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〈1-8〉Eine gewisse Ware, ein Quarter Weizen …

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〈1-8〉

Eine gewisse Ware, ein Quarter Weizen z.B. tauscht, sich mit x Stiefelwichse oder mit y Seide oder mit z Gold usw., kurz mit andern Waren in den verschiedensten Proportionen. Mannigfache Tauschwerte also hat der Weizen statt eines einzigen. Aber da x Stiefelwichse, ebenso y Seide, ebenso z Gold usw. der Tauschwert von einem Quarter Weizen ist, müssen y Stiefelwichse, y Seide, z Gold usw. durch einander ersetzbare oder einander gleich große Tauschwerte sein. Es folgt daher erstens: Die gültigen Tauschwerte derselben Ware drücken ein Gleiches aus. Zweitens aber: Der Tauschwert kann überhaupt nur die Ausdrucksweise, die “Erscheinungsform” eines von ihm unterscheidbaren Gehalts sein.
 ある一つの商品、たとえば1クォーターの小麦は、xの靴墨や、yの絹や、zの金、などなど、要するに、自分以外の諸商品と、それぞれに異なった比率で交換される。このように、小麦は多様な(Mannigfach)交換価値を持つのであって、ただ一つの固有のそれを持つのではない。そしてxの靴墨も、yの絹も、zの金などなどは、みな1クォーターの小麦の交換価値なのだから、xの靴墨も、yの絹も、zの金などなどは、互いに置き換えることができる、もしくは互いに等しい大きさの交換価値でなけれならない。従って次のことが言える。第一に、同じ商品の妥当な交換価値たちは一つの同じものを表している。しかし第二に、およそ交換価値は、ただ、それとは区別される或る内実(Gehalt)の表現形式、「現象形態」でしかありえない。

「多様な交換価値」の図

ここはむつかしくない気がするけれど、後半(従って次のことが言える、以降)がくどいと感じがするというか。
交換価値たちが「一つの同じもの」を表していると言えるのかな?

うん実はそこが重要なことで、「一つの同じもの」を表しているのでなければ、=(統合)でつなぐことはできないんだよね。
等しいから=で結ばれるのではなくて、=で結ばれているから等しい共通のものがあるに違いないってなるというわけ。

うーん

「あるなしクイズ」

えええ



わかった、「ある」はみんな都道府県名が隠れてる!
岐阜、滋賀、京都、高知、佐賀

ここの話はこれのちょうど逆というか似てて。
「1クォーターの小麦」、「xの靴墨、「yの絹、「zの金、などなどは共通したものがあるからこそ、世の中の人々は=で結んでいるんだなとわかるよね、という仕組みなんです。

筆者のマルクスがそれらを等号で結んでいるのではなく…

違うの?

そうではなくて、交換している人々はそういう形で異なるものをお互いに「等しい」と言っているのだから、「共通のものがあるはず」が導出できるんよ。

そうかー
人々は意識しなくてもそれを感知しているわけワンね!

じゃあわかったから次の節行こうか

いや次は重い…
よく見て! 
ここ ” an und für sich “が出てくる。

なんだっけ?

そうか、この話をしなければならない↓

Hier ist die Rose, hier tanze!(Hegel)

ここで見た!

「資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る」の、第6回「ここがロドスだ、ここで跳べ!」まんがで掴む資本論の論理バトル

ぼくとしては資本論のなかでもこここそが、人類の宝だと思うくらい。
翻訳だけ紹介。

〈1-9〉
Nehmen wir ferner zwei Waren, z.B. Weizen und Eisen. Welches immer ihr Austauschverhältnis, es ist stets darstellbar in einer Gleichung, worin ein gegebenes Quantum Weizen irgendeinem Quantum Eisen gleichgesetzt wird, z.B. 1 Quarter Weizen = a Ztr. Eisen. Was besagt diese Gleichung? daß ein Gemeinsames von derselben Größe in zwei verschiednen Dingen existiert, in 1 Quarter Weizen und ebenfalls in a Ztr. Eisen. Beide sind also gleich einem Dritten, das an und für sich weder das eine noch das andere ist. Jedes der beiden, soweit es Tauschwert, muß also auf dies Dritte reduzierbar sein.
 次は二つの商品を考える。例えば小麦と鉄である。両者の交換の関係がどのようになっているとしても、この関係は常に一つの等式で表すことができる。つまり所与の小麦の量に対して、どれだけの量の鉄と等置されるかの等式で表すことができる。たとえば「1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄」である。この等式は何を語っているのだろうか? それは、同じ大いさの一つの共通物が、二つの違った物のうちに存在しているということである、すなわち、1クォーターの小麦のうちにもaツェントナーの鉄のうちにも、一つの共通物が存在するのである。つまり両方とも「ある一つの第三のもの」に等しい。この第三のものは、小麦や鉄のようにそれ自体として存在するものではなく、無関係な別のものとして存在するのでもない。従って、二つの商品は、交換価値として、この第三のものに還元できるのでなければならない。

ではまたー

ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(1696年)の翻訳記 2

こちらの続き。

表題のニコラス・バーボン(Nicholas Barbon, 1640–1698)著『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』という冊子(A DISCOURSE Concerning Coining the New Money lighter, IN Answer to Mr. Lock’s Confiderations about raising the Value of Money)について。

 タイトルの翻訳は荒川さんに同調しています。

 とりあえずやりたいのは、荒川さんが紹介されいる「本論にあたる部分」の前に置かれている文章の翻訳になります。
 
 荒川さんが書かれている通り、マルクスは『資本論』での引用をはじめ、バーボンの著作が経済学史において重要な役割を果たしているのは確かでしょう。
 わたくしも、そう思います。https://note.com/embed/notes/n8a94ee65a953

 マルクスの経済学批判の論理を理解するために、ロックとバーボンに代表される、その時代の各々の貨幣についての理解ぶりを知ることが、です。

時代背景と「貨幣の価値を引き上げる(raise the Value of the Money)」の意味について

 さてこの冊子を読むにあたり、知っておくべき背景は、この冊子が The Great Recoinage of 1696 (1696年大改鋳)と言われている銀貨改鋳政策に関する議論だったということです。背景知識のない方は Wikipedia をはじめとした情報ソースで予備知識を得ておかないと正しく文章の意味が取れないと思われます。

 タイトルの「より軽い新貨幣の鋳造」というのは大改鋳において採用されなかったバーボンらの案で、それは銀貨が含む純銀の量を減らしてはどうか、減らすべきではないか、という意見です。

 結局のところ大改鋳では哲学者ロックの意見が通り(つまりバーボンの意見は通らなかった)コインが含む純銀の量を減らさない「旧基準」で行われることになりました。

 さて、文章には raise the Value of the Money(貨幣の価値を引き上げる)というフレーズが何度か出てきます。いったいこれは硬貨の中の純銀の量を増やすことでしょうか、減らすことでしょうか。

 純銀の含有率を増すことはコインの価値は引きあがるわけで、それが「貨幣の価値を引き上げる」ことだという解釈も可能に思われます。
 しかし、ここで言われているのは、純銀に対する額面貨幣の価値なのです。同じ額面の1シリング銀貨を過去より少ない量の純銀で製造すれば、銀に対する1シリング銀貨の価値は引き上げられることになる。

 この二つはまったく逆の解釈なわけですが、こうした冊子を紐解くことで、英国のこの時代の言論空間では raise the Value of the Money(貨幣の価値を引き上げる)は、コインの中の金や銀の含有率を引き下げることを意味していたのだなということがわかるのです。ご注意ください。

バーボンの批判対象であるロックの文について

 またこの小冊子でバーボンが直接批判しているのは、ロックの “Further Considerations Concerning Raising the Value of Money(貨幣価値の向上に関するさらなる考察)” という論考です。

 このロックの全文は、例えばここ(https://avalon.law.yale.edu/17th_century/locke01.asp)で読むことができます。

 一見してわかりますが、副題?として ”Wherein Mr. Lowndes’s Arguments for it in his late Report concerning An Essay for the Amendment of Silver Coins, are particularly Examined. ” という言葉が付いているように、そもそもロックの文からしてもラウンズという当時の大蔵次官(Secretary to the Treasury)の議論に対抗するために書かれたものです。

 このあたりの事情は例えば、楊枝嗣朗1696年の銀貨大改鋳と金本位制の確立を参照ください。

 ラウンズはバーボンと同じく、銀の量を減らしたい派で、ロックは旧制度維持派という構図でした。


 ここで訳出するのは、本文に入る前の「PREFACE(序文)」と「 THE CONTENTS, OR, CHIEF SUBSTANCE of Mr. LOCK’s Book (ロック氏の本の内容、もしくは主たる主張)」と題された部分になります。

 本文は Oxford Text Archive のこちらを参照しています。

PREFACE(序文)

THIS Question, Whether it is for the Interest of England, at this time, to New-Coin their Clipt-Money, according to the Old Stan­dard both for Weight and Fineness, or to Coin it somewhat Lighter? has been, of late, the business of the Press, and the common subject of Debate.
 目下の問題は、すり減った硬貨(Clipt Money)を改鋳する際に、重量と精度の旧基準に従ってそれを行うのか、それとも幾分軽く鋳造するかのどちらが英国の利益に資するかということです。これはここ数年に渡って報道を賑わし、広く議論されている論点であります。

And since there has been so much wrote and said Pro & Con about this matter, and yet Gentlemen continue still unsatisfied, and of different Opi­nions; I could not hope, from any thing I might write, to have better success, and therefore did not intend to appear in Publick in this Contro­versy: Tho’ I had the same reason which is given for answering Mr. Lowndes; that is, that by my silence I might seem to renounce my own Opinion, having some time since wrote a Discourse of Trade, wherein the definition of Money differs from what Mr. Lock asserts.
 この問題についてはすでに賛否両論多くのことが書かれ、語られてきているわけですが、紳士たちはまだ満足せず、さまざまに異なる意見を持ち続けています。そこに私が重ねてどんなことを書いたとしても貢献は望めないので、もともとこの議論について私が公の場に出るつもりはありませんでした。しかし、私にはラウンズ氏に答えた時と同じ理由があったのです。それは、沈黙していると、私が自分の意見を放棄したように見えかねないのです。かつて『貿易論』を書きましたが、当時から私の貨幣の捉え方(difinition)はロック氏が主張するものとは一貫して異なっているのです。

