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対話篇:だから貨幣の前に価格を見よ

宮田惟史著『マルクスの経済理論』を読まずに語る

これどうだろうワンワン

どれどれ
6,600円!!
図書館入りを待つか

試し読みがある
https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/0248350.pdf

面白そう

こういうのは論文を纏めて一つにしたものだと思うから、論文を探してみよう。

論文
マルクス信用論の課題と展開-『資本論』第3部第5篇草稿に拠って

引用

なお,紙幅が許す範囲で敷衍すると,不換制下である現代では金からの直接の制約をはなれて貨幣供給が可能となる。そのため,銀行が信用を拡張し貨幣供給量を増加させることで,兌換制下に起きたようなパニック的恐慌を緩和させる力が飛躍的に拡大する。そこで一見,銀行は預金設定を通じ無制限的に貨幣供給を行うことができ,恐慌ないし不況も回避できるように見えてくる。だが,不換制といえども「不足資本」を補塡することには限度がある。そのようなことを無制限的に行えば大量の不良債権化をまねき,市中銀行であれば倒産に追い込まれうるし,また,中央銀行信用ですべての不良債権を買い取るようなことをすれば,中央銀行信用そのものが動揺しかねないためである。不換制下で不良債権の処理を迫られれば,最終的には国民の税金(公的資金)の投入が余儀なくされる。税金とは基本的には現実の再生産過程で労働が生み出した価値物にほかならない。銀行といえども信用「創造」によって「無から有を生む」,つまり社会的富=価値物をつくり出すことはできないのである。信用の膨張も最終的には現実の生産に限度をもつのである。こうして不換制下でもかたちを変えて価値法則が貫徹する。しかしもちろん,税金(価値物)で金融機関の不良債権を補塡したとしても恐慌から不況への突入を回避することはできない。なぜなら,すでに過剰な商品が存在するとともに,利潤率は急落し現実の再生産過程が停滞しているからである。また,税金の投入には財政的な限界もあるからである。不況からの脱却もまた,根本的には現実資本の利潤を回復させる現実的諸条件にかかっているのである。

完全にズレちゃってる

佐々木隆治や斎藤幸平もそうだと思うけど、こうしたズレを抱えているマルクス研究者の書いたものとして読むならばけっこう有益なんですよね。テキストに忠実であろうとするだけに。

でも、このズレ、資本論の出だしの解釈に胚胎しているように思える。
価格という度量衡の哲学。

金属本位制は、ある時代の風俗として必然的に存在しただけだよね。

岩波書店の紹介はこうあるワンね。

マルクスが紡いだ一つ一つの概念に光をあて、MEGAの新資料にもとづき『資本論』を丹念に読み解くことで、そのテキストがもつ今日的な可能性が見えてくる。

うん、その意気や良しで素晴らしいのだけれども、よほど注意しないと今度は概念と概念の間の連関を見失ってしまう危険を孕むよね。

本人がそうならないように注意しよう注意しようと心がけていたとしても。

「カテゴリー分析に光を当てる」その前に、カテゴリーを分析するとはどういうことなのかを哲学しておかないとだめなのだろう。
現代人はこれがめっちゃ弱いと思う。

こっちは?
<論 説>
マルクスの貨幣数量説批判

なんかそうだねよさげ。

以上のように、マルクスの貨幣数量説批判の決定的な意義は、貨幣の第 1 の機能を「購買手段」にではなく、「価値尺度」にあることを解明した点にある。

ん?ちょっと引っかかる。

このように、マルクスの貨幣論の独自性は、貨幣の最も抽象的な姿から、貨幣の諸契機の相互の関連をつかみ、また他の経済的諸範疇との全体系を把握したところにあった。貨幣数量説批判という視角からいうと、先にみた貨幣の契機のどれかひとつの理解を欠けば、それはつねに貨幣数量説へと結びつくのであり、それらの諸契機は相互に条件づけあい、有機的に関連づけあっているのだから、諸契機をもらすことなくトータルにつかむ必要があるのである。以上のように、貨幣の本質規定の分析の徹底こそが、貨幣数量説の克服の分岐点であったのである。

「貨幣数量説の克服」って…
でもまあOK

これにたいし、マルクスにもとづくと、そもそも流通する貨幣量―今日のマネーストック―は中央銀行がコントロールできるものではない。「発券銀行がその銀行券の流通量にたいして統制力をもっているという考えそのものが、まったく途方もないものなのであり」(MEW,Bd.9, S. 307)、「銀行は……〔貨幣の〕流通量にたいしてはなんの力ももっていない」(Ibid., S.307)のである。先に見たように、流通する貨幣量は、実現されるべき(販売される)商品の価格総額によって規定される。言いかえれば、それは現実の再生産過程における商品流通の必要に応じて決まるのである。「通貨の量が物価を決定しえないのは、それが商工業の取引量を決定しえないのと同じである。その反対に、物価〔および取引量〕が流通にある通貨の量を決定する」(Ibid., S.307)のである。したがって銀行制度を入れて考察すると、いくら中央銀行がハイパワードマネーを増加させたとしても、実体経済からの需要が起点としてなければ、それは現金準備として市中銀行に留まるだけであって、現実の再生産過程で流通することはないのである。

