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〈1-6〉 Die Nützlichkeit eines Dings macht es zum Gebrauchswert … 交換価値が登場!

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〈1-6〉

Die Nützlichkeit eines Dings macht es zum Gebrauchswert (4). Aber diese Nützlichkeit schwebt nicht in der Luft. Durch die Eigenschaften des Warenkörpers bedingt, existiert sie nicht ohne denselben. Der Warenkörper selbst, wie Eisen, Weizen, Diamant usw., ist daher ein Gebrauchswert oder Gut. Dieser sein Charakter hängt nicht davon ab, ob die Aneignung seiner Gebrauchseigenschaften dem Menschen viel oder wenig Arbeit kostet. Bei Betrachtung der Gebrauchswerte wird stets ihre quantitative Bestimmtheit vorausgesetzt, wie Dutzend Uhren, Elle Leinwand, Tonne Eisen usw. Die Gebrauchswerte der Waren liefern das Material einer eignen Disziplin, der Warenkunde (5). Der Gebrauchswert verwirklicht sich nur im Gebrauch oder der Konsumtion. Gebrauchswerte bilden den stofflichen Inhalt des Reichtums, welches immer seine gesellschaftliche Form sei. In der von uns zu betrachtenden Gesellschaftsform bilden sie zugleich die stofflichen Träger des – Tauschwerts.
(4) “Der natürliche worth jedes Dinges besteht in seiner Eignung, die notwendigen Bedürfnisse zu befriedigen oder den Annehmlichkeiten des menschlichen Lebens zu dienen.” (John Locke, “Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest”, 1691, in “Works”, edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.) Im 17. Jahrhundert finden wir noch häufig bei englischen Schriftstellen “Worth” für Gebrauchswert und “Value” für Tauschwert, ganz im Geist einer Sprache, die es liebt, die unmittelbare Sache germanisch und die reflektierte Sache romanisch auszudrücken.
(5) In der bürgerlichen Gesellschaft herrscht die fictio juris, daß jeder Mensch als Warenkäufer eine enzyklopädische Warenkenntnis besitzt.

物体が使用価値になるのはその有用性によってである(四)。但しこの有用性は宙に浮かんでいるのではない。この有用性は、商品体(Warenkörper)の諸性質を前提としており、商品体なしには存在するものではない。それゆえ、鉄や小麦やダイヤモンドなどという商品体そのものが使用価値または財である。商品体のこのような性格は、その使用に資する諸性質の取得が人間に費やさせるところの労働の多少にはかかわりがない。使用価値を考察する際には、一ダースの時計とか一エレの亜麻布とカ一トンの鉄などのような、その量的な規定性が常に前提とされている。諸々の商品の諸々の使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する(五)。諸々の使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。諸々の使用価値は、富の社会的な形式がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。我々によって考察されねばならない社会形式においては、諸々の使用価値は同時に、素材的な担い手になっている。交換価値の担い手に。
*(四)「諸物の自然的な価値(natural worth)は、さまざまな欲望を満足させたり人間の生活に役立つなどの適性にある。」(ジョン・ロック, “利子引き下げがもたらす帰結についての諸考察(Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest)”, 1691, in “Works”, edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.)
17世紀になっても英語の文章にはしばしば、Worthを使用価値、Valueを交換価値として表している例がしばしば登場するが、これはまったく、直接的な事柄をゲルマン語で表現し、反射された事柄をローマ語で表現することを好む言語の精神によるものである。
*(五)ブルジョア社会では、商品の買い手であるすべての人が、商品に関する百科全書的な知識を持っているという法的擬制(fictio juris)が当然のこととなっている。

このパラグラフは一見散漫だけれども、最後、交換価値を提示してその特別さをアピールする箇所として読むと唸らされるものがあります。

三番目の文
商品体のこのような性格(使用価値に資する諸性質)は、その使用に資する諸性質の取得が人間に費やさせるところの労働の多少にはかかわりがない。
を取り上げると、交換価値と使用価値のはっきりしたコントラストが描かれています。

なるほどワン

これでないと価格も「長さ」や「おいしさ」のような諸性質に埋もれてしまう。
こんなふうに。

そうじゃなくて、こうだよ↓↓ ということを縷々語っているわけですね。

使用価値にかかわる有用性、つまり人間の欲望を満たす性質は、その商品体(Warenkörper)が手元に存在すれば発揮することができます。

an sich に存在しているワンね。。。

そうかあ、価格という性質だけは、確かに欲望を満たすと言えないこともないけれど(売れれば)、商品体がそこにあるかどうかとは全く関係がない…

そうそう、すばらしい!

