, Eisen anzuziehen” (l.c.p. 6). Die Eigenschaft des Magnets, Eisen anzuziehn, wurde erst nützlich, sobald man vermittelst derselben die magnetische Polarität entdeckt hatte.

鉄や紙など、それぞれ有用な物体(Ding)は、二重の(doppelt)観点、つまり質と量との観点から考察される。こうした有用な物体はどれも、多くの性質がまとまった一全体(ein Ganze)であり、だからさまざまな方面に有用ということになる。これら物体のさまざまな方面の諸用途は、人類がその都度発見してきたものである(三)。有用物体の分量の社会的な公認尺度(Maß)もまたその都度決められてきたものである。商品の量を測る尺度にはさまざまなものがあるが、それは秤量される対象の本性(Natur)が多種多様であるためであり、あるいは慣習でそうなった部分もある。

*(三)「諸物は内的な効力(intrinsick vertue、これはバーボン特有の使用価値を意味する言葉である)を持っている。すなわち、どこにあっても同じ効力を持っている。たとえば磁石は鉄を引き付けるというように。」(同前、第六頁)
磁石が鉄を引きつけるという性質は、磁石によって磁極が発見されると同時に有用になったのである。

読み流されやすいですが、ここはすごいです。

ここは、我々が認識する外界の一対象( ein äußerer Gegenstand ) であるところの、「商品」という物体( Ding )の議論なのですが、カントはこうでした。

再掲 カント的認識の図

ふむふむ

これだと二元論に陥ってしまう、つまり、人間の理性は経験を超えることができないということになってしまう。
ということで、ヘーゲルはこうしたいんです。

ヘーゲルはこうしたい、の図

人間は世界の外部に立っているわけではないちゅうことワンかね

「鉄や紙など、それぞれ有用な物体(Ding)は、二重の(doppelt)観点、つまり質と量との観点から考察される。」

ここから行くと

鉄だったら、「重い」「硬い」「高温で溶ける」
紙だった、「薄い」「インクを固着させることができる」

こうした諸性質、つまり「質」が有用性に直結するわけだけれど、諸性質必ず「量」の側面からも思考されているんです。

というと?

うん。
どのくらい?という程度があるわけ。
「どのくらい重い?」「どのくらい硬い?」「どのくらいの高温で溶ける?」
「どのくらい薄い?」「どのくらいインクを固着する?」

これが「量」の側面。

そうか!

量と質と規定は三位一体で、どれかを欠くことはあり得ません。
たとえば重さが100kgだとすると、こう。

量、質、規定の三位一体

なるほど

でもこれ順番はどうでもいいの?
こんな風に。

三位一体の順番を変える

よい質問。
「kgという規定での重さは100である」
これは
「重さは100kgである」
と同じ意味でしょう?
三位一体は、三つの関係があればいいので、場所は交換可能なんです。

三位一体の三位一体!

三位一体の三位一体

さて、商品という有用なDing(物体)は、こうした三位一体の規定性(質・量)の集合であると考えられるということになりました。

うん

カントよりちょっと前のバークリーという哲学者は「物が存在することは、知覚されることだよね」「存在は知覚の集合だよね」みたいに考えたのだけど、そこからだいぶ進歩している。

そこからカント、ヘーゲルを経てマルクスに至るとこうなるかな。
「商品という存在は規定性(質と量)の集合だ」。

図にすると、こうだね。

商品は人間に役立つ諸性質(量・質・規定)の集まった一全体

おおお

ところでバーボンをちゃんと読む、も本当に始まったワンね。

こちらもよろしくお願いします!

人類より先に磁力はあったのか

註三は少し議論を呼びそうです。
人類が磁力を発見するまで「磁力」はあったのだろうか?

*(三)「諸物は内的な効力(intrinsick vertue、これはバーボン特有の使用価値を意味する言葉である)を持っている。すなわち、どこにあっても同じ効力を持っている。たとえば磁石は鉄を引き付けるというように。」(同前、第六頁)
磁石が鉄を引きつけるという性質は、磁石によって磁極が発見されると同時に有用になったのである。

あったにきまってるワン!

そうではない、とも受け取れるように書かれているよね。
ぼくの note 読んでくれたかな?
アダムとイブが堕落する前の楽園に尺度はないんだよ。

ふうむ

それはさておき、バーボンの原文を見ておきましょう。
マルクスが引用する直前の個所から。

Value is only the Price of Things: That can never be certain, because it must be then at all times, and in all places, of the same Value; therefore nothing can have an In­trinsick Value.
価値とは、諸物の価格に過ぎない。価値は決して確かなものではあり得ない。もしそうなら、それはいつでもどこでも同一の価値になっていなければならない。従って、どんな物も内在的価値を持ってはいない。

ふむふむ

宇宙の天体は内在的な力で動いているのか、それとも外部からの力で動いているのかどちらだろう?

