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〈1-7〉Der Tauschwert erscheint zunächst als das quantitative Verhältnis, die Proportion…

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〈1-7〉


Der Tauschwert erscheint zunächst als das quantitative Verhältnis, die Proportion, worin sich Gebrauchswerte einer Art gegen Gebrauchswerte anderer Art austauschen (6), ein Verhältnis, das beständig mit Zeit und Ort wechselt. Der Tauschwert scheint daher etwas Zufälliges und rein Rela- <51> tives, ein der Ware innerlicher, immanenter Tauschwert (valeur intrinsèque) also eine contradictio in adjecto (7). Betrachten wir die Sache näher.
(6) “Der Wert besteht in dem Tauschverhältnis, das zwischen einem Ding und einem anderen, zwischen der Menge eines Erzeugnisses und der eines anderen besteht.” (Le Trosne, “De l’Intérêt Social”, [in] “Physiocrates”, éd. Daire, Paris 1846, p. 889.) 
(7) “Nichts kann einen inneren Tauschwert haben” (N. Barbon, l.c.p. 6), oder wie Butler sagt:
“Der Wert eines Dings ist grade so viel, wie es einbringen wird.” 

交換価値は、まずもって量の関係、すなわち、ある「使用価値の一束」が別の「使用価値の一束」と交換される量的な関係、割合として現れる(六)。こうした量の関係は、時間や場所によって絶えず変化する。このため交換価値は、偶然的で純粋に相対的なものでありながら、商品の内的で内在的な価値(valeur intrinsèque)であるという形容矛盾(eine contradictio in adjecto)に見える(七)。この問題をもっと詳しく見てみよう。

*(六)“価値とは、あるモノと別のあるモノとの間に存在する交換関係、ある製品の量と別の製品の量との間に存在する交換関係で成り立っている。” (ル・トローヌ, “社会の利益”, [in] “Physiocrates”, éd. Daire, Paris 1846, p. 889.) 
*(七)“内なる交換価値を持つ物は存在しえない” (N. バーボン, 前掲書 6), もしくはバトラーがこう言ったように。”モノの価値は、それがもたらすものと同じだけである。” 

<1-7>の読解の前に、前回の <1-6>に登場した商品体(Warenkörper)という語についてノートを書きましたのでリンクしておきます。

では<1-7>ですが、悩んだ挙句 Gebrauchswerte を「交換価値の束」と訳しました。

交換価値は、まずもって量の関係、すなわち、ある「使用価値の一束」が別の「使用価値の一束」と交換される量的な関係、割合として現れる(六)。

先輩方の翻訳は、皆さん単に「使用価値」としておられるのですが、複数形の感じを出すべきだと思います。「使用価値の一束」としましたが「使用価値の集合」だと一束という感じが弱いと思い、一束に落ち着きました。

Gebrauchswert じゃなくて Gebrauchswerte 、最後に e が付いているから複数ということワンね。

ここの註六で引用されて入れ宇トローヌの文ですが、荒川さんによれば、トローヌの論説の、第1章第4節「価値の定義 Définition de la valeur」からの引用だそうです。

マルクスはそういう方法、つまり定義から語り始める方法のことをよく知っているにもかかわらずその方法を採りません。
定義は危険であるというヘーゲルのやりかたをマルクスが踏襲しているということは、そういうところからも読み取れます。

次の文行きます。

こうした量の関係は、時間や場所によって絶えず変化する。このため交換価値は、偶然的で純粋に相対的なものでありながら、商品の内的で内在的な価値(valeur intrinsèque)であるという形容矛盾(eine contradictio in adjecto)に見える(七)。

「内的で内在的な」と二回言っているという感じがしますね。
innerlich は英語のインナーという感じで「内側」でよいのですが、 immanenter は「そこに原因を持つ」という感じで、神学や哲学でよく出る言葉です。

神はこの世界に内在しているのか、それとも外在的な存在なのか、とか。

よく知ってるね!

さて、註七でまたバーボン。

*(七)“内なる交換価値を持つ物は存在しえない” (N. バーボン, 前掲書 6), もしくはバトラーがこう言ったように。”モノの価値は、それがもたらすものと同じだけである。” 

<1-5>でやりましたが、もう一度バーボンの当該箇所を引用します。

Value is only the Price of Things: That can never be certain, because it must be then at all times, and in all places, of the same Value; therefore nothing can have an In­trinsick Value.
価値とは、諸物の価格に過ぎない。価値は決して確かなものではあり得ない。もしそうなら、それはいつでもどこでも同一の価値になっていなければならない。従って、どんな物も内在的価値を持ってはいない。

バーボンの論と資本論の論理は、この辺でだいぶズレてきています。

この問題をもっと詳しく見てみよう。

となるわけワンね。

ということで、次回<1-8>

〈1-8〉
Eine gewisse Ware, ein Quarter Weizen z.B. tauscht, sich mit x Stiefelwichse oder mit y Seide oder mit z Gold usw., kurz mit andern Waren in den verschiedensten Proportionen. Mannigfache Tauschwerte also hat der Weizen statt eines einzigen. Aber da x Stiefelwichse, ebenso y Seide, ebenso z Gold usw. der Tauschwert von einem Quarter Weizen ist, müssen y Stiefelwichse, y Seide, z Gold usw. durch einander ersetzbare oder einander gleich große Tauschwerte sein. Es folgt daher erstens: Die gültigen Tauschwerte derselben Ware drücken ein Gleiches aus. Zweitens aber: Der Tauschwert kann überhaupt nur die Ausdrucksweise, die “Erscheinungsform” eines von ihm unterscheidbaren Gehalts sein.
 ある一つの商品は、たとえば1クォーターの小麦は、他の諸商品、xの靴墨や、yの絹や、zの金などと交換される。つまりさまざまに異なった比率で交換される。従って小麦は多重の交換価値を持つのであって、固有のそれを持つのではない。そしてxの靴墨、yの絹、zの金などなどは、みな1クォーターの小麦の交換価値なのだから、xの靴墨、yの絹、zの金などなどは、互いに置き換えることができる、もしくは互いに等しい大きさの交換価値でなければならない。従って以下のごとくである。第一に、同じ商品の妥当な交換価値たちは一つの同じものを表している。しかし第二に、およそ交換価値はただ、交換価値とは区別される一つの内実(Gehalt)の表現形式、「現象形態」としてあるだけである。

〈1-6〉 Die Nützlichkeit eines Dings macht es zum Gebrauchswert … 交換価値が登場!