But having consider’d the fatal conse­quence of coining the Money by the old Standard, and that it was not necessary that those Argumeuts that should be offered to prevent it, should wholly convince those that are of the contra­ry Opinion; but that they would have the same success, if they did but create a Doubt. It seeming very reasonable, that Persons in Doubt of their own Opinion in this Controver­sy, might be persuaded to consent to the trial of the contrary; not only that they might thereby discover the Truth, but because by the Experi­ment there appears so plain an Ad­vantage, as the multiplying the spe­cies of the Coin, and saving the Na­tion near a Million of Money, in a time when they are engaged in so chargeable a War.
 そしてこう考えました。古い基準で貨幣を鋳造し続けてしまうことが招く致命的な帰結を考慮すれば、その帰結を防ぐために提示される以下の論証が、反対の意見を持つ人々を完全に納得させる必要まではなく、せめて疑念を生じさせれば成功であろうと。論争を通じて自らの意見に疑念を抱くようになった人が、案を試してみることに同意いただけるようになりさえすれば、それはとても理に適うことと思われます。やってみること(experiment)によって真実が判明するかもしれないというだけではなく、国家が戦争の費用に四苦八苦している状況下、鋳造される硬貨の数(the spe­cies of the Coin)を増やすことによって、百万に近い貨幣を節約できるというまったく明白な利点が出現するであろうからです。

I was therefore encouraged, in hopes of such success, to offer my Reasons, for raising the Value of the Money, to Publick Consideration, that they might be the better weigh’d and ex­amin’d, and at the same time to an­swer Mr. Lock’s Objections to the con­trary: which, both from the Reputa­tion of the Person that writes them, and the Reception they seem to have had from great Personages before they were published, are of greatest force in this Debate.
 そこで私は、上記のことを願いつつ、貨幣の価値を高めるべき(訳注:硬貨の銀含有量を減らすべき)であると考える理由を公表し、公共の検討に貢献し、同時にロック氏の反対意見に答えることにいたしました。氏の意見は、執筆者の評判という面でも、著名人たちが受けたと思われる反響という面でも、この議論において最も有力なものであります。

That which seems to be the greatest difficulty in clearing this Controversy is, That it being about a matter where Profit accompanies the decision of it, Gentlemen are jealous of the Argu­ments, lest they should be biass’d by private Interest, and so run contrary to the Truth: which lessens the force of the Arguments that are used in such Debates.
 この論争を解決する上で最大の難関と思われるのは、この論争が利益を伴う問題であるため、紳士たちが議論を嫉んだり、私利私欲に偏って真実に反してしまいかねないということです。こうしたことは、この種の論争における議論の力を弱めてしまいます。

But this is an equal Objection to the Reason on both sides: For as the raising the Value of the Money may be profitable to those that have Interest in Banks, having great Cashes in Old Money; so on the other hand, the Coining of the Money to the Old Standard, may be as profi­table to Banks by melting of it down; and if there be any difference of Ad­vantage, it must be to the latter: Be­cause, besides the Profit by melting, Nothing can be of greater Advantage to Banks than scarcity of Money, when men will be glad to take a Bank-Note for want of it. And on the contrary, nothing can be more disadvantageous to Banks, especially to those young in Credit, than plenty of New Money, when the Money may be sooner told than a Note writ: so that if I were to consider my private Interest, I ought to be of the contrary Opinion to that I argue for.
 しかし、反対の理屈も成り立ちます。というのも、貨幣の価値を上げることは、なるほど旧来の貨幣を大量に保有する銀行の利害関係者にとって有益なのかもしれませんが、他方、旧基準での貨幣鋳造は、貨幣を溶解することによって銀行にとって有益であり得るのです。そして後者の利益の方が大きいはずです。なぜなら、溶融による利益はわきに置いたとしても、銀行にとって貨幣の不足ほど有利なことはないからです。貨幣が不足すれば、人々は喜んで銀行券を手にするでしょう。それどころか、銀行、とりわけ信用の若い銀行にとって、新貨幣がたくさんあることほど不利なことはないでしょう。ですから、もし私が私的な利益を考慮するならば、私が主張することとは逆の意見になるはずです。

And therefore I hope I shall be believ’d, when I declare that I have no other design in writing this Dis­course, than the service of my Coun­trey; and I have the same Can­dor to believe it of those that have wrote for the contrary Opinion; and that Mr. Lock and I do in this agree, tho’ in our Arguments we differ. For I cannot believe that any Person, for his own private Interest, will argue [Page]for the Coining the Money by the Old Standard, when the Consequence of it, in my Opinion, will be so fatal to his Countrey; which will be no less than the want of the species of Mo­ney, a stop of Trade, and a general Complaint and Poverty all over the Nation.
 したがって、私がこの議論を書くことは、我が国のため以外の何ものでもないと断言しても信じていただけるだろうと期待いたします。また、反対の意見を書かれた方々と同じように、私もそう信じているのです。なぜなら、私利私欲のために、旧基準による貨幣の鋳造を主張する人がいるとは思えません。しかし私の考えでは、その帰結は自国にとって致命的なものであり、貨幣の需要に対する供給の不足、貿易停止、国中の不満と貧困にほかならないのです。

I have followed the same Method in answering Mr. Lock, as he has used in answering Mr. Lownds; which is, by laying down several Propositions contrary to Mr. Lock’s, and from thence to argue and shew wherein his are mistaken.
 私はここでロック氏に答える際、ロック氏がラウンズ氏に答える際に用いたのと同じ方法を取ります。つまり、ロック氏の命題に反するいくつかの命題を掲げ、そこから彼の命題が誤っている点を論証して明らかにしていく方法です。

I have chose rather to sum up the chief substance of his Arguments for the sake of Brevity, than to recite his sense in his own words. And if in any place I have mistaken his sense, I do beg his pardon, and do assure him that it was not wilfully, but for want of right understanding of it: For I have the same design as Mr. Lock, That Truth betwixt us might appear; and therefore shall use his own words, That I shall think my self oblig’d to him, or any one else, who shall shew me, or the Publick, any material mistake in any thing I have here said, whereon any part of the Question turns.
 彼自身の言葉で彼の感覚を語るよりも、簡潔さのために、彼の主張の主要な内容を要約することを私は選んだのです。ここでもし私が彼の感覚を見誤ったところがあるのならば、彼の許しを請い、それは故意ではなく、私がそれを正しく理解できなかったためであると断言いたします。私はロック氏と同じように、真実が私たちの間に現れることを望んでいるので、ここにロック氏自身の言葉を引きましょう。
「私がここで述べたことのうち、問題のどの部分であっても、私または公衆に重大な誤りを示す者がいれば、彼または他のいかなる者に対しても、私は自分の義務を負うと考える。」

The want of leisure from other Affairs, might very well have been pleaded for not writing in this De­bate: But if it may be allow’d me for an Excuse in not writing so well on this Subject as the weightiness of it might require, either in respect of the Stile, the Method of arguing, or the omission of several things to the clearing the Controversy, I shall not think my time ill spent, especially if any thing that I have wrote, may tend to the service of the Publick.
 私は他の用事で暇がないことを理由に、この討論に関する稿を書かないこともできました。しかし、もし私がこのテーマについて、その重要さが要求するほどにはうまく書けなかったことの言い訳として、このスタイルや議論の方法、あるいは論争を解決するためのいくつかの事柄の省略が許されるのであれば、私は自分の時間を無駄にしたとは思わないのです。

THE CONTENTS, OR, CHIEF SUBSTANCE of Mr. LOCK’s Book (ロック氏の本の内容、もしくは主たる主張)

  • THAT Silver is the Instrument and Measure of Commerce by its Intrinsick Value.
    銀は、その内在的な(intrinsick)価値によって商業の道具であり尺度になっているということ。
  • The Intrinsick Value of Silver is the Estimate which common consent hath placed on it.
    こうした銀の内在的価値は、一般的同意(common consent)がそれに置いているところの”見積もり”である。
  • Silver is the Measure of Commerce by its Quantity, which is also the Mea­sure of its Intrinsick Value. It is the Quantity of Silver men give, take, and contract for, that they Estimate the Value of other things by, and give and take in exchange for all other Commodities.
    銀が商業の尺度であり、また、内在的な価値の尺度であるのはその量によってである。人が他のものの価値を見積もり、他のすべての商品と交換に授受しているのは、銀の量であり、これによって人は授受し、契約するのである。
  • That Money differs from Uncoined Sil­ver only in this, That the Quantity of Silver in each Piece is ascertained by its stamp; which is set there to be a Publick Voucher for its Weight and Fineness.
    貨幣が未鋳造の銀と異なるのは、貨幣に含まれる銀の量がその刻印によって確認されること、つまり、その重量と精度を証明する公的な証票がそこに設定されていることのみである。
  • That the Par of Money is a certain num­ber of Pieces of the Coin of one Coun­trey, containing in them an equal Quan­tity of Silver to that in another num­ber of pieces of the Coin of another Countrey.
    貨幣の標準(Par)は、ある国の貨幣の一定の枚数が含む銀の量が、他の国の貨幣の別の枚数とが含む銀と同じであることにある。。
  • That plenty of Money in a Countrey is only made and preserved by the Bal­lance of Trade.
    一国の貨幣の豊富さは、貿易のバランスによってのみ作られ、維持されること。

From these Propositions Mr. Lock argues,
これらの議論から、ロック氏は以下のように論じています。

That it will be no Advantage to raise the Value of the Money, but a great Loss to all the Creditors and Landed Men of England.
貨幣の価値を上げることは利点ではなく、イングランドの債権者と土地持ちの人々全てにとって大きな損失である。

For Bullion or Uncoined Silver ha­ving an Intrinsick Value, can never rise nor fall: And money differing only from Silver in this, That the Stamp ascertains the weight and fineness of the Silver in the money, Silver can never be of a higher price than the money: For an equal Quantity of Silver will al­ways be of the same value to an equal Quantity of Silver.
なぜなら、地金や非鋳造銀には、その内在的な価値があり、それは決して上昇することも下落することもないからである。そして、貨幣が銀と異なるのは、刻印が貨幣の中の銀の重量と純度を保証していることだけで、銀が貨幣よりも高い値段になることはありえない。なぜなら、同じ量の銀は、常に同じ量の銀と同じ価値だからであると。

That if the value of the money be rais’d, the value of all Goods will rise accordingly. For Silver being the Mea­sure of Commerce by its Quantity; and it is the Quantity of Silver that men contract for in selling their Goods; if there be a less Quantity of Silver in a Crown-Piece, it will buy a less Quan­tity of Goods: Or if the Crown be rais’d to Six shillings, those Goods that us’d to be sold for a Crown will then cost Six shillings.
貨幣の価値が上がれば、すべての商品の価値もそれにつれて上がる。銀はその量によって商業の尺度であり、人が品物を売るときに契約するのは銀の量だからである。もしクラウン(訳註:当時の額面5シリングの銀貨)ひとつの中の銀の含有量が少なければ、買う品物の量も少なくなる。あるいは、クラウンが6シリングに引き上げられれば、1クラウンで売られていた品物の値段は6シリングになる。