いきなり!
んーどっちだろ。

ニュートンのプリンピキアが出版されたのが1687年で、このころそれが大評判だったんだよね。

万有引力の法則!

それは天体に限らず、すべての物質は内在的な力を持っているという考え方なわけだ。
これが当時は最新の科学だったわけでしょう?
バーボンの批判相手になるロックは、そんな感じで銀貨の内在的価値は金属としての銀の含有量にある、と考えたんじゃないかしら。
ロックのことだから、もちろんそれは common consent「共通の同意」としてなわけだけど。

ふうむ

バーボンに戻ると、バーボンは Value と Vature は違うからしっかり分けようぜという論を展開します。
Value を価値、Vatureは「良さ」と訳そうかな。
つまり Value は値段で変動するもの、Vature は固有のもの、的な。

But Things have an Intrinsick Vertue in themselves, which in all places have the same Vertue; as the Loadstone to attract Iron, and the several qualities that belong to Herbs, and Drugs, some Purgative, some Diuretical, &c. But these things, though they may have great Virtues, may be of small or no Value or Price, according to the place where they are plenty or scarce…
他方、諸物はそれ自身のうちに、あらゆる場所で同じ力を発揮する、内在的な良さ(Intrinsic Verture)を持っている。磁石が鉄を引きつけたり、あるいは香草や薬草が備えているいくつかの性質、つまり、あるものは瀉下薬、またあるものは利尿薬というように。しかし、これらの諸物が大きな良さを持っていても、それらが豊富にある場所にあるか、希少にしかない場所にあるかによって価値や価格が小さかったり、全く価値がないということがあり得る…

わかりやすい。
需要と供給、的な?

うーん

「需要は,社会的にいっても,商品の価値を形成するわけではない。」(宇野弘蔵『宇野弘蔵著作集 第四巻』岩波書店,67頁)

「需要は,いわば商品価値規定の消極的一面をなすのであり,価値尺度としての貨幣の機能は,かかる需要の発動の形態規定にほかならない。」(宇野弘蔵『宇野弘蔵著作集 第四巻』岩波書店,67頁)

ぎゃふん

ところでマルクスはここで「鉄」と「紙」を例示しているけれど、「紙」と「価値」に関するヘーゲルの文章を「法の哲学」から引用しておくね。
うーん、

ところでマルクスはここで「鉄」と「紙」を例示しているけれど、「紙」と「価値」に関するヘーゲルの文章を「法の哲学」から引用しておくね。

価値と所有、労働(ヘーゲルとロック)

「法の哲学」の「所有」の概念規定のところでそれは登場します。
強調はわたくし。

 ここでは質的なものは量的なものの形式のなかに消えてしまう。すなわち、私が必要ということを言うとき、これはきわめてさまざまな事物がそのもとにもたらされる標号( Titel)である。したがってこれらの事物の共通性が、そのばあい、私がそれらの事物を測りうるようにさせるわけである。それゆえここでは思想の進行は、物件の独特の質から、この規定されたあり方がどうでもよい状態、つまり量へ、である。  
 これと似たようなことは数学において起こる。たとえば私が、円とは何か、楕円とか抛物線とは何かを定義するならば、それらは種的に異なった状態であることがわかる。にもかかわらず、これらのいろいろ異なった曲線の区別はたんに量的に規定される。すなわち、もろもろの係数に、もっぱらただもろもろの経験的な大いさだけに関係するところの、量的な区別が問題になるだけだというふうに規定される。  
 所有においては、質的な規定されたあり方からあらわれてくる量的な規定されたあり方は価値である。ここでは質的なものは、量にたいして特定量を与えるのであって、質的なものとしては廃棄されると同様にまた保存される。  
 価値の概念を考察するならば、物件そのものはただ標識と見なされるだけであって、それ自身としてではなく、それが値いするところのものとして通用する。たとえば手形はその紙としての性質ないし自然をあらわすのではなくて、ある別の普遍的なものの、つまり価値の、標識にすぎない。  

『法の哲学ⅠⅡ(合本) (中公クラシックス)』ヘーゲル著

で、この直後に「貨幣」が登場。

 一つの物件の価値は、必要ないし欲求への関係においてきわめてさまざまでありうる。だがもし価値の独特なものをではなくて抽象的なものを表現しようとするなら、貨幣がこれである。貨幣はすべての事物を代表する。だが、貨幣は必要ないし欲求そのものをあらわすのではなくて、必要ないし欲求の標識でしかない以上、貨幣自身がまた、独特な価値によって支配される。この価値を、抽象的なものとしての貨幣はただ表現するだけである。

同上

次回やる次の節は、今度はバーボンの論敵ロックが引用されます。

そうなんだ

ロックもヘーゲルのように価値と所有の関係を論じていて、所有の根拠は労働であるという論理を展開しているのですよね。

ほうほう、いわゆる労働価値説?