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〈1-6〉

Die Nützlichkeit eines Dings macht es zum Gebrauchswert (4). Aber diese Nützlichkeit schwebt nicht in der Luft. Durch die Eigenschaften des Warenkörpers bedingt, existiert sie nicht ohne denselben. Der Warenkörper selbst, wie Eisen, Weizen, Diamant usw., ist daher ein Gebrauchswert oder Gut. Dieser sein Charakter hängt nicht davon ab, ob die Aneignung seiner Gebrauchseigenschaften dem Menschen viel oder wenig Arbeit kostet. Bei Betrachtung der Gebrauchswerte wird stets ihre quantitative Bestimmtheit vorausgesetzt, wie Dutzend Uhren, Elle Leinwand, Tonne Eisen usw. Die Gebrauchswerte der Waren liefern das Material einer eignen Disziplin, der Warenkunde (5). Der Gebrauchswert verwirklicht sich nur im Gebrauch oder der Konsumtion. Gebrauchswerte bilden den stofflichen Inhalt des Reichtums, welches immer seine gesellschaftliche Form sei. In der von uns zu betrachtenden Gesellschaftsform bilden sie zugleich die stofflichen Träger des – Tauschwerts.
(4) “Der natürliche worth jedes Dinges besteht in seiner Eignung, die notwendigen Bedürfnisse zu befriedigen oder den Annehmlichkeiten des menschlichen Lebens zu dienen.” (John Locke, “Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest”, 1691, in “Works”, edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.) Im 17. Jahrhundert finden wir noch häufig bei englischen Schriftstellen “Worth” für Gebrauchswert und “Value” für Tauschwert, ganz im Geist einer Sprache, die es liebt, die unmittelbare Sache germanisch und die reflektierte Sache romanisch auszudrücken.
(5) In der bürgerlichen Gesellschaft herrscht die fictio juris, daß jeder Mensch als Warenkäufer eine enzyklopädische Warenkenntnis besitzt.

物体が使用価値になるのはその有用性によってである(四)。但しこの有用性は宙に浮かんでいるのではない。この有用性は、商品体(Warenkörper)の諸性質を前提としており、商品体なしには存在するものではない。それゆえ、鉄や小麦やダイヤモンドなどという商品体そのものが使用価値または財である。商品体のこのような性格は、その使用に資する諸性質の取得が人間に費やさせるところの労働の多少にはかかわりがない。使用価値を考察する際には、一ダースの時計とか一エレの亜麻布とカ一トンの鉄などのような、その量的な規定性が常に前提とされている。諸々の商品の諸々の使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する(五)。諸々の使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。諸々の使用価値は、富の社会的な形式がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。我々によって考察されねばならない社会形式においては、諸々の使用価値は同時に、素材的な担い手になっている。交換価値の担い手に。
*(四)「諸物の自然的な価値(natural worth)は、さまざまな欲望を満足させたり人間の生活に役立つなどの適性にある。」(ジョン・ロック, “利子引き下げがもたらす帰結についての諸考察(Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest)”, 1691, in “Works”, edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.)
17世紀になっても英語の文章にはしばしば、Worthを使用価値、Valueを交換価値として表している例がしばしば登場するが、これはまったく、直接的な事柄をゲルマン語で表現し、反射された事柄をローマ語で表現することを好む言語の精神によるものである。
*(五)ブルジョア社会では、商品の買い手であるすべての人が、商品に関する百科全書的な知識を持っているという法的擬制(fictio juris)が当然のこととなっている。

このパラグラフは一見散漫だけれども、最後、交換価値を提示してその特別さをアピールする箇所として読むと唸らされるものがあります。

三番目の文
商品体のこのような性格(使用価値に資する諸性質)は、その使用に資する諸性質の取得が人間に費やさせるところの労働の多少にはかかわりがない。
を取り上げると、交換価値と使用価値のはっきりしたコントラストが描かれています。

なるほどワン

これでないと価格も「長さ」や「おいしさ」のような諸性質に埋もれてしまう。
こんなふうに。

そうじゃなくて、こうだよ↓↓ ということを縷々語っているわけですね。

使用価値にかかわる有用性、つまり人間の欲望を満たす性質は、その商品体(Warenkörper)が手元に存在すれば発揮することができます。

an sich に存在しているワンね。。。

そうかあ、価格という性質だけは、確かに欲望を満たすと言えないこともないけれど(売れれば)、商品体がそこにあるかどうかとは全く関係がない…

そうそう、すばらしい!

やった\(^o^)/

使用価値の諸性質は an sich sein だけど、価格はハッキリそうではない。

そして、使用価値の方の話が続きます。

使用価値を考察する際は、一ダースの時計とか一エレの亜麻布とカ一トンの鉄などのような、その量的な規定性が常に前提とされている。

前回やった段落の話ワンね。
商品は「人間に役立つ諸性質(量・質・規定)の集まった一全体」。

よっしゃ、次の文行こう。

諸々の商品の諸々の使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する(五)
*(五)ブルジョア社会では、商品の買い手であるすべての人が、商品に関する百科全書的な(enzyklopädische)知識を持っているという法的擬制(fictio juris)が当然のこととなっている。」

商品学って何だろう

今回ちょっと調べてみたんだよね!

同志社大学で長年商品学の教鞭をとられた岩下正弘先生の論文を拝読しました。

岩下正弘「商品学の学史的考察」『同志社商学』第20巻第3・4号、1969年

これによると

彼(Lidovici)は「商品学(Warenkunde)」とは商品知識(Warenkenntniss)とも言い、商人学の第一部門を占め、商人が商品に関して知るべき諸事項を教える。」として商品学の構成の内容を … 次のように示している。

こういう学問があるんだ!

植民地貿易をはじめとした海外貿易が発展した時代は、特にこういうのが求められたのだろうね。

マルクスさんの注記も手厳しいワンね。

次行くね。

諸々の使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。諸々の使用価値は、富の社会的な形式がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。

これは使用価値だけの特徴であると。

交換価値はそうではない。
確かに「使用または消費」で実現するものではないワン。

我々によって考察されねばならない社会形式においては、諸々の使用価値は同時に、素材的な担い手(Träger )になっている。交換価値の担い手に。

最後の一言がかっこいい。
日本語だとちょっと間抜けなんだけど。

Tauschwert(交換価値)という言葉はタイトルも含めてここで初めて出てくるワンね。

そうそう。

次回はこちら。
いよいよバーボンの論にも矛先が向かいます。

〈1-7〉
Der Tauschwert erscheint zunächst als das quantitative Verhältnis, die Proportion, worin sich Gebrauchswerte einer Art gegen Gebrauchswerte anderer Art austauschen (6), ein Verhältnis, das beständig mit Zeit und Ort wechselt. Der Tauschwert scheint daher etwas Zufälliges und rein Rela- <51> tives, ein der Ware innerlicher, immanenter Tauschwert (valeur intrinsèque) also eine contradictio in adjecto (7). Betrachten wir die Sache näher.
(6) “Der Wert besteht in dem Tauschverhältnis, das zwischen einem Ding und einem anderen, zwischen der Menge eines Erzeugnisses und der eines anderen besteht.” (Le Trosne, “De l’Intérêt Social”, [in] “Physiocrates”, éd. Daire, Paris 1846, p. 889.) 
(7) “Nichts kann einen inneren Tauschwert haben” (N. Barbon, l.c.p. 6), oder wie Butler sagt:
“Der Wert eines Dings ist grade so viel, wie es einbringen wird.” 