That it will be the same in all Fo­reign Commodities and Foreign Ex­change: For the Foreign Exchange and Par of money being only from an equal Quantity of Silver in the diffe­rent Coins of the several Countries; if the money be made lighter, there must then be a greater number of pieces to make the Par, or Foreign Exchange by Foreign money equal, or else the Quantity of Silver will not be equal to that in the Foreign Coin: So that the Foreign Exchange and Price of all Fo­reign Goods will rise in proportion to what the value of the money is rais’d. That which cost Twenty pounds before, will cost five and twenty if the money be raised a fifth; because there will be no greater a Quantity of Silver in Five and twenty pounds, than there was in Twenty before the money was raised.
このことは、すべての外国商品および外国為替において同じであろう。なぜなら、外国為替と貨幣の標準(Par)は、外国貨幣に含まれる等しい量の銀から決まるからだ。貨幣を軽くすると、その標準と外国為替が等しくなるために、より多くの枚数が必要になり、さもなければ銀の量が外国貨幣の量と等しくならない。したがって、外国為替およびすべての外国産商品の価格は、貨幣の価値の上昇に比例して上昇することになる。20ポンドだったものは、貨幣が五分の一引き上げられたならば25ポンドになるだろう。

That the raising the value of the money will not prevent the carrying it away, because that depends upon the Ba­lance of Trade. For if there be more Foreign Goods bought of any Nation and Imported, than there are of the Na­tive Commodities Exported, the Balance must be paid in money, which will al­ways carry it out to pay the Debt till the Balance of that Nation be alter’d; which is, by Exporting more of the Native Commodities, and Importing less of the Foreign.
貨幣の価値を上げても、その持ち出しは防げない。なぜなら、それは貿易収支に依存するからだ。なぜなら、ある国から購入され輸入された外国製品が、輸出された自国製品よりも多い場合、その差額は貨幣で支払わなければならないからだ。その国の収支が変わるまで、貨幣は常に借金を支払うために持ち出される。つまり、自国産商品をより多く輸出し、外国産商品をより少なく輸入することである。

That there will be a great loss to all the Creditors and Landlords of England; for they letting their Land by the same rule which is by the Quantity of Silver in the money; if the money be made lighter by a fifth part, they will lose a fifth part by their Rent: They’ll re­ceive but Eighty pounds instead of an Hundred, because there will be no more Silver in an Hundred, than there was before in Eighty.
イングランドのすべての債権者と地主に大きな損失が生じるだろう。彼らは、貨幣の中の銀の量と同じルールで土地を貸している。貨幣が五分の一軽くなれば、彼らは家賃の五分の一を失うであろう。彼らは100ポンドではなく80ポンドを受け取ることになる。なぜなら、新しい100ポンドに含まれる銀の量は、これまで80ポンドであったのと同じだけでしかないからだ。

That there will be the same loss to the Creditors when they are paid their Bonds, Debts and Contracts; so that the raising of the money will put a very great Loss and Hardship upon Landlords and Cre­ditors, and bring no advantage to the Nation.
債権者の債券、負債、契約の支払いが行われる際にも同様の損失が発生する。したがって、今回貨幣を引き上げれば地主と債権者に大きな損失と苦難がもたらされ、国家に何の利益ももたらさないということになる。

The contrary Propositions in Answer to Mr. LOCK are these:
ロック氏の論に対応する反論は以下の通りです。

  • THAT there is no Intrinsick Va­lue in Silver, or any fixt or certain Estimate that common consent hath placed on it; but that it is a Com­modity, and riseth and falleth as other Commodities do.
    銀には本質的な価値はなく、また、一般的な同意による固定された、あるいは確実な見積もりもない。銀は商品であり、他の商品と同じように上がったり下がったりするものだということ。
  • That Money is the Instrument and Measure of Commerce, and not Sil­ver.
    貨幣が商業の道具であり尺度なのであって、銀ではないということ。
  • That it is the Instrument of Commerce from the Authority of that Govern­ment where it is Coined; and that by the Stamp and Size of each piece the value is known.
    貨幣はそれを造る政府の権威による商業の道具であり、各貨幣種の刻印と大きさによって価値がわかるのだということ。
  • That Money differs from Uncoined Silver in this, That the Authority of the Government gives a fixt and certain value to each piece of Money, which is generally beyond the value of the Silver in it.
    貨幣が未鋳造の銀と異なるのは、政府の権威が貨幣の各片に固定された一定の価値を与えていることであり、それは一般にそこに含まれる銀の価値を上回るということ。
  • That it is Money that men give, take and contract with for all other Com­modities, and by which they estimate the value of all other things; having regard more to the stamp and currancy of the Money, than to the quantity of fine Silver in each piece.
    人が他のすべての商品と授受し、契約するのは貨幣であり、それによって他のすべてのものの価値を見積もるということ。それぞれの断片に含まれる純銀の量よりも、刻印と流通が重視される。
  • That raising the Value of the Money, will not raise the Foreign Exchange, nor Foreign Commodities.
    貨幣の価値を上げても、それで外国為替や外国商品が上がることはないこと。
  • That if by the Balance of Trade in a Nation the Money is carried away, the only means to prevent it, is to raise the Value of the Money.
    ある国の貿易収支によって貨幣が持ち出される場合、それを防ぐ唯一の方法は貨幣の価値を上げることであるということ。
  • That it is the Practice of all the Go­vernments in Europe, to raise their Money from time to time, as the price of Silver rises.
    ヨーロッパのすべての政府は、銀の価格が上昇するにつれて、時折、貨幣を引き上げる慣行があること。
  • That the raising of the Money, will not raise the Value of any Commodities.
    貨幣の価値を引き上げても、商品の価値は上がらないということ。
  • That if the Money be rais’d a fifth, the Landlord will not lose any part of his Rent, nor the Creditor any part of his Debt or Contract.
    貨幣を五分の一だけ軽くしたとしても、家主は家賃の一部を失わず、債権者はその債務や契約の一部を失わないこと。
  • That if the Money be not rais’d, and kept above the price of Silver, it will be melted down, and carried away.
    もし貨幣の価値を引き上げず、銀の価格より高く保たないならば、それは溶かされ、持ち出されるだろうということ。
  • That the Consequence will be, That for want of Money, Commerce and Trade will be at a stand, the Price of the Native Commodities, and the Rents of the Lands will fall, and that it will cause a general Clamour and Poverty in the Nation.
    その結果、貨幣の不足のために、商業や貿易は立ち行かなくなり、在来商品の価格や土地の賃貸料は下落し、国民に大混乱と貧困をもたらすであろうということ。

To prove the Truth of these Pro­positions, it will be necessary to dis­course in general of these several things, viz.
これらの提案の真偽を証明するには、以下の事柄について一般的な説明をする必要がありましょう。

  • Of Riches, and the Value of Things.
    – 富と、物の価値について。
  • Of Money, and the Par of the seve­ral Coins.
    貨幣と、いくつかのコインの額面について。
  • Of the Balance of Trade, and Foreign Exchange.
    貿易収支と外国為替について。
  • Of raising the Value of Money, with the Causes of it, and the Effects.
    貨幣の価値を上げるということの理由と効果について。

 以上です。

〈1-7〉Der Tauschwert erscheint zunächst als das quantitative Verhältnis, die Proportion…

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〈1-7〉


Der Tauschwert erscheint zunächst als das quantitative Verhältnis, die Proportion, worin sich Gebrauchswerte einer Art gegen Gebrauchswerte anderer Art austauschen (6), ein Verhältnis, das beständig mit Zeit und Ort wechselt. Der Tauschwert scheint daher etwas Zufälliges und rein Rela- <51> tives, ein der Ware innerlicher, immanenter Tauschwert (valeur intrinsèque) also eine contradictio in adjecto (7). Betrachten wir die Sache näher.
(6) “Der Wert besteht in dem Tauschverhältnis, das zwischen einem Ding und einem anderen, zwischen der Menge eines Erzeugnisses und der eines anderen besteht.” (Le Trosne, “De l’Intérêt Social”, [in] “Physiocrates”, éd. Daire, Paris 1846, p. 889.) 
(7) “Nichts kann einen inneren Tauschwert haben” (N. Barbon, l.c.p. 6), oder wie Butler sagt:
“Der Wert eines Dings ist grade so viel, wie es einbringen wird.” 

交換価値は、まずもって量の関係、すなわち、ある「使用価値の一束」が別の「使用価値の一束」と交換される量的な関係、割合として現れる(六)。こうした量の関係は、時間や場所によって絶えず変化する。このため交換価値は、偶然的で純粋に相対的なものでありながら、商品の内的で内在的な価値(valeur intrinsèque)であるという形容矛盾(eine contradictio in adjecto)に見える(七)。この問題をもっと詳しく見てみよう。

*(六)“価値とは、あるモノと別のあるモノとの間に存在する交換関係、ある製品の量と別の製品の量との間に存在する交換関係で成り立っている。” (ル・トローヌ, “社会の利益”, [in] “Physiocrates”, éd. Daire, Paris 1846, p. 889.) 
*(七)“内なる交換価値を持つ物は存在しえない” (N. バーボン, 前掲書 6), もしくはバトラーがこう言ったように。”モノの価値は、それがもたらすものと同じだけである。” 

<1-7>の読解の前に、前回の <1-6>に登場した商品体(Warenkörper)という語についてノートを書きましたのでリンクしておきます。

では<1-7>ですが、悩んだ挙句 Gebrauchswerte を「交換価値の束」と訳しました。

交換価値は、まずもって量の関係、すなわち、ある「使用価値の一束」が別の「使用価値の一束」と交換される量的な関係、割合として現れる(六)。

先輩方の翻訳は、皆さん単に「使用価値」としておられるのですが、複数形の感じを出すべきだと思います。「使用価値の一束」としましたが「使用価値の集合」だと一束という感じが弱いと思い、一束に落ち着きました。

Gebrauchswert じゃなくて Gebrauchswerte 、最後に e が付いているから複数ということワンね。

ここの註六で引用されて入れ宇トローヌの文ですが、荒川さんによれば、トローヌの論説の、第1章第4節「価値の定義 Définition de la valeur」からの引用だそうです。

マルクスはそういう方法、つまり定義から語り始める方法のことをよく知っているにもかかわらずその方法を採りません。
定義は危険であるというヘーゲルのやりかたをマルクスが踏襲しているということは、そういうところからも読み取れます。

次の文行きます。

こうした量の関係は、時間や場所によって絶えず変化する。このため交換価値は、偶然的で純粋に相対的なものでありながら、商品の内的で内在的な価値(valeur intrinsèque)であるという形容矛盾(eine contradictio in adjecto)に見える(七)。

「内的で内在的な」と二回言っているという感じがしますね。
innerlich は英語のインナーという感じで「内側」でよいのですが、 immanenter は「そこに原因を持つ」という感じで、神学や哲学でよく出る言葉です。

神はこの世界に内在しているのか、それとも外在的な存在なのか、とか。

よく知ってるね!