まあ、いいんじゃないの?
ホリゼンタリスト的な。

おっと注記が気になる。

たとえば、ある量の小麦の価格が 3 ポンドであろうが 1 ポンドであろうが、つまり価格が価値の大きさより過少ないし過大であったとしても、それが商品の価格であることにかわりはないのであり、いずれの場合も貨幣は価値尺度の機能をはたしているのである(MEW,Bd.23,S.116-117 を参照)。商品の価値量は変わらなくても、たえず変動する価格は、量的にどのように変化しようとも、質的にはその商品の価格なのである。要するに、貨幣の価値尺度機能とは、商品の価値の大きさを過不足なく測定することではなく、その大きさ如何を問わず、商品の価値を価格として表示する貨幣の機能・役割である。これが久留間((1979), 171- 190 頁 , 196-224 頁)がマルクスに即して明らかにした、いわゆる「価値尺度の質」である。この点を理解しなければ、販売と購買がくり返される過程で商品の価値の大きさは測られ、そのくり返しを通じてはじめて貨幣は価値尺度として機能するのだといった宇野(1974)のような誤謬が生まれる。

これ、よく読むとかなりだめだなあ

そうなの?

なんかいろいろ分かった気がする。

というと?

ちょうど今日、MMTについて変なことを言っている人がいたから、こんなコメントをしたんだよね。

モズラーに「MMTは貨幣の理論ですか?」と聞いたらノーというだろう。

むしろ「量よりも価格」、つまりMMTは一義的には価格や価値の理論なんだよね。

なるほど

貨幣という尺度(モノサシ)で商品の価値が測定されるのではなくて、商品が世界のすべてに対して貨幣の姿で現前するんだよね。

マルクスの表現はどうだったっけかな。

岩波文庫「経済学批判」76頁
”諸商品がそれらの交換価値を全面的に金で表現することによって、金は直接その交換価値をすべての商品で表現する。諸商品はたがいに交換価値の形態をあたえあうことによって、金に一般的等価物の形態、つまり貨幣の形態をあたえるのである。
 すべての商品がその交換価値を金で、一定量の金と一定量の商品とがひとしい労働時間をふくむような割合でもってはかるので、金は価値の尺度となる、しかも金は、さしあたり、ただ価値の尺度としてのこの規定によってのみ、一般等価物または貨幣となるのであって、価値の尺度としての金自身の価値は、直接に商品等価物の範囲全体ではかられるのである。他方、いまやすべての商品の交換価値は、金で自分を表現する。”

うん、こういうのは経済学批判ですね。
そのほかにも直接的に、貨幣がモノサシだと考えてしまう錯誤を批判しているところがあったように思うので備忘として。

前同84頁
”ある量の金を度量単位としてさだめ、そしてその可除部分をこの単位の補助単位としてさだめる必要は、あたかも、一定の、もちろん可変の価値をもった金量が、商品の交換価値にたいしてある固定した価値比例におかれるかのような考えを生みだしたが、この考えにおいては、金が価格の度量標準として発展するまえに、商品の交換価値がすでに価格、つまり金量に転化されていることがまったく見のがされていた。”

あとはスチュワート批判のあたりかな

前同98頁
”かれは、価値の尺度が価格の度量標準に転化することを理解していないので、自然にまた、度量単位として役立つ一定量の金は、尺度として、ほかの金量に関連するのではなくて、価値そのものに関連するものだと信じている。
かれは、価値の尺度が価格の度量標準に転化することを理解していないので、自然にまた、度量単位として役立つ一定量の金は、尺度として、ほかの金量に関連するのではなくて、価値そのものに関連するものだと信じている。”

前同83頁
”商品は、もはや労働時間によってはかられるべき交換価値としてではなく、金ではかられる同じよび名の大きさとして、たがいに関連しあうのであり、それによって、金は価値の尺度から価格の度量標準に転化する。こうしてさまざまな金量としての商品価格同志のあいだにおこなわれる比較は、つぎのような表現に、つまりある考えられた金量に記入され、これを可除部分の度量標準として表示する表現に、結晶するのである。価値の尺度としての金と、価格の度量標準としての金は、まったくちがった形態規定性をもつが、この一方を他方と混同することによって、ひどくばかばかしい理論がうみだされている。”