交換価値は、まずもって量の関係、すなわち、ある種類の使用価値が別の種類の使用価値と交換される割合として現れる(六)のだが、この関係は時間や場所によって絶えず変化するものである。このため交換価値は、商品に内在する価値(valeur intrinsèque)でありつつ、偶然的であり純粋に相対的なものであるように見えるのだが、これは形容矛盾(eine contradictio in adjecto)である(七)。この問題をもっと詳しく見てみよう。
*(六)“価値とは、ある物と別のあるモノとの間に存在する交換関係、ある製品の量と別の製品の量との間に存在する交換関係で成り立っています。” (ル・トロスネ, “社会の関心”, [in] “Physiocrates”, éd. Daire, Paris 1846, p. 889.) 
*(七)“内なるな交換価値を持つ物は存在しえない” (N. バーボン, 前掲書 6), もしくはバトラーがこう言ったように。”モノの価値は、それがもたらすものと同じだけである。” 

〈1-5〉Jedes nützliche Ding, wie Eisen, Papier usw., ist…

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〈1-5〉

Jedes nützliche Ding, wie Eisen, Papier usw., ist unter doppeltem Gesichtspunkt zu betrachten, nach Qualität und Quantität. Jedes solches Ding ist ein Ganzes vieler Eigenschaften und kann daher nach verschiedenen Seiten nützlich sein. Diese verschiedenen Seiten und daher die mannigfachen[49] Gebrauchsweisen der Dinge zu entdecken ist geschichtliche Tat. (3) So die Findung gesellschaftlicher Maße für die Quantität der nützlichen Dinge. Die Verschiedenheit der Warenmaße entspringt teils aus der verschiedenen Natur der zu messenden Gegenstände, teils aus Konvention.

(3) “Dinge haben einen intrinsick vertue” (dies bei Barbon die spezifische Bezeichnung für Gebrauchswert), “der überall gleich ist, so wie der des Magnets, Eisen anzuziehen” (l.c.p. 6). Die Eigenschaft des Magnets, Eisen anzuziehn, wurde erst nützlich, sobald man vermittelst derselben die magnetische Polarität entdeckt hatte.

鉄や紙など、それぞれ有用な物体(Ding)は、二重の(doppelt)観点、つまり質と量との観点から考察される。こうした有用な物体はどれも、多くの性質がまとまった一全体(ein Ganze)であり、だからさまざまな方面に有用ということになる。これら物体のさまざまな方面の諸用途は、人類がその都度発見してきたものである(三)。有用物体の分量の社会的な公認尺度(Maß)もまたその都度決められてきたものである。商品の量を測る尺度にはさまざまなものがあるが、それは秤量される対象の本性(Natur)が多種多様であるためであり、あるいは慣習でそうなった部分もある。

*(三)「諸物は内的な効力(intrinsick vertue、これはバーボン特有の使用価値を意味する言葉である)を持っている。すなわち、どこにあっても同じ効力を持っている。たとえば磁石は鉄を引き付けるというように。」(同前、第六頁)
磁石が鉄を引きつけるという性質は、磁石によって磁極が発見されると同時に有用になったのである。

読み流されやすいですが、ここはすごいです。

ここは、我々が認識する外界の一対象( ein äußerer Gegenstand ) であるところの、「商品」という物体( Ding )の議論なのですが、カントはこうでした。

再掲 カント的認識の図

ふむふむ

これだと二元論に陥ってしまう、つまり、人間の理性は経験を超えることができないということになってしまう。
ということで、ヘーゲルはこうしたいんです。

ヘーゲルはこうしたい、の図

人間は世界の外部に立っているわけではないちゅうことワンかね

「鉄や紙など、それぞれ有用な物体(Ding)は、二重の(doppelt)観点、つまり質と量との観点から考察される。」

ここから行くと

鉄だったら、「重い」「硬い」「高温で溶ける」
紙だった、「薄い」「インクを固着させることができる」

こうした諸性質、つまり「質」が有用性に直結するわけだけれど、諸性質必ず「量」の側面からも思考されているんです。

というと?

うん。
どのくらい?という程度があるわけ。
「どのくらい重い?」「どのくらい硬い?」「どのくらいの高温で溶ける?」
「どのくらい薄い?」「どのくらいインクを固着する?」

これが「量」の側面。

そうか!

量と質と規定は三位一体で、どれかを欠くことはあり得ません。
たとえば重さが100kgだとすると、こう。

量、質、規定の三位一体

なるほど

でもこれ順番はどうでもいいの?
こんな風に。

三位一体の順番を変える

よい質問。
「kgという規定での重さは100である」
これは
「重さは100kgである」
と同じ意味でしょう?
三位一体は、三つの関係があればいいので、場所は交換可能なんです。

三位一体の三位一体!

三位一体の三位一体

さて、商品という有用なDing(物体)は、こうした三位一体の規定性(質・量)の集合であると考えられるということになりました。

うん

カントよりちょっと前のバークリーという哲学者は「物が存在することは、知覚されることだよね」「存在は知覚の集合だよね」みたいに考えたのだけど、そこからだいぶ進歩している。

そこからカント、ヘーゲルを経てマルクスに至るとこうなるかな。
「商品という存在は規定性(質と量)の集合だ」。

図にすると、こうだね。

商品は人間に役立つ諸性質(量・質・規定)の集まった一全体

おおお

ところでバーボンをちゃんと読む、も本当に始まったワンね。

こちらもよろしくお願いします!

人類より先に磁力はあったのか

註三は少し議論を呼びそうです。
人類が磁力を発見するまで「磁力」はあったのだろうか?

*(三)「諸物は内的な効力(intrinsick vertue、これはバーボン特有の使用価値を意味する言葉である)を持っている。すなわち、どこにあっても同じ効力を持っている。たとえば磁石は鉄を引き付けるというように。」(同前、第六頁)
磁石が鉄を引きつけるという性質は、磁石によって磁極が発見されると同時に有用になったのである。

あったにきまってるワン!

そうではない、とも受け取れるように書かれているよね。
ぼくの note 読んでくれたかな?
アダムとイブが堕落する前の楽園に尺度はないんだよ。

ふうむ

それはさておき、バーボンの原文を見ておきましょう。
マルクスが引用する直前の個所から。

Value is only the Price of Things: That can never be certain, because it must be then at all times, and in all places, of the same Value; therefore nothing can have an In­trinsick Value.
価値とは、諸物の価格に過ぎない。価値は決して確かなものではあり得ない。もしそうなら、それはいつでもどこでも同一の価値になっていなければならない。従って、どんな物も内在的価値を持ってはいない。

ふむふむ

宇宙の天体は内在的な力で動いているのか、それとも外部からの力で動いているのかどちらだろう?

いきなり!
んーどっちだろ。

ニュートンのプリンピキアが出版されたのが1687年で、このころそれが大評判だったんだよね。

万有引力の法則!

それは天体に限らず、すべての物質は内在的な力を持っているという考え方なわけだ。
これが当時は最新の科学だったわけでしょう?
バーボンの批判相手になるロックは、そんな感じで銀貨の内在的価値は金属としての銀の含有量にある、と考えたんじゃないかしら。
ロックのことだから、もちろんそれは common consent「共通の同意」としてなわけだけど。

ふうむ

バーボンに戻ると、バーボンは Value と Vature は違うからしっかり分けようぜという論を展開します。
Value を価値、Vatureは「良さ」と訳そうかな。
つまり Value は値段で変動するもの、Vature は固有のもの、的な。

But Things have an Intrinsick Vertue in themselves, which in all places have the same Vertue; as the Loadstone to attract Iron, and the several qualities that belong to Herbs, and Drugs, some Purgative, some Diuretical, &c. But these things, though they may have great Virtues, may be of small or no Value or Price, according to the place where they are plenty or scarce…
他方、諸物はそれ自身のうちに、あらゆる場所で同じ力を発揮する、内在的な良さ(Intrinsic Verture)を持っている。磁石が鉄を引きつけたり、あるいは香草や薬草が備えているいくつかの性質、つまり、あるものは瀉下薬、またあるものは利尿薬というように。しかし、これらの諸物が大きな良さを持っていても、それらが豊富にある場所にあるか、希少にしかない場所にあるかによって価値や価格が小さかったり、全く価値がないということがあり得る…

わかりやすい。
需要と供給、的な?