さて、註七でまたバーボン。

*(七)“内なる交換価値を持つ物は存在しえない” (N. バーボン, 前掲書 6), もしくはバトラーがこう言ったように。”モノの価値は、それがもたらすものと同じだけである。” 

<1-5>でやりましたが、もう一度バーボンの当該箇所を引用します。

Value is only the Price of Things: That can never be certain, because it must be then at all times, and in all places, of the same Value; therefore nothing can have an In­trinsick Value.
価値とは、諸物の価格に過ぎない。価値は決して確かなものではあり得ない。もしそうなら、それはいつでもどこでも同一の価値になっていなければならない。従って、どんな物も内在的価値を持ってはいない。

バーボンの論と資本論の論理は、この辺でだいぶズレてきています。

この問題をもっと詳しく見てみよう。

となるわけワンね。

ということで、次回<1-8>

〈1-8〉
Eine gewisse Ware, ein Quarter Weizen z.B. tauscht, sich mit x Stiefelwichse oder mit y Seide oder mit z Gold usw., kurz mit andern Waren in den verschiedensten Proportionen. Mannigfache Tauschwerte also hat der Weizen statt eines einzigen. Aber da x Stiefelwichse, ebenso y Seide, ebenso z Gold usw. der Tauschwert von einem Quarter Weizen ist, müssen y Stiefelwichse, y Seide, z Gold usw. durch einander ersetzbare oder einander gleich große Tauschwerte sein. Es folgt daher erstens: Die gültigen Tauschwerte derselben Ware drücken ein Gleiches aus. Zweitens aber: Der Tauschwert kann überhaupt nur die Ausdrucksweise, die “Erscheinungsform” eines von ihm unterscheidbaren Gehalts sein.
 ある一つの商品は、たとえば1クォーターの小麦は、他の諸商品、xの靴墨や、yの絹や、zの金などと交換される。つまりさまざまに異なった比率で交換される。従って小麦は多重の交換価値を持つのであって、固有のそれを持つのではない。そしてxの靴墨、yの絹、zの金などなどは、みな1クォーターの小麦の交換価値なのだから、xの靴墨、yの絹、zの金などなどは、互いに置き換えることができる、もしくは互いに等しい大きさの交換価値でなければならない。従って以下のごとくである。第一に、同じ商品の妥当な交換価値たちは一つの同じものを表している。しかし第二に、およそ交換価値はただ、交換価値とは区別される一つの内実(Gehalt)の表現形式、「現象形態」としてあるだけである。

〈1-6〉 Die Nützlichkeit eines Dings macht es zum Gebrauchswert … 交換価値が登場!

本文リンク
〈1-6〉

Die Nützlichkeit eines Dings macht es zum Gebrauchswert (4). Aber diese Nützlichkeit schwebt nicht in der Luft. Durch die Eigenschaften des Warenkörpers bedingt, existiert sie nicht ohne denselben. Der Warenkörper selbst, wie Eisen, Weizen, Diamant usw., ist daher ein Gebrauchswert oder Gut. Dieser sein Charakter hängt nicht davon ab, ob die Aneignung seiner Gebrauchseigenschaften dem Menschen viel oder wenig Arbeit kostet. Bei Betrachtung der Gebrauchswerte wird stets ihre quantitative Bestimmtheit vorausgesetzt, wie Dutzend Uhren, Elle Leinwand, Tonne Eisen usw. Die Gebrauchswerte der Waren liefern das Material einer eignen Disziplin, der Warenkunde (5). Der Gebrauchswert verwirklicht sich nur im Gebrauch oder der Konsumtion. Gebrauchswerte bilden den stofflichen Inhalt des Reichtums, welches immer seine gesellschaftliche Form sei. In der von uns zu betrachtenden Gesellschaftsform bilden sie zugleich die stofflichen Träger des – Tauschwerts.
(4) “Der natürliche worth jedes Dinges besteht in seiner Eignung, die notwendigen Bedürfnisse zu befriedigen oder den Annehmlichkeiten des menschlichen Lebens zu dienen.” (John Locke, “Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest”, 1691, in “Works”, edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.) Im 17. Jahrhundert finden wir noch häufig bei englischen Schriftstellen “Worth” für Gebrauchswert und “Value” für Tauschwert, ganz im Geist einer Sprache, die es liebt, die unmittelbare Sache germanisch und die reflektierte Sache romanisch auszudrücken.
(5) In der bürgerlichen Gesellschaft herrscht die fictio juris, daß jeder Mensch als Warenkäufer eine enzyklopädische Warenkenntnis besitzt.

物体が使用価値になるのはその有用性によってである(四)。但しこの有用性は宙に浮かんでいるのではない。この有用性は、商品体(Warenkörper)の諸性質を前提としており、商品体なしには存在するものではない。それゆえ、鉄や小麦やダイヤモンドなどという商品体そのものが使用価値または財である。商品体のこのような性格は、その使用に資する諸性質の取得が人間に費やさせるところの労働の多少にはかかわりがない。使用価値を考察する際には、一ダースの時計とか一エレの亜麻布とカ一トンの鉄などのような、その量的な規定性が常に前提とされている。諸々の商品の諸々の使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する(五)。諸々の使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。諸々の使用価値は、富の社会的な形式がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。我々によって考察されねばならない社会形式においては、諸々の使用価値は同時に、素材的な担い手になっている。交換価値の担い手に。
*(四)「諸物の自然的な価値(natural worth)は、さまざまな欲望を満足させたり人間の生活に役立つなどの適性にある。」(ジョン・ロック, “利子引き下げがもたらす帰結についての諸考察(Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest)”, 1691, in “Works”, edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.)
17世紀になっても英語の文章にはしばしば、Worthを使用価値、Valueを交換価値として表している例がしばしば登場するが、これはまったく、直接的な事柄をゲルマン語で表現し、反射された事柄をローマ語で表現することを好む言語の精神によるものである。
*(五)ブルジョア社会では、商品の買い手であるすべての人が、商品に関する百科全書的な知識を持っているという法的擬制(fictio juris)が当然のこととなっている。

このパラグラフは一見散漫だけれども、最後、交換価値を提示してその特別さをアピールする箇所として読むと唸らされるものがあります。

三番目の文
商品体のこのような性格(使用価値に資する諸性質)は、その使用に資する諸性質の取得が人間に費やさせるところの労働の多少にはかかわりがない。
を取り上げると、交換価値と使用価値のはっきりしたコントラストが描かれています。

なるほどワン

これでないと価格も「長さ」や「おいしさ」のような諸性質に埋もれてしまう。
こんなふうに。

そうじゃなくて、こうだよ↓↓ ということを縷々語っているわけですね。

使用価値にかかわる有用性、つまり人間の欲望を満たす性質は、その商品体(Warenkörper)が手元に存在すれば発揮することができます。

an sich に存在しているワンね。。。

そうかあ、価格という性質だけは、確かに欲望を満たすと言えないこともないけれど(売れれば)、商品体がそこにあるかどうかとは全く関係がない…

そうそう、すばらしい!

やった\(^o^)/

使用価値の諸性質は an sich sein だけど、価格はハッキリそうではない。

そして、使用価値の方の話が続きます。

使用価値を考察する際は、一ダースの時計とか一エレの亜麻布とカ一トンの鉄などのような、その量的な規定性が常に前提とされている。

前回やった段落の話ワンね。
商品は「人間に役立つ諸性質(量・質・規定)の集まった一全体」。

よっしゃ、次の文行こう。

諸々の商品の諸々の使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する(五)
*(五)ブルジョア社会では、商品の買い手であるすべての人が、商品に関する百科全書的な(enzyklopädische)知識を持っているという法的擬制(fictio juris)が当然のこととなっている。」

商品学って何だろう

今回ちょっと調べてみたんだよね!

同志社大学で長年商品学の教鞭をとられた岩下正弘先生の論文を拝読しました。

岩下正弘「商品学の学史的考察」『同志社商学』第20巻第3・4号、1969年

これによると

彼(Lidovici)は「商品学(Warenkunde)」とは商品知識(Warenkenntniss)とも言い、商人学の第一部門を占め、商人が商品に関して知るべき諸事項を教える。」として商品学の構成の内容を … 次のように示している。

こういう学問があるんだ!

植民地貿易をはじめとした海外貿易が発展した時代は、特にこういうのが求められたのだろうね。

マルクスさんの注記も手厳しいワンね。

次行くね。

諸々の使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。諸々の使用価値は、富の社会的な形式がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。

これは使用価値だけの特徴であると。

交換価値はそうではない。
確かに「使用または消費」で実現するものではないワン。

我々によって考察されねばならない社会形式においては、諸々の使用価値は同時に、素材的な担い手(Träger )になっている。交換価値の担い手に。

最後の一言がかっこいい。
日本語だとちょっと間抜けなんだけど。

Tauschwert(交換価値)という言葉はタイトルも含めてここで初めて出てくるワンね。

そうそう。

次回はこちら。
いよいよバーボンの論にも矛先が向かいます。

〈1-7〉
Der Tauschwert erscheint zunächst als das quantitative Verhältnis, die Proportion, worin sich Gebrauchswerte einer Art gegen Gebrauchswerte anderer Art austauschen (6), ein Verhältnis, das beständig mit Zeit und Ort wechselt. Der Tauschwert scheint daher etwas Zufälliges und rein Rela- <51> tives, ein der Ware innerlicher, immanenter Tauschwert (valeur intrinsèque) also eine contradictio in adjecto (7). Betrachten wir die Sache näher.
(6) “Der Wert besteht in dem Tauschverhältnis, das zwischen einem Ding und einem anderen, zwischen der Menge eines Erzeugnisses und der eines anderen besteht.” (Le Trosne, “De l’Intérêt Social”, [in] “Physiocrates”, éd. Daire, Paris 1846, p. 889.) 
(7) “Nichts kann einen inneren Tauschwert haben” (N. Barbon, l.c.p. 6), oder wie Butler sagt:
“Der Wert eines Dings ist grade so viel, wie es einbringen wird.” 

交換価値は、まずもって量の関係、すなわち、ある種類の使用価値が別の種類の使用価値と交換される割合として現れる(六)のだが、この関係は時間や場所によって絶えず変化するものである。このため交換価値は、商品に内在する価値(valeur intrinsèque)でありつつ、偶然的であり純粋に相対的なものであるように見えるのだが、これは形容矛盾(eine contradictio in adjecto)である(七)。この問題をもっと詳しく見てみよう。
*(六)“価値とは、ある物と別のあるモノとの間に存在する交換関係、ある製品の量と別の製品の量との間に存在する交換関係で成り立っています。” (ル・トロスネ, “社会の関心”, [in] “Physiocrates”, éd. Daire, Paris 1846, p. 889.) 
*(七)“内なるな交換価値を持つ物は存在しえない” (N. バーボン, 前掲書 6), もしくはバトラーがこう言ったように。”モノの価値は、それがもたらすものと同じだけである。” 

〈1-5〉Jedes nützliche Ding, wie Eisen, Papier usw., ist…

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〈1-5〉

Jedes nützliche Ding, wie Eisen, Papier usw., ist unter doppeltem Gesichtspunkt zu betrachten, nach Qualität und Quantität. Jedes solches Ding ist ein Ganzes vieler Eigenschaften und kann daher nach verschiedenen Seiten nützlich sein. Diese verschiedenen Seiten und daher die mannigfachen[49] Gebrauchsweisen der Dinge zu entdecken ist geschichtliche Tat. (3) So die Findung gesellschaftlicher Maße für die Quantität der nützlichen Dinge. Die Verschiedenheit der Warenmaße entspringt teils aus der verschiedenen Natur der zu messenden Gegenstände, teils aus Konvention.