おお、これこれ

宮田のこれがおかしな話だというのが分かると思います。

”要するに、貨幣の価値尺度機能とは、商品の価値の大きさを過不足なく測定することではなく、その大きさ如何を問わず、商品の価値を価格として表示する貨幣の機能・役割である。これが久留間((1979), 171- 190 頁 , 196-224 頁)がマルクスに即して明らかにした、いわゆる「価値尺度の質」である。”

この宮田という人も佐々木と同じく久留間鮫造の影響を受けているね。

さっきも言ったけれど「貨幣の機能」という前に、貨幣に先立つ商品というカテゴリーの理解が浅いんじゃないかというか。

もし久留間がそう書いていたなら、マルクスに即してないよ。

貨幣はシンボルではない!

Das Geld ist nicht Symbol, so wenig wie das Dasein eines Gebrauchswerts als Ware Symbol ist.

ん?

「貨幣はシンボルではない。ちょうど、使用価値としての商品がシンボルではないように。」
もっとちゃんと訳せば
「貨幣はシンボルではない。商品を使用価値として見るときにそれをシンボルだと言わないが、それと同じ程度に貨幣はシンボルではない。」

かっこいいなあ

これは経済学批判からですか?

昨日岩波文庫のを借りましたが53ページですね。

見つけました。

「商品としての使用価値の定住が象徴でないように、貨幣も象徴ではない。」

「定在」、がなあ。

例によってトリニティで描いてみる。

「使用価値として存在する」とは、〇〇は栄養になる、〇〇はおいしい、〇〇は楽しい、という形で存在するということ。

an sich

ここ、高校英語で習うクジラ構文です。

A whale is no more a fish than a horse is (a fish).
クジラが魚ではないのは、馬が魚ではないのと同じ。

貨幣(貨幣形態の商品)がシンボルでないのは、使用価値としての商品がシンボルでないのと同じ。

飲んだり食べたり遊んだりするものをシンボルとは言わないワンね。

しつこいけれど、これが分かっていたらこういう言葉は絶対に出ないのですよね。

”要するに、貨幣の価値尺度機能とは、商品の価値の大きさを過不足なく測定することではなく、その大きさ如何を問わず、商品の価値を価格として表示する貨幣の機能・役割である。これが久留間((1979), 171- 190 頁 , 196-224 頁)がマルクスに即して明らかにした、いわゆる「価値尺度の質」である。”

なんでいけないんだっけ

価値や価格よりも「先に」貨幣を考えちゃう

あー

一番左の価値の尺度としての金と、左から3番目の度量標準としての金を混同しているのですね。

これ、とてもいいように思えます

(´▽`) ホッ

「マルクスなきマルクス経済学」

宮田の前書きから。

マルクスの遺産を最大限に汲み取り、それを現代の分析に生かしてゆくためになにが求められているのだろうか。一言でそれは、基本原則に立ち返り、マルクス本人の原文を徹底的に読み解き、かれの経済学の到達点を確定することである。その経済学を批判、発展させるためにも、その実像をつかむことが出発点をなす。この作業をおざなりにすると、誤解や偏見にもとづく「マルクスなきマルクス経済学」が独り歩きをしたり、無用な論争までもが生まれてしまう。

40歳くらいかな。
もっと頑張れって感じだ。

ところで、マルクスに思いもよらなかったのは、通貨が電子データになって瞬間的に移動するような時代がやってきたことでしょうね。一般的等価形態は、いまどの商品にも付着していないということになるでしょう。
しかし、それが存在しないということではない。

「販売と購買がくり返される過程で商品の価値の大きさは測られ、そのくり返しを通じてはじめて貨幣は価値尺度として機能するのだといった宇野(1974)」

宮田(久留間?)はそういうけれど、宇野のこれはいい線を行っている。

商品たちは交換のたびに価値尺度を更新しているのだけれど、このとき支配的な影響を与えているのが政府支出におけるプライシングなんですよ。

MMTとつながった!

17世紀英国のドラマ

17世紀における、英国の金貨や銀貨やその決済の歴史と議論はすごく示唆的です。同時代の大阪堂島米市場の歴史とかも。

あーそれでジョン・ロックとか読んでたわけね

これはすごく面白い。

資本論の冒頭で、ニコラス・バーボンとかジョン・ロックが引用されているけれど、すごく関係があるんよ。

今日この本が届いたのですけれど,バーボンを参考文献に挙げている論考が入っていることに気づきました。

そう聞いて、二章だけ一気読みしました

Richard Tye という人の、”Credit and the Exchequer since the Restoration” という論考で。

the Restoration ってなんだっけ。

それね!
英国の王政復古の時代。

ロックやニュートンが大活躍!

じゃあこんど詳しく


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