うーん

「需要は,社会的にいっても,商品の価値を形成するわけではない。」(宇野弘蔵『宇野弘蔵著作集 第四巻』岩波書店,67頁)

「需要は,いわば商品価値規定の消極的一面をなすのであり,価値尺度としての貨幣の機能は,かかる需要の発動の形態規定にほかならない。」(宇野弘蔵『宇野弘蔵著作集 第四巻』岩波書店,67頁)

ぎゃふん

ところでマルクスはここで「鉄」と「紙」を例示しているけれど、「紙」と「価値」に関するヘーゲルの文章を「法の哲学」から引用しておくね。
うーん、

ところでマルクスはここで「鉄」と「紙」を例示しているけれど、「紙」と「価値」に関するヘーゲルの文章を「法の哲学」から引用しておくね。

価値と所有、労働(ヘーゲルとロック)

「法の哲学」の「所有」の概念規定のところでそれは登場します。
強調はわたくし。

 ここでは質的なものは量的なものの形式のなかに消えてしまう。すなわち、私が必要ということを言うとき、これはきわめてさまざまな事物がそのもとにもたらされる標号( Titel)である。したがってこれらの事物の共通性が、そのばあい、私がそれらの事物を測りうるようにさせるわけである。それゆえここでは思想の進行は、物件の独特の質から、この規定されたあり方がどうでもよい状態、つまり量へ、である。  
 これと似たようなことは数学において起こる。たとえば私が、円とは何か、楕円とか抛物線とは何かを定義するならば、それらは種的に異なった状態であることがわかる。にもかかわらず、これらのいろいろ異なった曲線の区別はたんに量的に規定される。すなわち、もろもろの係数に、もっぱらただもろもろの経験的な大いさだけに関係するところの、量的な区別が問題になるだけだというふうに規定される。  
 所有においては、質的な規定されたあり方からあらわれてくる量的な規定されたあり方は価値である。ここでは質的なものは、量にたいして特定量を与えるのであって、質的なものとしては廃棄されると同様にまた保存される。  
 価値の概念を考察するならば、物件そのものはただ標識と見なされるだけであって、それ自身としてではなく、それが値いするところのものとして通用する。たとえば手形はその紙としての性質ないし自然をあらわすのではなくて、ある別の普遍的なものの、つまり価値の、標識にすぎない。  

『法の哲学ⅠⅡ(合本) (中公クラシックス)』ヘーゲル著

で、この直後に「貨幣」が登場。

 一つの物件の価値は、必要ないし欲求への関係においてきわめてさまざまでありうる。だがもし価値の独特なものをではなくて抽象的なものを表現しようとするなら、貨幣がこれである。貨幣はすべての事物を代表する。だが、貨幣は必要ないし欲求そのものをあらわすのではなくて、必要ないし欲求の標識でしかない以上、貨幣自身がまた、独特な価値によって支配される。この価値を、抽象的なものとしての貨幣はただ表現するだけである。

同上

次回やる次の節は、今度はバーボンの論敵ロックが引用されます。

そうなんだ

ロックもヘーゲルのように価値と所有の関係を論じていて、所有の根拠は労働であるという論理を展開しているのですよね。

ほうほう、いわゆる労働価値説?

ロックの所有論についてはそうですね、下のブログをご覧ください。

草食系院生さんまとめを読んでみて、労働が所有の根拠というのはなるほどと思いました。

うちの子どもたちが川へ出かけると、いつも石を持って帰ります。
石を石で割ったり、研いでみたり。
彼らにしたらそれが労働で、ただ拾うのも労働で、だから自分のものだというわけですね。

次回は〈1-6〉です。
お疲れさまー

〈1-6〉
Die Nützlichkeit eines Dings macht es zum Gebrauchswert (4). Aber diese Nützlichkeit schwebt nicht in der Luft. Durch die Eigenschaften des Warenkörpers bedingt, existiert sie nicht ohne denselben. Der Warenkörper selbst, wie Eisen, Weizen, Diamant usw., ist daher ein Gebrauchswert oder Gut. Dieser sein Charakter hängt nicht davon ab, ob die Aneignung seiner Gebrauchseigenschaften dem Menschen viel oder wenig Arbeit kostet. Bei Betrachtung der Gebrauchswerte wird stets ihre quantitative Bestimmtheit vorausgesetzt, wie Dutzend Uhren, Elle Leinwand, Tonne Eisen usw. Die Gebrauchswerte der Waren liefern das Material einer eignen Disziplin, der Warenkunde (5). Der Gebrauchswert verwirklicht sich nur im Gebrauch oder der Konsumtion. Gebrauchswerte bilden den stofflichen Inhalt des Reichtums, welches immer seine gesellschaftliche Form sei. In der von uns zu betrachtenden Gesellschaftsform bilden sie zugleich die stofflichen Träger des – Tauschwerts.

(4) “Der natürliche worth jedes Dinges besteht in seiner Eignung, die notwendigen Bedürfnisse zu befriedigen oder den Annehmlichkeiten des menschlichen Lebens zu dienen.” (John Locke, “Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest”, 1691, in “Works”, edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.) Im 17. Jahrhundert finden wir noch häufig bei englischen Schriftstellen “Worth” für Gebrauchswert und “Value” für Tauschwert, ganz im Geist einer Sprache, die es liebt, die unmittelbare Sache germanisch und die reflektierte Sache romanisch auszudrücken.
(5) In der bürgerlichen Gesellschaft herrscht die fictio juris, daß jeder Mensch als Warenkäufer eine enzyklopädische Warenkenntnis besitzt.

物体の有用性がその物を使用価値にする(四)。有用性は宙に浮かんでいるのではない。有用性は、商品体(Warenkörper)の諸性質を前提としているのだから、商品体なしには存在しない。だから、鉄や小麦やダイヤモンドなどという商品体そのものが使用価値または財(Gut)である。商品体のこの性格は、人間がどれだけ労働することによってその諸性質が獲得されたとはかかわりがない。使用価値を考察する際には、一ダースの時計とか一エレの亜麻布とカ一トンの鉄などのような、その量的な規定性が常に前提とされている。諸々の商品の諸々の使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する(五)。諸々の使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。諸々の使用価値は、富の社会的な形式がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。我々によって考察されねばならない社会形式においては、諸々の使用価値は同時に、素材的な担い手になっている。交換価値の担い手に。

*(四)「諸物の自然的な価値(natural worth)は、さまざまな欲望を満足させたり人間の生活に役立つなどの適性にある。」(ジョン・ロック, “利子引き下げがもたらす帰結についての諸考察(Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest)”, 1691, in “Works”, edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.)
17世紀になっても英語の文章にはしばしば、Worthを使用価値、Valueを交換価値として表している例がしばしば登場するが、これはまったく、直接的な事物をゲルマン語で表現し、反省された事物をローマ語で表現することを好む言語の精神によるものである。
*(五)ブルジョア社会では、商品の買い手であるすべての人が、商品に関する百科全書的な知識を持っているという法的擬制(fictio juris)が当然のこととなっている。

〈1-4〉Die Ware ist zunächst ein äußerer Gegenstand, …

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〈1-4〉

Die Ware ist zunächst ein äußerer Gegenstand, ein Ding, das durch seine Eigenschaften menschliche -Bedürfnisse irgendeiner Art befriedigt. Die Natur dieser Bedürfnisse, ob sie z.B. dem Magen oder der Phantasie entspringen, ändert nichts an der Sache (2). Es handelt sich hier auch nicht darum, wie die Sache das menschliche Bedürfnis befriedigt, ob unmittelbar als Lebensmittel, d.h. als Gegenstand des Genusses, oder auf einem Umweg, als Produktionsmittel.
(2) Verlangen schließt Bedürfnis ein; es ist der Appetit des Geistes, und so natürlich wie Hunger für den Körper … die meisten (Dinge) haben ihren Wert daher, daß sie Bedürfnisse des Geistes befriedigen.” (Nicholas Barbo, “A Discourse on coining the new money lighter. In answer to Mr. Locke’s Considerations etc.”, London 1696, p. 2, 3.)