(3) “Dinge haben einen intrinsick vertue” (dies bei Barbon die spezifische Bezeichnung für Gebrauchswert), “der überall gleich ist, so wie der des Magnets, Eisen anzuziehen” (l.c.p. 6). Die Eigenschaft des Magnets, Eisen anzuziehn, wurde erst nützlich, sobald man vermittelst derselben die magnetische Polarität entdeckt hatte.

鉄や紙など、それぞれ有用な物体(Ding)は、二重の(doppelt)観点、つまり質と量との観点から考察される。こうした有用な物体はどれも、多くの性質がまとまった一全体(ein Ganze)であり、だからさまざまな方面に有用ということになる。これら物体のさまざまな方面の諸用途は、人類がその都度発見してきたものである(三)。有用物体の分量の社会的な公認尺度(Maß)もまたその都度決められてきたものである。商品の量を測る尺度にはさまざまなものがあるが、それは秤量される対象の本性(Natur)が多種多様であるためであり、あるいは慣習でそうなった部分もある。

*(三)「諸物は内的な効力(intrinsick vertue、これはバーボン特有の使用価値を意味する言葉である)を持っている。すなわち、どこにあっても同じ効力を持っている。たとえば磁石は鉄を引き付けるというように。」(同前、第六頁)
磁石が鉄を引きつけるという性質は、磁石によって磁極が発見されると同時に有用になったのである。

読み流されやすいですが、ここはすごいです。

ここは、我々が認識する外界の一対象( ein äußerer Gegenstand ) であるところの、「商品」という物体( Ding )の議論なのですが、カントはこうでした。

再掲 カント的認識の図

ふむふむ

これだと二元論に陥ってしまう、つまり、人間の理性は経験を超えることができないということになってしまう。
ということで、ヘーゲルはこうしたいんです。

ヘーゲルはこうしたい、の図

人間は世界の外部に立っているわけではないちゅうことワンかね

「鉄や紙など、それぞれ有用な物体(Ding)は、二重の(doppelt)観点、つまり質と量との観点から考察される。」

ここから行くと

鉄だったら、「重い」「硬い」「高温で溶ける」
紙だった、「薄い」「インクを固着させることができる」

こうした諸性質、つまり「質」が有用性に直結するわけだけれど、諸性質必ず「量」の側面からも思考されているんです。

というと?

うん。
どのくらい?という程度があるわけ。
「どのくらい重い?」「どのくらい硬い?」「どのくらいの高温で溶ける?」
「どのくらい薄い?」「どのくらいインクを固着する?」

これが「量」の側面。

そうか!

量と質と規定は三位一体で、どれかを欠くことはあり得ません。
たとえば重さが100kgだとすると、こう。

量、質、規定の三位一体

なるほど

でもこれ順番はどうでもいいの?
こんな風に。

三位一体の順番を変える

よい質問。
「kgという規定での重さは100である」
これは
「重さは100kgである」
と同じ意味でしょう?
三位一体は、三つの関係があればいいので、場所は交換可能なんです。

三位一体の三位一体!

三位一体の三位一体

さて、商品という有用なDing(物体)は、こうした三位一体の規定性(質・量)の集合であると考えられるということになりました。

うん

カントよりちょっと前のバークリーという哲学者は「物が存在することは、知覚されることだよね」「存在は知覚の集合だよね」みたいに考えたのだけど、そこからだいぶ進歩している。

そこからカント、ヘーゲルを経てマルクスに至るとこうなるかな。
「商品という存在は規定性(質と量)の集合だ」。

図にすると、こうだね。

商品は人間に役立つ諸性質(量・質・規定)の集まった一全体

おおお

ところでバーボンをちゃんと読む、も本当に始まったワンね。

こちらもよろしくお願いします!

人類より先に磁力はあったのか

註三は少し議論を呼びそうです。
人類が磁力を発見するまで「磁力」はあったのだろうか?

*(三)「諸物は内的な効力(intrinsick vertue、これはバーボン特有の使用価値を意味する言葉である)を持っている。すなわち、どこにあっても同じ効力を持っている。たとえば磁石は鉄を引き付けるというように。」(同前、第六頁)
磁石が鉄を引きつけるという性質は、磁石によって磁極が発見されると同時に有用になったのである。

あったにきまってるワン!

そうではない、とも受け取れるように書かれているよね。
ぼくの note 読んでくれたかな?
アダムとイブが堕落する前の楽園に尺度はないんだよ。

ふうむ

それはさておき、バーボンの原文を見ておきましょう。
マルクスが引用する直前の個所から。

Value is only the Price of Things: That can never be certain, because it must be then at all times, and in all places, of the same Value; therefore nothing can have an In­trinsick Value.
価値とは、諸物の価格に過ぎない。価値は決して確かなものではあり得ない。もしそうなら、それはいつでもどこでも同一の価値になっていなければならない。従って、どんな物も内在的価値を持ってはいない。

ふむふむ

宇宙の天体は内在的な力で動いているのか、それとも外部からの力で動いているのかどちらだろう?

いきなり!
んーどっちだろ。

ニュートンのプリンピキアが出版されたのが1687年で、このころそれが大評判だったんだよね。

万有引力の法則!

それは天体に限らず、すべての物質は内在的な力を持っているという考え方なわけだ。
これが当時は最新の科学だったわけでしょう?
バーボンの批判相手になるロックは、そんな感じで銀貨の内在的価値は金属としての銀の含有量にある、と考えたんじゃないかしら。
ロックのことだから、もちろんそれは common consent「共通の同意」としてなわけだけど。

ふうむ

バーボンに戻ると、バーボンは Value と Vature は違うからしっかり分けようぜという論を展開します。
Value を価値、Vatureは「良さ」と訳そうかな。
つまり Value は値段で変動するもの、Vature は固有のもの、的な。

But Things have an Intrinsick Vertue in themselves, which in all places have the same Vertue; as the Loadstone to attract Iron, and the several qualities that belong to Herbs, and Drugs, some Purgative, some Diuretical, &c. But these things, though they may have great Virtues, may be of small or no Value or Price, according to the place where they are plenty or scarce…
他方、諸物はそれ自身のうちに、あらゆる場所で同じ力を発揮する、内在的な良さ(Intrinsic Verture)を持っている。磁石が鉄を引きつけたり、あるいは香草や薬草が備えているいくつかの性質、つまり、あるものは瀉下薬、またあるものは利尿薬というように。しかし、これらの諸物が大きな良さを持っていても、それらが豊富にある場所にあるか、希少にしかない場所にあるかによって価値や価格が小さかったり、全く価値がないということがあり得る…

わかりやすい。
需要と供給、的な?

うーん

「需要は,社会的にいっても,商品の価値を形成するわけではない。」(宇野弘蔵『宇野弘蔵著作集 第四巻』岩波書店,67頁)

「需要は,いわば商品価値規定の消極的一面をなすのであり,価値尺度としての貨幣の機能は,かかる需要の発動の形態規定にほかならない。」(宇野弘蔵『宇野弘蔵著作集 第四巻』岩波書店,67頁)

ぎゃふん

ところでマルクスはここで「鉄」と「紙」を例示しているけれど、「紙」と「価値」に関するヘーゲルの文章を「法の哲学」から引用しておくね。
うーん、

ところでマルクスはここで「鉄」と「紙」を例示しているけれど、「紙」と「価値」に関するヘーゲルの文章を「法の哲学」から引用しておくね。

価値と所有、労働(ヘーゲルとロック)

「法の哲学」の「所有」の概念規定のところでそれは登場します。
強調はわたくし。

 ここでは質的なものは量的なものの形式のなかに消えてしまう。すなわち、私が必要ということを言うとき、これはきわめてさまざまな事物がそのもとにもたらされる標号( Titel)である。したがってこれらの事物の共通性が、そのばあい、私がそれらの事物を測りうるようにさせるわけである。それゆえここでは思想の進行は、物件の独特の質から、この規定されたあり方がどうでもよい状態、つまり量へ、である。  
 これと似たようなことは数学において起こる。たとえば私が、円とは何か、楕円とか抛物線とは何かを定義するならば、それらは種的に異なった状態であることがわかる。にもかかわらず、これらのいろいろ異なった曲線の区別はたんに量的に規定される。すなわち、もろもろの係数に、もっぱらただもろもろの経験的な大いさだけに関係するところの、量的な区別が問題になるだけだというふうに規定される。  
 所有においては、質的な規定されたあり方からあらわれてくる量的な規定されたあり方は価値である。ここでは質的なものは、量にたいして特定量を与えるのであって、質的なものとしては廃棄されると同様にまた保存される。  
 価値の概念を考察するならば、物件そのものはただ標識と見なされるだけであって、それ自身としてではなく、それが値いするところのものとして通用する。たとえば手形はその紙としての性質ないし自然をあらわすのではなくて、ある別の普遍的なものの、つまり価値の、標識にすぎない。  

『法の哲学ⅠⅡ(合本) (中公クラシックス)』ヘーゲル著

で、この直後に「貨幣」が登場。

 一つの物件の価値は、必要ないし欲求への関係においてきわめてさまざまでありうる。だがもし価値の独特なものをではなくて抽象的なものを表現しようとするなら、貨幣がこれである。貨幣はすべての事物を代表する。だが、貨幣は必要ないし欲求そのものをあらわすのではなくて、必要ないし欲求の標識でしかない以上、貨幣自身がまた、独特な価値によって支配される。この価値を、抽象的なものとしての貨幣はただ表現するだけである。

同上

次回やる次の節は、今度はバーボンの論敵ロックが引用されます。

そうなんだ

ロックもヘーゲルのように価値と所有の関係を論じていて、所有の根拠は労働であるという論理を展開しているのですよね。

ほうほう、いわゆる労働価値説?