ロックの所有論についてはそうですね、下のブログをご覧ください。

草食系院生さんまとめを読んでみて、労働が所有の根拠というのはなるほどと思いました。

うちの子どもたちが川へ出かけると、いつも石を持って帰ります。
石を石で割ったり、研いでみたり。
彼らにしたらそれが労働で、ただ拾うのも労働で、だから自分のものだというわけですね。

次回は〈1-6〉です。
お疲れさまー

〈1-6〉
Die Nützlichkeit eines Dings macht es zum Gebrauchswert (4). Aber diese Nützlichkeit schwebt nicht in der Luft. Durch die Eigenschaften des Warenkörpers bedingt, existiert sie nicht ohne denselben. Der Warenkörper selbst, wie Eisen, Weizen, Diamant usw., ist daher ein Gebrauchswert oder Gut. Dieser sein Charakter hängt nicht davon ab, ob die Aneignung seiner Gebrauchseigenschaften dem Menschen viel oder wenig Arbeit kostet. Bei Betrachtung der Gebrauchswerte wird stets ihre quantitative Bestimmtheit vorausgesetzt, wie Dutzend Uhren, Elle Leinwand, Tonne Eisen usw. Die Gebrauchswerte der Waren liefern das Material einer eignen Disziplin, der Warenkunde (5). Der Gebrauchswert verwirklicht sich nur im Gebrauch oder der Konsumtion. Gebrauchswerte bilden den stofflichen Inhalt des Reichtums, welches immer seine gesellschaftliche Form sei. In der von uns zu betrachtenden Gesellschaftsform bilden sie zugleich die stofflichen Träger des – Tauschwerts.

(4) “Der natürliche worth jedes Dinges besteht in seiner Eignung, die notwendigen Bedürfnisse zu befriedigen oder den Annehmlichkeiten des menschlichen Lebens zu dienen.” (John Locke, “Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest”, 1691, in “Works”, edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.) Im 17. Jahrhundert finden wir noch häufig bei englischen Schriftstellen “Worth” für Gebrauchswert und “Value” für Tauschwert, ganz im Geist einer Sprache, die es liebt, die unmittelbare Sache germanisch und die reflektierte Sache romanisch auszudrücken.
(5) In der bürgerlichen Gesellschaft herrscht die fictio juris, daß jeder Mensch als Warenkäufer eine enzyklopädische Warenkenntnis besitzt.

物体の有用性がその物を使用価値にする(四)。有用性は宙に浮かんでいるのではない。有用性は、商品体(Warenkörper)の諸性質を前提としているのだから、商品体なしには存在しない。だから、鉄や小麦やダイヤモンドなどという商品体そのものが使用価値または財(Gut)である。商品体のこの性格は、人間がどれだけ労働することによってその諸性質が獲得されたとはかかわりがない。使用価値を考察する際には、一ダースの時計とか一エレの亜麻布とカ一トンの鉄などのような、その量的な規定性が常に前提とされている。諸々の商品の諸々の使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する(五)。諸々の使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。諸々の使用価値は、富の社会的な形式がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。我々によって考察されねばならない社会形式においては、諸々の使用価値は同時に、素材的な担い手になっている。交換価値の担い手に。

*(四)「諸物の自然的な価値(natural worth)は、さまざまな欲望を満足させたり人間の生活に役立つなどの適性にある。」(ジョン・ロック, “利子引き下げがもたらす帰結についての諸考察(Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest)”, 1691, in “Works”, edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.)
17世紀になっても英語の文章にはしばしば、Worthを使用価値、Valueを交換価値として表している例がしばしば登場するが、これはまったく、直接的な事物をゲルマン語で表現し、反省された事物をローマ語で表現することを好む言語の精神によるものである。
*(五)ブルジョア社会では、商品の買い手であるすべての人が、商品に関する百科全書的な知識を持っているという法的擬制(fictio juris)が当然のこととなっている。


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