商品は、さしあたり外界の一対象(Gegenstand)であり、その性質(複数)によって人間の何らかの欲望を満たす物体(Ding)である。その欲望の本性(Natur)、つまりそれが胃袋から生じるものか、あるいは空想から生じるかは、ここでの分析には何ら影響するものではない(二)。また、その物体がどのようにして人類の欲望を満たすものであるか、つまり直接的に生活の手段(Mittel)、つまり享楽の対象としてなのか、もしくは間接的に生産の手段(Mittel)としてなのかの区別も、この分析には何ら影響しない。
*(二)『願望は欲望を含む。それは心の食欲であって、身体に於ける飢えのように自然的のものである。・・・・大多数は心の欲望を充たすことによって価値を受けるのである』ニコラス・バーボン著『新貨軽鋳論、ロック氏の貨幣価値引上論考に答う』ロンドン、一六九六年刊、第二及び三頁)。 

ここは語り始めると一生戻ってこれないのでほどほどにします。

みんな大好き
「商品は、さしあたり(zunächst)外界の一対象(Gegenstand)である。」

どうして
「さしあたり」なんだろうか
「商品は、さしあたり外界の一対象(Gegenstand)であり、」

大月書店のは、「まず第一に」ですね

at first
外界の一対象、ein äußerer Gegenstand であると。
「外界の」
external、outer
つまりこの時点で内と外を分ける境界線のようなものが含意されています。
https://note.com/nkms/n/na89ac0e3268a#8e92ddf5-790b-424a-bd5e-df4b435d99a7

点線で表現されてましたね

あとは、Gegenstand(対象)という言葉が出てくることから、カントやフィヒテやヘルダーやヘーゲルとかがやっていた話であることが感じられます。
続く「一つの物体(ein Ding)」で、もはや明らか。

認識論でしたっけ

彼らがやっていた哲学全般のうちの認識に関わる話ぽいなということがわかります。
この世界には意識やモノ(諸物)という要素があって、それらの関係を扱っていますよということです。
意識を担うものが「人」ですね。

なるほど

「その性質(複数)によって人間の何らかの欲望を満たす物体(Ding)である。」
なので、単に「商品」の話ではなく、諸人間と諸商品の関係の話であることが宣言されていることになります。
あとは、あえて「手段(Mittel)」と表記しましたが、「手段」も重要な基本語です。
「手段は推論の中間項である」

読み方はミッテルですか?

ミッテルで大丈夫

中間項というのはヘーゲルでしたか
媒介するもの?

意識とモノの関係において、モノが意識の欲望を満たすための「中間項」になるのがミッテルですね。

生活の手段(Mittel)生産の手段(Mittel)
便利過ぎる(笑)
こうするとイメージしやすいですね。

このイラストの初出はこちらワンね

これほんとおもしろい

「何を」イメージしやすいのですか?

ミッテルが中間項として人とモノを媒介しているイメージです

これはどうでしょう

これは、モノが中間項として人と手段を媒介してる?

こんな感じかしら

カント認識論の図

カントの認識論を図式化するとこう。

自己と対象との間に明確な境界があります

ヘーゲルは「そういうのやめよう」と訴えたとも言えます。
資本論もそのような、ヘーゲル的な立場に立っています。

以前に「観測問題」と一緒とおっしゃっていたのと関連があります?

そう言うこともできると思います。

ヘーゲルの認識論だと3つの要素が三つ巴状態で相互に関わりあっている感じがします。自己と対象も、何かを中間項にして関係しあっている。

まだ先行研究で消耗してるの? マルクス『資本論』覚書(4)

引用しちゃう

ここで「商品 Waare 」は〈手段 Mittel 〉として取り扱われている.「人間の何らかの種類の欲望を満足させる」ことがその目的である.この目的すなわち「人間的需要 menschliche Bedürfniss 」を満たす物は,肉体としての人間の外にある.
 商品という〈手段〉は、「直接的に unmittelbar 」は「生活手段 Lebensmittel 」として,間接的には「生産手段 Productionsmittel 」として用いられることが想定されている.ただし,ここでは直接的であるか間接的であるかはどうでもよいものとされている.

ここでバーボンの注が生きてきます。

(二)『願望は欲望を含む。それは心の食欲であって、身体に於ける飢えのように自然的のものである。・・・・大多数は心の欲望を充たすことによって価値を受けるのである』ニコラス・バーボン著『新貨軽鋳論、ロック氏の貨幣価値引上論考に答う』ロンドン、一六九六年刊、第二及び三頁)。 

ニコラス・バーボンの著作については、資本論を読むにあたってとても重要と思うので note の方でもこれから取り上げていきますね。

バーボンは心の欲望と身体の欲望を分類したけれど、資本論の分析においてはそれは「どうでもいい」。
バーボンの考えは、使用価値が交換価値の「原因」であるという感じですが、マルクスはむしろ弁証法的に、使用価値と交換価値の「疎遠さ」「関係のなさ」の方を強調していくことになります。

ここからしばらくマルクスは、バーボンの論理に対してバトルを挑んでいく感じになります。

次回の注3もそうワンか?

〈1-5〉
Jedes nützliche Ding, wie Eisen, Papier usw., ist unter doppeltem Gesichtspunkt zu betrachten, nach Qualität und Quantität. Jedes solches Ding ist ein Ganzes vieler Eigenschaften und kann daher nach verschiedenen Seiten nützlich sein. Diese verschiedenen Seiten und daher die mannigfachen[49] Gebrauchsweisen der Dinge zu entdecken ist geschichtliche Tat. (3) So die Findung gesellschaftlicher Maße für die Quantität der nützlichen Dinge. Die Verschiedenheit der Warenmaße entspringt teils aus der verschiedenen Natur der zu messenden Gegenstände, teils aus Konvention.

(3) “Dinge haben einen intrinsick vertue” (dies bei Barbon die spezifische Bezeichnung für Gebrauchswert), “der überall gleich ist, so wie der des Magnets, Eisen anzuziehen” (l.c.p. 6). Die Eigenschaft des Magnets, Eisen anzuziehn, wurde erst nützlich, sobald man vermittelst derselben die magnetische Polarität entdeckt hatte.