ロックの所有論についてはそうですね、下のブログをご覧ください。

草食系院生さんまとめを読んでみて、労働が所有の根拠というのはなるほどと思いました。

うちの子どもたちが川へ出かけると、いつも石を持って帰ります。
石を石で割ったり、研いでみたり。
彼らにしたらそれが労働で、ただ拾うのも労働で、だから自分のものだというわけですね。

次回は〈1-6〉です。
お疲れさまー

〈1-6〉
Die Nützlichkeit eines Dings macht es zum Gebrauchswert (4). Aber diese Nützlichkeit schwebt nicht in der Luft. Durch die Eigenschaften des Warenkörpers bedingt, existiert sie nicht ohne denselben. Der Warenkörper selbst, wie Eisen, Weizen, Diamant usw., ist daher ein Gebrauchswert oder Gut. Dieser sein Charakter hängt nicht davon ab, ob die Aneignung seiner Gebrauchseigenschaften dem Menschen viel oder wenig Arbeit kostet. Bei Betrachtung der Gebrauchswerte wird stets ihre quantitative Bestimmtheit vorausgesetzt, wie Dutzend Uhren, Elle Leinwand, Tonne Eisen usw. Die Gebrauchswerte der Waren liefern das Material einer eignen Disziplin, der Warenkunde (5). Der Gebrauchswert verwirklicht sich nur im Gebrauch oder der Konsumtion. Gebrauchswerte bilden den stofflichen Inhalt des Reichtums, welches immer seine gesellschaftliche Form sei. In der von uns zu betrachtenden Gesellschaftsform bilden sie zugleich die stofflichen Träger des – Tauschwerts.

(4) “Der natürliche worth jedes Dinges besteht in seiner Eignung, die notwendigen Bedürfnisse zu befriedigen oder den Annehmlichkeiten des menschlichen Lebens zu dienen.” (John Locke, “Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest”, 1691, in “Works”, edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.) Im 17. Jahrhundert finden wir noch häufig bei englischen Schriftstellen “Worth” für Gebrauchswert und “Value” für Tauschwert, ganz im Geist einer Sprache, die es liebt, die unmittelbare Sache germanisch und die reflektierte Sache romanisch auszudrücken.
(5) In der bürgerlichen Gesellschaft herrscht die fictio juris, daß jeder Mensch als Warenkäufer eine enzyklopädische Warenkenntnis besitzt.

物体の有用性がその物を使用価値にする(四)。有用性は宙に浮かんでいるのではない。有用性は、商品体(Warenkörper)の諸性質を前提としているのだから、商品体なしには存在しない。だから、鉄や小麦やダイヤモンドなどという商品体そのものが使用価値または財(Gut)である。商品体のこの性格は、人間がどれだけ労働することによってその諸性質が獲得されたとはかかわりがない。使用価値を考察する際には、一ダースの時計とか一エレの亜麻布とカ一トンの鉄などのような、その量的な規定性が常に前提とされている。諸々の商品の諸々の使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する(五)。諸々の使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。諸々の使用価値は、富の社会的な形式がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。我々によって考察されねばならない社会形式においては、諸々の使用価値は同時に、素材的な担い手になっている。交換価値の担い手に。

*(四)「諸物の自然的な価値(natural worth)は、さまざまな欲望を満足させたり人間の生活に役立つなどの適性にある。」(ジョン・ロック, “利子引き下げがもたらす帰結についての諸考察(Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest)”, 1691, in “Works”, edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.)
17世紀になっても英語の文章にはしばしば、Worthを使用価値、Valueを交換価値として表している例がしばしば登場するが、これはまったく、直接的な事物をゲルマン語で表現し、反省された事物をローマ語で表現することを好む言語の精神によるものである。
*(五)ブルジョア社会では、商品の買い手であるすべての人が、商品に関する百科全書的な知識を持っているという法的擬制(fictio juris)が当然のこととなっている。

ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(1696年)の翻訳記 1

 note マガジン「資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る」で『「国定貨幣論」の本当の元祖、ニコラス・バーボンについて』という文章を書きました。

 そこでバーボンの “A discourse concerning coining the new money lighter in answer to Mr. Lock’s Considerations about raising the value of money” (『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究:ロック氏の貨幣の価値の引上げについての考察に答えて』)という、長いタイトルの小冊子を紹介し、その翻訳をしたいと書きました。

 いろいろ探しましたが原文はこちらが読みやすいと思います。

 さて、翻訳に関していくつか思うところがあります。ある程度の背景知識を前提にしないとまったく面白くないし、むしろ意味を取り違えるでしょう。それだとただ日本語に翻訳しても意味がない。

 だって「より軽い新貨幣の鋳造」ってどういうこと?

 その辺を確認しながら、まず序文(PREFACE)を読んでいこうと思うのですが、これはその第一回。

THIS Question, Whether it is for the Interest of England, at this time, to New-Coin their Clipt-Money, according to the Old Stan­dard both for Weight and Fineness, or to Coin it somewhat Lighter? has been, of late, the business of the Press, and the common subject of Debate.

翻訳
この問題は、イギリスの利益のために、今、すり減った硬貨(Clipt Money)を鋳造し直す際に、重量と精度の旧基準に従うのか、それとも幾分軽く鋳造するかということです。これは、ここ数年、報道されることが多く、よくある議論のテーマです。

 さて、いったいどのような大問題が?

 楊枝嗣朗の「ロック=ラウンズ論争再論―イマジナリー・マネーとしてのポンドの観点より―」という論文から少し引用します。

”盗削著しい銀貨の改鋳が最終的には,従来の鋳造価格で実施されることが決定されたのであるから,1696年末から1700年にかけて改鋳された510万ポンドもの銀貨が,造幣局から送り出されるや否や消え
去る運命にあったことは,以下の1696年の小冊子からも推測しうるように,当時の識者や実務家には常識であった。”

通貨問題の話

 英国の銀貨が、作っても作っても消失してしまい(海を渡ってフランスやオランダに渡ってしまい)英国の人々が日々の決済に困るという事態が起こっていたのです。

 と同時に、英国はフランスとの戦争(英仏第二次百年戦争)の戦費がかさんだことで大増税と、巨額の国債発行を余儀なくされていました。

 税を集めても、入ってくるのは質の悪い貨幣ばかり。

 この辺りの事情はトマス・レヴェンソン著「ニュートンと贋金づくり」というノンフィクションにも生き生きと描かれています。

 

 この本でレヴィンソンは、ヴィクトリア時代の歴史家マコーリー卿の報告をいくつか紹介しています。

危機が極限に達するころには、国庫に入る歳入一〇〇ポンドのうち、まともなシリング硬貨は一〇枚程度しかなかった--二〇〇〇枚に一枚の割合だ。マコーリー卿は「膨大な量が融解され、膨大な量が輸出され、膨大な量が貯め込まれたが、商品の現金箱にも農夫が家畜を売った代金を家に持ち帰る革袋にも、新しい硬貨はほとんどなかった」と書いている。

「わずか一年の間に劣悪なクラウンと劣悪なシリングによってもたらされた不幸は、四半世紀の間に劣悪な王、劣悪な大臣、劣悪な判事によってイングランドの国家が被ったあらゆる不幸に匹敵するのではないか」

「ホイッグとトーリーのどちらがよいか、プロテスタントとイエズス会のどちらが優っているかなどということはどうでもよく、牧畜業者は家畜を市場に運び込み、食料雑貨商はスグリの実を割り分け、服地屋はブロードを裁断し、買い手も売り手もそれまでと変わらずうるさく声を上げていた。」

「取引の主要は手段が完全に混乱してしまうと、すべての商売、すべての産業が打撃を受け、麻痺したようになった。害は日々常在し、あらゆる場所、あらゆる階層に及んでいた。」

通貨流出の理由

 さて、英国から銀通貨が流失した理由は明白です。

 それは、大陸にそれを銀地金として売れば、もっと高く売れたから。

 つまり、地金の銀を融解して製造された硬貨の額面価格が、大陸における銀の価格よりも安かったからに他なりません。削り取りが横行したのもこのためで、手に入った銀貨のふちを少し削って売ればちょっとした儲けにつながりました。

  バーボンのタイトルにある Coin it somewhat Lighter?、つまり「少し軽く鋳造してはどうか」という考えは、こうした状況に対応する一案として浮上したもので、硬貨に含まれる純銀の割合を減らせばいいのでは?という論理です。

 たとえば額面はそのままだけど、銀の含有量は少ないよ、という感じの。

ロックに挑戦するバーボンという構図

 さてバーボンの本ですが、次の三部構成になっています。

  • 序文
  • ロック氏の本の内容、もしくは主な主張
  • より軽い新貨幣の鋳造に関する論究 富、および諸事物の価値について

 このようにバーボンは、相手の主張を整理してから、それに反論を加えていくという形式を踏んでいるのです。

 だからまずはそこまでの部分を理解しないとつまらない。翻訳を序文から始めようと思ったのはそんな動機です。

 そしてロックとバーボンの論理を通じて、それを踏まえたマルクスの論理を深く理解していこうではありませんか。

 そんな風に思っています。

ついでに、MMTとこの時代

 最後に、別のエントリ(対話篇:だから貨幣の前に価格を見よ)でも触れたのですがMMTの新しい本(未翻訳)にこの時代に関する論考がありまして、ちょっとびっくりしたのです。

“Credit and the Exchequer since the Restoration”、王政復古以降の信用と財政というこの小論では、この時代の決済ぶりを別の角度から論じたもので、決済貨幣が不足したその時に、それゆえにこそタリー(信用と借用書のペアのようなもの)を用いた決済が急発達したさまが描かれています。

 ちなみに筆者のRichard Tye さんは参考文献としてこちらを挙げていたりします。

 いつの日かTyeさんの論文もご紹介したいのですが、まずはバーボンですよね(笑

 次回は序文は最後まで行ける、、、かな

対話篇:だから貨幣の前に価格を見よ

宮田惟史著『マルクスの経済理論』を読まずに語る

これどうだろうワンワン

どれどれ
6,600円!!
図書館入りを待つか

試し読みがある
https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/0248350.pdf

面白そう

こういうのは論文を纏めて一つにしたものだと思うから、論文を探してみよう。

論文
マルクス信用論の課題と展開-『資本論』第3部第5篇草稿に拠って

引用

なお,紙幅が許す範囲で敷衍すると,不換制下である現代では金からの直接の制約をはなれて貨幣供給が可能となる。そのため,銀行が信用を拡張し貨幣供給量を増加させることで,兌換制下に起きたようなパニック的恐慌を緩和させる力が飛躍的に拡大する。そこで一見,銀行は預金設定を通じ無制限的に貨幣供給を行うことができ,恐慌ないし不況も回避できるように見えてくる。だが,不換制といえども「不足資本」を補塡することには限度がある。そのようなことを無制限的に行えば大量の不良債権化をまねき,市中銀行であれば倒産に追い込まれうるし,また,中央銀行信用ですべての不良債権を買い取るようなことをすれば,中央銀行信用そのものが動揺しかねないためである。不換制下で不良債権の処理を迫られれば,最終的には国民の税金(公的資金)の投入が余儀なくされる。税金とは基本的には現実の再生産過程で労働が生み出した価値物にほかならない。銀行といえども信用「創造」によって「無から有を生む」,つまり社会的富=価値物をつくり出すことはできないのである。信用の膨張も最終的には現実の生産に限度をもつのである。こうして不換制下でもかたちを変えて価値法則が貫徹する。しかしもちろん,税金(価値物)で金融機関の不良債権を補塡したとしても恐慌から不況への突入を回避することはできない。なぜなら,すでに過剰な商品が存在するとともに,利潤率は急落し現実の再生産過程が停滞しているからである。また,税金の投入には財政的な限界もあるからである。不況からの脱却もまた,根本的には現実資本の利潤を回復させる現実的諸条件にかかっているのである。