やった\(^o^)/

使用価値の諸性質は an sich sein だけど、価格はハッキリそうではない。

そして、使用価値の方の話が続きます。

使用価値を考察する際は、一ダースの時計とか一エレの亜麻布とカ一トンの鉄などのような、その量的な規定性が常に前提とされている。

前回やった段落の話ワンね。
商品は「人間に役立つ諸性質(量・質・規定)の集まった一全体」。

よっしゃ、次の文行こう。

諸々の商品の諸々の使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する(五)
*(五)ブルジョア社会では、商品の買い手であるすべての人が、商品に関する百科全書的な(enzyklopädische)知識を持っているという法的擬制(fictio juris)が当然のこととなっている。」

商品学って何だろう

今回ちょっと調べてみたんだよね!

同志社大学で長年商品学の教鞭をとられた岩下正弘先生の論文を拝読しました。

岩下正弘「商品学の学史的考察」『同志社商学』第20巻第3・4号、1969年

これによると

彼(Lidovici)は「商品学(Warenkunde)」とは商品知識(Warenkenntniss)とも言い、商人学の第一部門を占め、商人が商品に関して知るべき諸事項を教える。」として商品学の構成の内容を … 次のように示している。

こういう学問があるんだ!

植民地貿易をはじめとした海外貿易が発展した時代は、特にこういうのが求められたのだろうね。

マルクスさんの注記も手厳しいワンね。

次行くね。

諸々の使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。諸々の使用価値は、富の社会的な形式がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。

これは使用価値だけの特徴であると。

交換価値はそうではない。
確かに「使用または消費」で実現するものではないワン。

我々によって考察されねばならない社会形式においては、諸々の使用価値は同時に、素材的な担い手(Träger )になっている。交換価値の担い手に。

最後の一言がかっこいい。
日本語だとちょっと間抜けなんだけど。

Tauschwert(交換価値)という言葉はタイトルも含めてここで初めて出てくるワンね。

そうそう。

次回はこちら。
いよいよバーボンの論にも矛先が向かいます。

〈1-7〉
Der Tauschwert erscheint zunächst als das quantitative Verhältnis, die Proportion, worin sich Gebrauchswerte einer Art gegen Gebrauchswerte anderer Art austauschen (6), ein Verhältnis, das beständig mit Zeit und Ort wechselt. Der Tauschwert scheint daher etwas Zufälliges und rein Rela- <51> tives, ein der Ware innerlicher, immanenter Tauschwert (valeur intrinsèque) also eine contradictio in adjecto (7). Betrachten wir die Sache näher.
(6) “Der Wert besteht in dem Tauschverhältnis, das zwischen einem Ding und einem anderen, zwischen der Menge eines Erzeugnisses und der eines anderen besteht.” (Le Trosne, “De l’Intérêt Social”, [in] “Physiocrates”, éd. Daire, Paris 1846, p. 889.) 
(7) “Nichts kann einen inneren Tauschwert haben” (N. Barbon, l.c.p. 6), oder wie Butler sagt:
“Der Wert eines Dings ist grade so viel, wie es einbringen wird.” 

交換価値は、まずもって量の関係、すなわち、ある種類の使用価値が別の種類の使用価値と交換される割合として現れる(六)のだが、この関係は時間や場所によって絶えず変化するものである。このため交換価値は、商品に内在する価値(valeur intrinsèque)でありつつ、偶然的であり純粋に相対的なものであるように見えるのだが、これは形容矛盾(eine contradictio in adjecto)である(七)。この問題をもっと詳しく見てみよう。
*(六)“価値とは、ある物と別のあるモノとの間に存在する交換関係、ある製品の量と別の製品の量との間に存在する交換関係で成り立っています。” (ル・トロスネ, “社会の関心”, [in] “Physiocrates”, éd. Daire, Paris 1846, p. 889.) 
*(七)“内なるな交換価値を持つ物は存在しえない” (N. バーボン, 前掲書 6), もしくはバトラーがこう言ったように。”モノの価値は、それがもたらすものと同じだけである。” 


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