鉄や紙など、それぞれ有用な物体は、二重の(doppelt)観点、つまり質と量との両面から観察することができる。こうした有用な物体はどれも、多くの性質がまとまった一全体(ein Ganze)であり、だからさまざまな方面に有用ということになる。これら物体のさまざまな方面の諸用途は、人類がその都度発見してきたものである(三)。有用物体の分量の社会的な公認尺度(Maß)もまたその都度決められてきたものである。商品の量を測る尺度にはさまざまなものがあるが、それは秤量される対象の本性(Natur)が多種多様であるためであり、あるいは慣習でそうなった部分もある。

*(三)諸物は内的な効力(intrinsick vertue)を持っている。すなわち、どこにあっても同じ効力を持っている。たとえば磁石は鉄を引き付けるというように。」(同前、第六頁)
磁石が鉄を引きつけるという性質は、磁石によって磁極が発見されると同時に有用になったのである。

お楽しみにー

〈1-3〉Der Reichtum der Gesellschaften, ….

本文リンク
〈1-3〉

さあ、いよいよ始まります。
資本論の有名な出だし。

[49] Der Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine “ungeheure Warensammlung” (1), die einzelne Ware als seine Elementarform. Unsere Untersuchung beginnt daher mit der Analyse der Ware.
(1) Karl Marx, “Zur Kritik der Politischen Ökonomie”, Berlin 1859, pag. 3. <Siehe Band 13, S. 15>

資本制生産様式が支配的である社会(複数)では、富は『商品の膨大なる集積』(一)として現れ、個別の商品がその要素形態として表れている。だから我々の研究は商品の分析から始まる。
*(一)カール・マルクス『経済学批判』(べルリン、一八九五年刊、第四頁)。

形としては翻訳を引用して、それとは別に対話や解説?を入れていこうということワンね

うんそんな感じで。

早速、ここは「〇〇は××である」ではなく「××として現れる(erscheinen)」という言い方をしているのが目を引きます。

(画伯、Ding an sich じゃなかっけか)

(しまった)

Schein という、「現れ」「外観」というような意味の名詞があって、er- という接頭詞が付いた erscheinen「現れる」

Schein という語は資本論第一部全体で 26回出てくるそうです。

これは哲学を知っている人なら誰でもいきなりカントの純粋理性批判以降の哲学の諸議論を想起させられるところです。

人間はモノ Ding を直に「物自体(Ding an sich )」を認識するのではなくて、感覚のカテゴリーを通じて現れたものを認識しているというあの話。 

ややこしい

このことは、直後に続く文でますますはっきりして行きます。

Reichtum

Reichtum 豊かさ。リッチ(rich) と似てるワンね、字が。

マルクスは Reichtum (富、豊かさ)について別のところで次のように書いています。

„Wahrhaft reich eine Nation, wenn statt 12 Stunden 6 gearbeitet werden. Reichtum ist nicht Kommando von Surplusarbeitszeit“ (realer Reichtum)_sondern verfügbare Zeit außer der in der unmittelbaren Produktion gebrauchten für jedes Individuum und die ganze Gesellschaft.“
(12時間働くより6時間働く状態の方が、その国は真に豊かだ。各個人や社会全体にとって、富とは命令される「余剰労働時間」(実質的な富)ではなく、即時の生産に使われる時間とは別に利用可能な時間のことである。)

ある無名のパンフで「富とは剰余労働時間ではなくて、直接的生産に使用された時間以外の、すべての個人と社会全体にとっての自由に処分できる時間である。」に表現があったそうで、これを激賞してたりするのです。

つまり冒頭のこの Reichtum は絶対的概念ではなく、ある限定された状態での現れというニュアンスが出ているわけです。 

つまり「資本制生産様式が支配的である社会」ではない社会においては、富が「商品の集積」として現れるとは限らない。

二つ指摘しておきましょう。
たとえばアダムスミスの「国富論」のような、結果的に商品の集積を富と把握する「ものの見方」が相対化されています。リカードでもまたそうですし、もし現代のわたしたちがGDPが富の増大だと考えるとしたら、そうした考えが批判・吟味されることになるわけです。

富という本質があって、それはなんなのか掴むのは難しいのだけど、無限に分岐した可能性としての社会を吟味してみると、それぞれ違った概念としての富が現れるようなイメージ…?

ただそう言うと「本質」って何?となるか。
言葉が表す内容は社会的な文脈に依存しているということを表しているように思います。

なるほど
その社会に生きる人達が何に価値をおくのか、というか。
商品の集積を富とみなす社会はなんか分かるというか、直感的にわかりやすいです。
GDPは私達はなんで増えると成長したとか、良いことだと思ってるのだろうか。

もしも「全商品」またはその増加が豊かさなら、その多くは金持ち階級に所有されているものですよね。
第二十二章のリカードら「ブルジョワ経済学者」批判では、彼ら経済学者がナチュラルにそうしたものを「豊かさ」と見ていることが批判されます。

そうなんですね
ブルジョワ経済学者と一緒だった…orz

Gesellschaft

ゲゼルシャフト(社会)は複数形で登場しています。

この単語はゲゼル – シャフト (Gesell – schaft) と分解できる。

シャフトの方から説明すると、フレンドという意味の Freund にシャフトが付くとFreund – schaft は「友情」。
知識という意味の Wissen にシャフトがつく Wissen-schaft は「学問、科学」つまり「知の体系」。
というようにシャフトは多くのものの集合を表す感じです。

ゲゼルは?

Geselleで「職人」。
ドイツのギルドの職人は徒弟制度だったわけだけど、国全体でみると親方-職人の集合が無数にあって「社会」という感じなのかな。

ゲマインシャフトというのを聞いたことがあるんですが、これは?

ええと、このサイトの説明でどうかな↓

GemeinschaftとGesellschaftの日本語訳についての補足
(日本マックス・ヴェーバー研究ポータル)

ゲマインは「普通の」、「平均的な」という感じなのだけど、全体を職業という観点ではなく、地縁や血縁のまとまりという感じの「社会」かな。

マルクスは「共同体」という感じでゲマインシャフトを、「生産が組織化された社会」というニュアンスでゲゼルシャフトというように使い分けます。

資本と労働が分離したら、もうゲゼルシャフト。

以降、この単語がどのように出てくるかどうか気にしておきましょう。

ここは「資本制生産様式が支配的なソレ…」だからゲゼルシャフトなわけワンね。

さらに詳しく↓
 「Gesellschaft と Gemeinschaft, そしてWesen

Element

あとは Elementarform、エレメントについて少しだけ触れておきましょう。
すでに小タイトルで出た Factor と Element のニュアンスの違いというか。

荒川さんのページ
まだ先行研究で消耗してるの? マルクス『資本論』覚書(3)
われわれと似たことをなさっていますねえ。

エレメントについて入江と内田の論考を紹介なさっています。
まず、荒川さんによる入江論の紹介。


 「一つ一つの商品」が社会的富の「基本形式 Elementarform 」として現象するという場合,それを〈エレメント〉の側面と〈形式〉の側面から考察することができる.入江幸男(1953-)は〈エレメント〉を次のように説明している.