完全にズレちゃってる

佐々木隆治や斎藤幸平もそうだと思うけど、こうしたズレを抱えているマルクス研究者の書いたものとして読むならばけっこう有益なんですよね。テキストに忠実であろうとするだけに。

でも、このズレ、資本論の出だしの解釈に胚胎しているように思える。
価格という度量衡の哲学。

金属本位制は、ある時代の風俗として必然的に存在しただけだよね。

岩波書店の紹介はこうあるワンね。

マルクスが紡いだ一つ一つの概念に光をあて、MEGAの新資料にもとづき『資本論』を丹念に読み解くことで、そのテキストがもつ今日的な可能性が見えてくる。

うん、その意気や良しで素晴らしいのだけれども、よほど注意しないと今度は概念と概念の間の連関を見失ってしまう危険を孕むよね。

本人がそうならないように注意しよう注意しようと心がけていたとしても。

「カテゴリー分析に光を当てる」その前に、カテゴリーを分析するとはどういうことなのかを哲学しておかないとだめなのだろう。
現代人はこれがめっちゃ弱いと思う。

こっちは?
<論 説>
マルクスの貨幣数量説批判

なんかそうだねよさげ。

以上のように、マルクスの貨幣数量説批判の決定的な意義は、貨幣の第 1 の機能を「購買手段」にではなく、「価値尺度」にあることを解明した点にある。

ん?ちょっと引っかかる。

このように、マルクスの貨幣論の独自性は、貨幣の最も抽象的な姿から、貨幣の諸契機の相互の関連をつかみ、また他の経済的諸範疇との全体系を把握したところにあった。貨幣数量説批判という視角からいうと、先にみた貨幣の契機のどれかひとつの理解を欠けば、それはつねに貨幣数量説へと結びつくのであり、それらの諸契機は相互に条件づけあい、有機的に関連づけあっているのだから、諸契機をもらすことなくトータルにつかむ必要があるのである。以上のように、貨幣の本質規定の分析の徹底こそが、貨幣数量説の克服の分岐点であったのである。

「貨幣数量説の克服」って…
でもまあOK

これにたいし、マルクスにもとづくと、そもそも流通する貨幣量―今日のマネーストック―は中央銀行がコントロールできるものではない。「発券銀行がその銀行券の流通量にたいして統制力をもっているという考えそのものが、まったく途方もないものなのであり」(MEW,Bd.9, S. 307)、「銀行は……〔貨幣の〕流通量にたいしてはなんの力ももっていない」(Ibid., S.307)のである。先に見たように、流通する貨幣量は、実現されるべき(販売される)商品の価格総額によって規定される。言いかえれば、それは現実の再生産過程における商品流通の必要に応じて決まるのである。「通貨の量が物価を決定しえないのは、それが商工業の取引量を決定しえないのと同じである。その反対に、物価〔および取引量〕が流通にある通貨の量を決定する」(Ibid., S.307)のである。したがって銀行制度を入れて考察すると、いくら中央銀行がハイパワードマネーを増加させたとしても、実体経済からの需要が起点としてなければ、それは現金準備として市中銀行に留まるだけであって、現実の再生産過程で流通することはないのである。

まあ、いいんじゃないの?
ホリゼンタリスト的な。

おっと注記が気になる。

たとえば、ある量の小麦の価格が 3 ポンドであろうが 1 ポンドであろうが、つまり価格が価値の大きさより過少ないし過大であったとしても、それが商品の価格であることにかわりはないのであり、いずれの場合も貨幣は価値尺度の機能をはたしているのである(MEW,Bd.23,S.116-117 を参照)。商品の価値量は変わらなくても、たえず変動する価格は、量的にどのように変化しようとも、質的にはその商品の価格なのである。要するに、貨幣の価値尺度機能とは、商品の価値の大きさを過不足なく測定することではなく、その大きさ如何を問わず、商品の価値を価格として表示する貨幣の機能・役割である。これが久留間((1979), 171- 190 頁 , 196-224 頁)がマルクスに即して明らかにした、いわゆる「価値尺度の質」である。この点を理解しなければ、販売と購買がくり返される過程で商品の価値の大きさは測られ、そのくり返しを通じてはじめて貨幣は価値尺度として機能するのだといった宇野(1974)のような誤謬が生まれる。

これ、よく読むとかなりだめだなあ

そうなの?

なんかいろいろ分かった気がする。

というと?

ちょうど今日、MMTについて変なことを言っている人がいたから、こんなコメントをしたんだよね。

モズラーに「MMTは貨幣の理論ですか?」と聞いたらノーというだろう。

むしろ「量よりも価格」、つまりMMTは一義的には価格や価値の理論なんだよね。

なるほど

貨幣という尺度(モノサシ)で商品の価値が測定されるのではなくて、商品が世界のすべてに対して貨幣の姿で現前するんだよね。

マルクスの表現はどうだったっけかな。

岩波文庫「経済学批判」76頁
”諸商品がそれらの交換価値を全面的に金で表現することによって、金は直接その交換価値をすべての商品で表現する。諸商品はたがいに交換価値の形態をあたえあうことによって、金に一般的等価物の形態、つまり貨幣の形態をあたえるのである。
 すべての商品がその交換価値を金で、一定量の金と一定量の商品とがひとしい労働時間をふくむような割合でもってはかるので、金は価値の尺度となる、しかも金は、さしあたり、ただ価値の尺度としてのこの規定によってのみ、一般等価物または貨幣となるのであって、価値の尺度としての金自身の価値は、直接に商品等価物の範囲全体ではかられるのである。他方、いまやすべての商品の交換価値は、金で自分を表現する。”

うん、こういうのは経済学批判ですね。
そのほかにも直接的に、貨幣がモノサシだと考えてしまう錯誤を批判しているところがあったように思うので備忘として。

前同84頁
”ある量の金を度量単位としてさだめ、そしてその可除部分をこの単位の補助単位としてさだめる必要は、あたかも、一定の、もちろん可変の価値をもった金量が、商品の交換価値にたいしてある固定した価値比例におかれるかのような考えを生みだしたが、この考えにおいては、金が価格の度量標準として発展するまえに、商品の交換価値がすでに価格、つまり金量に転化されていることがまったく見のがされていた。”

あとはスチュワート批判のあたりかな

前同98頁
”かれは、価値の尺度が価格の度量標準に転化することを理解していないので、自然にまた、度量単位として役立つ一定量の金は、尺度として、ほかの金量に関連するのではなくて、価値そのものに関連するものだと信じている。
かれは、価値の尺度が価格の度量標準に転化することを理解していないので、自然にまた、度量単位として役立つ一定量の金は、尺度として、ほかの金量に関連するのではなくて、価値そのものに関連するものだと信じている。”

前同83頁
”商品は、もはや労働時間によってはかられるべき交換価値としてではなく、金ではかられる同じよび名の大きさとして、たがいに関連しあうのであり、それによって、金は価値の尺度から価格の度量標準に転化する。こうしてさまざまな金量としての商品価格同志のあいだにおこなわれる比較は、つぎのような表現に、つまりある考えられた金量に記入され、これを可除部分の度量標準として表示する表現に、結晶するのである。価値の尺度としての金と、価格の度量標準としての金は、まったくちがった形態規定性をもつが、この一方を他方と混同することによって、ひどくばかばかしい理論がうみだされている。”

おお、これこれ

宮田のこれがおかしな話だというのが分かると思います。

”要するに、貨幣の価値尺度機能とは、商品の価値の大きさを過不足なく測定することではなく、その大きさ如何を問わず、商品の価値を価格として表示する貨幣の機能・役割である。これが久留間((1979), 171- 190 頁 , 196-224 頁)がマルクスに即して明らかにした、いわゆる「価値尺度の質」である。”

この宮田という人も佐々木と同じく久留間鮫造の影響を受けているね。

さっきも言ったけれど「貨幣の機能」という前に、貨幣に先立つ商品というカテゴリーの理解が浅いんじゃないかというか。

もし久留間がそう書いていたなら、マルクスに即してないよ。

貨幣はシンボルではない!

Das Geld ist nicht Symbol, so wenig wie das Dasein eines Gebrauchswerts als Ware Symbol ist.

ん?

「貨幣はシンボルではない。ちょうど、使用価値としての商品がシンボルではないように。」
もっとちゃんと訳せば
「貨幣はシンボルではない。商品を使用価値として見るときにそれをシンボルだと言わないが、それと同じ程度に貨幣はシンボルではない。」

かっこいいなあ

これは経済学批判からですか?

昨日岩波文庫のを借りましたが53ページですね。

見つけました。

「商品としての使用価値の定住が象徴でないように、貨幣も象徴ではない。」

「定在」、がなあ。

例によってトリニティで描いてみる。

「使用価値として存在する」とは、〇〇は栄養になる、〇〇はおいしい、〇〇は楽しい、という形で存在するということ。

an sich

ここ、高校英語で習うクジラ構文です。

A whale is no more a fish than a horse is (a fish).
クジラが魚ではないのは、馬が魚ではないのと同じ。

貨幣(貨幣形態の商品)がシンボルでないのは、使用価値としての商品がシンボルでないのと同じ。

飲んだり食べたり遊んだりするものをシンボルとは言わないワンね。

しつこいけれど、これが分かっていたらこういう言葉は絶対に出ないのですよね。

”要するに、貨幣の価値尺度機能とは、商品の価値の大きさを過不足なく測定することではなく、その大きさ如何を問わず、商品の価値を価格として表示する貨幣の機能・役割である。これが久留間((1979), 171- 190 頁 , 196-224 頁)がマルクスに即して明らかにした、いわゆる「価値尺度の質」である。”

なんでいけないんだっけ

価値や価格よりも「先に」貨幣を考えちゃう

あー

一番左の価値の尺度としての金と、左から3番目の度量標準としての金を混同しているのですね。

これ、とてもいいように思えます

(´▽`) ホッ

「マルクスなきマルクス経済学」

宮田の前書きから。

マルクスの遺産を最大限に汲み取り、それを現代の分析に生かしてゆくためになにが求められているのだろうか。一言でそれは、基本原則に立ち返り、マルクス本人の原文を徹底的に読み解き、かれの経済学の到達点を確定することである。その経済学を批判、発展させるためにも、その実像をつかむことが出発点をなす。この作業をおざなりにすると、誤解や偏見にもとづく「マルクスなきマルクス経済学」が独り歩きをしたり、無用な論争までもが生まれてしまう。

40歳くらいかな。
もっと頑張れって感じだ。

ところで、マルクスに思いもよらなかったのは、通貨が電子データになって瞬間的に移動するような時代がやってきたことでしょうね。一般的等価形態は、いまどの商品にも付着していないということになるでしょう。
しかし、それが存在しないということではない。

「販売と購買がくり返される過程で商品の価値の大きさは測られ、そのくり返しを通じてはじめて貨幣は価値尺度として機能するのだといった宇野(1974)」

宮田(久留間?)はそういうけれど、宇野のこれはいい線を行っている。

商品たちは交換のたびに価値尺度を更新しているのだけれど、このとき支配的な影響を与えているのが政府支出におけるプライシングなんですよ。

MMTとつながった!