「エレメント(Element)といえば,哲学史上では,ひとは直ぐに,ギリシャ哲学の四大エレメント(地・水・風・火)を想起する.この場合,エレメントとは,元素(Urstoff)の意味である.一般には,この元素の意味からの転義で,構成要素(Bestandteil)の意味で使われることが多いと思う.エレメントには,これらの周知の意味の他に,本来の乃至固有の活動領域という意味がある.この意味のエレメントの説明でよく例に挙げられるのは,魚のエレメントは水である,鳥のエレメントは空気である等,また悪例を挙げるならば,女のエレメントは家庭であるというものもある.」
入江1980:69)

 ここで入江は〈エレメント〉の意味を二つ挙げている.ひとつは「構成要素」という意味での〈エレメント〉であり,もうひとつは「固有の活動領域」という意味での〈エレメント〉である.
 マルクスが「一つ一つの商品」が「基本形式」として現象すると述べた際のElementarの意味はどちらの意味であろうか.これは一見すると,「構成要素」の意味で用いられているように思われる.しかしながら,もし「固有の活動領域」という意味で用いられていたらどうだろうか.もし「一つ一つの商品」が何らかの「活動領域」の形式として現象するものだとしたら,「一つ一つの商品」という〈エレメント〉で活動しているのは一体何なのだろうか.
 そして「一つ一つの商品」がエレメントの〈形式〉として現象するならば,同時にその「内容 Inhalt 」や「実質 Materie 」の側面に注意が払われるべきであろう.

次に内田論を紹介なさいます。

 内田弘(1939-)は,上の「エレメント」を「構成要素」の意味で理解している.さらに内田は〈要素〉に対するものは「巨大な商品の〈集合〉」だと述べている.つまり内田は,マルクスの用いるElementやSammlungを数学上の概念として理解するのである.

「名詞「Warensammlung」は「商品《集積》」と訳して,正確に理解できるのだろうか.その語彙のすぐあとに,「個々の商品はその富の要素形態(Elementarform)として現れる」とある.「要素」に対しては,「集積」でなくて「集合」であろう.資本主義的生産様式が支配する社会では,ほとんどの富は商品形態をとる.商品は「集合」であり,かつその「要素」である,とマルクスは言明しているのである(ちなみに『経済学批判』では「集合」にAggregatを当てている.この語法はカントにならっている).」
内田2011

数学上の概念としての「集合」はドイツ語でMengeという.Sammlung にせよAggregatにせよ,それらを数学上の概念として解釈するのはただのこじ付けではないだろうか.

いやいや
こじつけじゃなくて、内田の言っていることもぼくは真実だと思います。当時の数学の集合論は現代のそれの形にはなっていないとは言え。

だってこうです。

おおー

さて、前回ぼくはファクターについて
「それを欠いたら「全体」ではなくなってしまう何かです」
と説明しましたが、エレメントは全体(集合)を構成する粒子、それ以上分割したら「それ」ではなくなってしまう、個々の基本単位という感じがあります。
内田が「数学上の概念として理解」しているかというと必ずしもそうではなくて、物理学的、天文学的、哲学的な原子論として読み解いていて、そこは自分も同調できます。

さて、あとは 注(一)カール・マルクス『経済学批判』を少しだけ見ておくと。
そこではこうなっていました。

Auf den ersten Blick erscheint der bürgerliche Reichtum als eine ungeheure Warensammlung, die einzelne Ware als sein elementarisches Dasein. Jede Ware aber stellt sich dar unter dem doppelten Gesichtspunkt von Gebrauchswert und Tauschwert.
一見したところ、ブルジョア的富は商品の膨大なる集積として現れ、個別の商品がその要素的定在として表れている。それぞれの商品は、使用価値と交換価値という二重の観点から自らを示している。

資本論よりも「硬い」感じの表現です。Dasein (ダーザイン)とか。
あと、使用価値と交換価値の対比になってる。

図にすると、こう。

まだヘーゲル式の三元論が完成されてない?
資本論はこうでしたよね、

いやむしろ三元論そのものになっています。

論理の骨格としては資本論とほとんど同じことをやっていると思うけれど、年月を経て表現が円熟したなーという感じ。

なるほど

このパラグラフはこの辺で。

次回はこちら。

〈1-4〉
Die Ware ist zunächst ein äußerer Gegenstand, ein Ding, das durch seine Eigenschaften menschliche -Bedürfnisse irgendeiner Art befriedigt. Die Natur dieser Bedürfnisse, ob sie z.B. dem Magen oder der Phantasie entspringen, ändert nichts an der Sache (2). Es handelt sich hier auch nicht darum, wie die Sache das menschliche Bedürfnis befriedigt, ob unmittelbar als Lebensmittel, d.h. als Gegenstand des Genusses, oder auf einem Umweg, als Produktionsmittel.
(2) Verlangen schließt Bedürfnis ein; es ist der Appetit des Geistes, und so natürlich wie Hunger für den Körper … die meisten (Dinge) haben ihren Wert daher, daß sie Bedürfnisse des Geistes befriedigen.” (Nicholas Barbon, “A Discourse on coining the new money lighter. In answer to Mr. Locke’s Considerations etc.”, London 1696, p. 2, 3.)

商品はまずもって外界の一対象(Gegenstand)であり、その諸性質によって人類の何らかの種類の欲望を満たす物体(Ding)である。この欲望の本性(Natur)、つまりそれが胃袋から生じるものか、あるいは空想から生じるかは、ここでの分析に何等影響するものではない(二)。また、その物体がどのようにして人類の欲望を満たすものであるか、つまり直接的に生活の手段(Mittel)つまり享楽の対象としてであっても、もしくは間接的に生産の手段(Mittel)としてであっても、その違いはここの分析には影響しない。
*(二)『願望は欲望を含む。それは心の食欲であって、餓の身体に於ける如く自然的のものである。・・・・大多数は心の欲望を充たすことによって価値を受けるのである』ニコラス・バーボン著『新貨軽鋳論、ロック氏の貨幣価値引上論考に答う』ロンドン、一六九六年刊、第二及び三頁)。 

<1-2>「商品の二つのファクター」とは?

〈1-2〉
1.Die zwei Faktoren der Ware: Gebrauchswert und Wert(Wertsubstanz, Wertgröße)
1.商品の2因子、すなわち使用価値と価値(価値実体と価値大いさ)

前回、「準備編1」と銘打って2があるかのような書き方をしたのだけれど。

資本論を nyun とちゃんと読むための準備編1 「実体」とは? – 資本論をnyunとちゃんと読む

そのあたりはブログに書いたから準備編はもういいか(笑)

 

 

 

 

「弁証法」と訳されるディアレクティークという方法について基礎的だけれども、理解されていなさそうなことについて書いているので。。。

よろしく!

それでは、じゃーん

これは。。。

Erstes Kapital (第一章)
Die Ware (商品)
1. Die zwei Faktoren der Ware: Gebrauchswert und Wert(Wertsubstanz, Wertgröße)

今回は、この太字部分の話をします。

高畠訳
商品の二因子、すなわち使用価値と価値(価値の実体と価値の大小)

向坂訳
商品の二要素 使用価値と価値(価値実体、価値の大いさ)

中山訳
商品の二つの要素:使用価値と価値(価値の実体、価値の大きさ)

大月書店
商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)

とりあえず、この節タイトルを少し分析しましょう。
「商品の二つのファクター:使用価値と価値(価値の実体、価値の大小)」
(とりあえず nyun 訳)

はい

ファクターって何でしたっけ?



えっと

要素?

では要素とは?

難しい

そのものの性質を決めるもの?

そのように要素を考えるときには何らかの「そのもの」が考えられているはずです。
ファクターに対応するものとして”Das Ganze(ダス ガンツェ)”「全体」「総体」がある。 
ファクターとは第一には、それを欠いたら「全体」ではなくなってしまう何かです。

なるほど

もうひとつファクターは複数あることが多くて、その場合、それは互いに排他なんです。
わかりますか?

質と量のように

質を考えるとき量は捨象され、量を考えるとき質は捨象されるのでしたね

そうですね。

ところで因数分解は英語で factorization ですが、たとえば「ある数 X をA×Bという排他的なファクターに分解する操作」ということです。

このときAとBは排他であり、なおかつ、どちらかを欠いたらXにはなりません。
こういうのがファクターというわけ。

なるほど

因数分解はイメージしやすいです。

ここでマルクスは「商品」を「使用価値」と「価値」の二要素に分解しているわけですが、このように、三つとか四つではなく、対極関係にある二要素に分解するのがヘーゲルの基本的な方法です。

はい

分解と逆に、その二要素を総合すると「全体」になります。

なるほど

さて、アリストテレスだったら商品の価値を「使用価値」と「交換価値」に分解するでしょう。
というか、そうしたと言えます。

なぜならば、どの物にも二つの用途があるからである。――一方の用途はその物に固有なものであるが、他方の用途は固有ではない。たとえば、靴には、一方でははくという用途と、他方では交換品としての用途とがある。両方とも靴の使用価値である。というのは、靴を、自分の持っていないもの、たとえば食物と交換する人でも、やはり靴を靴として用いるのだからである。といっても、それは靴の固有な用い方ではない。なぜならば、靴は交換のために存在するのではないからである。アリストテレス「政治学」
資本論第2章交換過程注39

これを、こう表現してみます。

簿記のT字勘定みたいワンね

実はこの表現、そこから思いついたのです。

簿記のあれは「左右の数字がバランスする」ことが前提になるという先入観があったのでMMTには使いやすいけれど資本論の表現としてどうかと思っていたのだけど。

思っていたのだけど、と

これは三位一体的な考え方とか、ヘーゲル的な思考を表現するのにぴったりじゃないか!と気づいたのです。

ヘーゲルの、有-無-成の「弁証法の始まり」をこんな風に表すといい感じ。

ふむふむ
(実はわかっていない)

ちょっと説明すると、、、
「有」と「無」はまったく別の、対極にあるものですよね

そりゃそうワン

しかし「純粋な有」を考え、また「純粋な無」を考えるとこの二つは全く同じものなんです。

ええ?

じゃあたとえば「純粋な犬という概念」を考えてみてください。
「犬が存在する」ということを突き詰めて考えるということです。
まあやってみて。

。。。

じゃあ次に「犬が純粋に存在しない」を考えてみて。
これは「犬が存在する」とまったく同じことを考えていることになる、ということがわかりませんか?

おお、確かに!

してみると「犬」とは「犬がいる(犬である)」と「犬がいない(犬ではない)」の両方を考えていくことに他ならない。
そのことによって「犬」という概念は更新されていくわけ。

うーん

まあ、慣れです。

マルクスがこのタイトルで、商品の「使用価値」と対立するものとして「交換価値」とは書かないのはなかなか味わい深いものがあります。

並べてみましょう。

ここでマルクスは、使用価値(左)と「使用価値ではない価値」(右)のことを言っているのですね。
つまり、こう。

ある商品を手に取ってみるとそこには「価格」がついているけれど、それは「使用価値」とは全く関係がない。
では何だろう?というわけですね。

「交換」を先に言いたくないわけかな。
わかってきたような。

「使用価値ではない方の価値」を ”因数分解” してみましょう。

ふむふむ

これを、上の式の「使用価値ではない価値」に「代入」します。

おぉ〜

まったくほれぼれします。
マルクスこそはヘーゲルの真の弟子ですねえ。

節タイトルの文「Die zwei Faktoren der Ware: Gebrauchswert und Wert(Wertsubstanz, Wertgröße」これを表に書き換えましょう。

これはしびれます。資本論を読んでて一番難儀するのが価値という言葉の使われ方とか整理の仕方だと思いました。この表は明快で美しいし、とても役に立ちます。

こういう三位一体の、巨大な入れ子構造が「確実な知の体系」つまり「科学そのもの」を成すわけです。

これからはこのT字表記を駆使することにしましょう。
自分もようやくこの方法にたどり着きました。

おぉ〜

タイトルの構造が読み取れれば難儀する必要は全くないんですよね。
そこがむつかしいと受け取られるとしたら、説明がよくないんです。
だってこれ以上なく明晰に、ありありと書いてある!

デカルト的な考えに見えます

そう感じる方にはヘーゲルの哲学史講義をお勧めしておきます。
あれ面白いから。

こういうのがいわゆるヘーゲル流の「論理」で、三段論法とは異なる論理だということを注意しておきましょうか。

うまく説明できないけれど、違うのです(笑

単なる要素還元とは何が違うのでしょうか?

「単なる要素還元」がちょっとピンと来ませんが、要素に還元するということは「ダス ガンツェ」がハッキリしていなくてはいけませんよね。

還元とは反対の、総合によって「ダス ガンツェ」が出来上がるという往復運動で把握するんです。

「犬」には「ワンと鳴く性質」などのファクターがあるけれど「非犬ではないもの」という全体的な把握も必要、ということとか。

あと「慣れ」も大事で、新しい思想は徐々に精神と浸透しあうんです。ヘーゲルがそんなことを言っていたと思います。

昨今のMMT的な考え方の「浸透」もぼくにはそういう感じに見えていて、だって「国債はただの政府預金調達にすぎない」みたいに言い出す人が出てきていたり。
本人は気づいていないけれど、そういうのは浸透なんですよね。 

で、後から「MMTは別に新しくない」という感じで。かつての地動説の浸透もおんなじなんですよね。コペルニクスは別に新しくない!

こう言えるかな?
現代のぼくたちが今あたりまえに「単なる要素還元」と呼んでいる思考は、デカルト~ヘーゲル時代に確立していったものなんです。

と、ここまで考えるとすごく有意義なご質問でした。
ありがとうございます。

付け加えると、要素還元思考は原子論に行き着きますよね。マルクスがそこから出発している(学位論文)のはまことに一貫しているんです。
「ちゃんと読む」ではエピクロス思想とのかかわりもちゃんとお話しできたらいいな。。。

ちょっとMMT話もしほしいワン

そうですねえ。

MMTって、貨幣という視点を取るというより、マネタリーシステムを三位一体関係の集合体として把握していると言えるでしょう。

こんなん?

マルクスやMMTに対して「言葉の定義がない」という評価をする人がいるのだけれど、こういう総体的体系把握にとって「定義」は重要ではないんですよね。
そういうところも共通しています。 

ドイツ語の科学は Wissen(知)-schaft(集合体)で、Wissenshaft です。
発展する三位一体の知の体系。

このくらいにしておこうかな…

そうだ、宇野について。
返す返すも惜しまれます。ぼくのこの説明なら「価値実体論」の意味がわかってもらえたと思うのだけど。

「価値実体」は「定義」したものじゃないんですよね。総体的な把握によって確かに見出されるもの…というわけ。
上の図のように。

なるほど
総体的な把握の意味、定義しない理由、少し理解できた気がします

慣れてきましたね。