17世紀英国のドラマ

17世紀における、英国の金貨や銀貨やその決済の歴史と議論はすごく示唆的です。同時代の大阪堂島米市場の歴史とかも。

あーそれでジョン・ロックとか読んでたわけね

これはすごく面白い。

資本論の冒頭で、ニコラス・バーボンとかジョン・ロックが引用されているけれど、すごく関係があるんよ。

今日この本が届いたのですけれど,バーボンを参考文献に挙げている論考が入っていることに気づきました。

そう聞いて、二章だけ一気読みしました

Richard Tye という人の、”Credit and the Exchequer since the Restoration” という論考で。

the Restoration ってなんだっけ。

それね!
英国の王政復古の時代。

ロックやニュートンが大活躍!

じゃあこんど詳しく

〈1-4〉Die Ware ist zunächst ein äußerer Gegenstand, …

本文リンク
〈1-4〉

Die Ware ist zunächst ein äußerer Gegenstand, ein Ding, das durch seine Eigenschaften menschliche -Bedürfnisse irgendeiner Art befriedigt. Die Natur dieser Bedürfnisse, ob sie z.B. dem Magen oder der Phantasie entspringen, ändert nichts an der Sache (2). Es handelt sich hier auch nicht darum, wie die Sache das menschliche Bedürfnis befriedigt, ob unmittelbar als Lebensmittel, d.h. als Gegenstand des Genusses, oder auf einem Umweg, als Produktionsmittel.
(2) Verlangen schließt Bedürfnis ein; es ist der Appetit des Geistes, und so natürlich wie Hunger für den Körper … die meisten (Dinge) haben ihren Wert daher, daß sie Bedürfnisse des Geistes befriedigen.” (Nicholas Barbo, “A Discourse on coining the new money lighter. In answer to Mr. Locke’s Considerations etc.”, London 1696, p. 2, 3.)

商品は、さしあたり外界の一対象(Gegenstand)であり、その性質(複数)によって人間の何らかの欲望を満たす物体(Ding)である。その欲望の本性(Natur)、つまりそれが胃袋から生じるものか、あるいは空想から生じるかは、ここでの分析には何ら影響するものではない(二)。また、その物体がどのようにして人類の欲望を満たすものであるか、つまり直接的に生活の手段(Mittel)、つまり享楽の対象としてなのか、もしくは間接的に生産の手段(Mittel)としてなのかの区別も、この分析には何ら影響しない。
*(二)『願望は欲望を含む。それは心の食欲であって、身体に於ける飢えのように自然的のものである。・・・・大多数は心の欲望を充たすことによって価値を受けるのである』ニコラス・バーボン著『新貨軽鋳論、ロック氏の貨幣価値引上論考に答う』ロンドン、一六九六年刊、第二及び三頁)。 

ここは語り始めると一生戻ってこれないのでほどほどにします。

みんな大好き
「商品は、さしあたり(zunächst)外界の一対象(Gegenstand)である。」

どうして
「さしあたり」なんだろうか
「商品は、さしあたり外界の一対象(Gegenstand)であり、」

大月書店のは、「まず第一に」ですね

at first
外界の一対象、ein äußerer Gegenstand であると。
「外界の」
external、outer
つまりこの時点で内と外を分ける境界線のようなものが含意されています。
https://note.com/nkms/n/na89ac0e3268a#8e92ddf5-790b-424a-bd5e-df4b435d99a7

点線で表現されてましたね

あとは、Gegenstand(対象)という言葉が出てくることから、カントやフィヒテやヘルダーやヘーゲルとかがやっていた話であることが感じられます。
続く「一つの物体(ein Ding)」で、もはや明らか。

認識論でしたっけ

彼らがやっていた哲学全般のうちの認識に関わる話ぽいなということがわかります。
この世界には意識やモノ(諸物)という要素があって、それらの関係を扱っていますよということです。
意識を担うものが「人」ですね。

なるほど

「その性質(複数)によって人間の何らかの欲望を満たす物体(Ding)である。」
なので、単に「商品」の話ではなく、諸人間と諸商品の関係の話であることが宣言されていることになります。
あとは、あえて「手段(Mittel)」と表記しましたが、「手段」も重要な基本語です。
「手段は推論の中間項である」

読み方はミッテルですか?

ミッテルで大丈夫

中間項というのはヘーゲルでしたか
媒介するもの?

意識とモノの関係において、モノが意識の欲望を満たすための「中間項」になるのがミッテルですね。

生活の手段(Mittel)生産の手段(Mittel)
便利過ぎる(笑)
こうするとイメージしやすいですね。

このイラストの初出はこちらワンね

これほんとおもしろい

「何を」イメージしやすいのですか?

ミッテルが中間項として人とモノを媒介しているイメージです

これはどうでしょう

これは、モノが中間項として人と手段を媒介してる?

こんな感じかしら

カント認識論の図

カントの認識論を図式化するとこう。

自己と対象との間に明確な境界があります

ヘーゲルは「そういうのやめよう」と訴えたとも言えます。
資本論もそのような、ヘーゲル的な立場に立っています。

以前に「観測問題」と一緒とおっしゃっていたのと関連があります?

そう言うこともできると思います。

ヘーゲルの認識論だと3つの要素が三つ巴状態で相互に関わりあっている感じがします。自己と対象も、何かを中間項にして関係しあっている。

まだ先行研究で消耗してるの? マルクス『資本論』覚書(4)

引用しちゃう

ここで「商品 Waare 」は〈手段 Mittel 〉として取り扱われている.「人間の何らかの種類の欲望を満足させる」ことがその目的である.この目的すなわち「人間的需要 menschliche Bedürfniss 」を満たす物は,肉体としての人間の外にある.
 商品という〈手段〉は、「直接的に unmittelbar 」は「生活手段 Lebensmittel 」として,間接的には「生産手段 Productionsmittel 」として用いられることが想定されている.ただし,ここでは直接的であるか間接的であるかはどうでもよいものとされている.

ここでバーボンの注が生きてきます。

(二)『願望は欲望を含む。それは心の食欲であって、身体に於ける飢えのように自然的のものである。・・・・大多数は心の欲望を充たすことによって価値を受けるのである』ニコラス・バーボン著『新貨軽鋳論、ロック氏の貨幣価値引上論考に答う』ロンドン、一六九六年刊、第二及び三頁)。 

ニコラス・バーボンの著作については、資本論を読むにあたってとても重要と思うので note の方でもこれから取り上げていきますね。

バーボンは心の欲望と身体の欲望を分類したけれど、資本論の分析においてはそれは「どうでもいい」。
バーボンの考えは、使用価値が交換価値の「原因」であるという感じですが、マルクスはむしろ弁証法的に、使用価値と交換価値の「疎遠さ」「関係のなさ」の方を強調していくことになります。

ここからしばらくマルクスは、バーボンの論理に対してバトルを挑んでいく感じになります。

次回の注3もそうワンか?

〈1-5〉
Jedes nützliche Ding, wie Eisen, Papier usw., ist unter doppeltem Gesichtspunkt zu betrachten, nach Qualität und Quantität. Jedes solches Ding ist ein Ganzes vieler Eigenschaften und kann daher nach verschiedenen Seiten nützlich sein. Diese verschiedenen Seiten und daher die mannigfachen[49] Gebrauchsweisen der Dinge zu entdecken ist geschichtliche Tat. (3) So die Findung gesellschaftlicher Maße für die Quantität der nützlichen Dinge. Die Verschiedenheit der Warenmaße entspringt teils aus der verschiedenen Natur der zu messenden Gegenstände, teils aus Konvention.

(3) “Dinge haben einen intrinsick vertue” (dies bei Barbon die spezifische Bezeichnung für Gebrauchswert), “der überall gleich ist, so wie der des Magnets, Eisen anzuziehen” (l.c.p. 6). Die Eigenschaft des Magnets, Eisen anzuziehn, wurde erst nützlich, sobald man vermittelst derselben die magnetische Polarität entdeckt hatte.

鉄や紙など、それぞれ有用な物体は、二重の(doppelt)観点、つまり質と量との両面から観察することができる。こうした有用な物体はどれも、多くの性質がまとまった一全体(ein Ganze)であり、だからさまざまな方面に有用ということになる。これら物体のさまざまな方面の諸用途は、人類がその都度発見してきたものである(三)。有用物体の分量の社会的な公認尺度(Maß)もまたその都度決められてきたものである。商品の量を測る尺度にはさまざまなものがあるが、それは秤量される対象の本性(Natur)が多種多様であるためであり、あるいは慣習でそうなった部分もある。

*(三)諸物は内的な効力(intrinsick vertue)を持っている。すなわち、どこにあっても同じ効力を持っている。たとえば磁石は鉄を引き付けるというように。」(同前、第六頁)
磁石が鉄を引きつけるという性質は、磁石によって磁極が発見されると同時に有用になったのである。

お楽しみにー

〈1-3〉Der Reichtum der Gesellschaften, ….

本文リンク
〈1-3〉

さあ、いよいよ始まります。
資本論の有名な出だし。

[49] Der Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine “ungeheure Warensammlung” (1), die einzelne Ware als seine Elementarform. Unsere Untersuchung beginnt daher mit der Analyse der Ware.
(1) Karl Marx, “Zur Kritik der Politischen Ökonomie”, Berlin 1859, pag. 3. <Siehe Band 13, S. 15>

資本制生産様式が支配的である社会(複数)では、富は『商品の膨大なる集積』(一)として現れ、個別の商品がその要素形態として表れている。だから我々の研究は商品の分析から始まる。
*(一)カール・マルクス『経済学批判』(べルリン、一八九五年刊、第四頁)。

形としては翻訳を引用して、それとは別に対話や解説?を入れていこうということワンね

うんそんな感じで。

早速、ここは「〇〇は××である」ではなく「××として現れる(erscheinen)」という言い方をしているのが目を引きます。

(画伯、Ding an sich じゃなかっけか)

(しまった)

Schein という、「現れ」「外観」というような意味の名詞があって、er- という接頭詞が付いた erscheinen「現れる」

Schein という語は資本論第一部全体で 26回出てくるそうです。

これは哲学を知っている人なら誰でもいきなりカントの純粋理性批判以降の哲学の諸議論を想起させられるところです。

人間はモノ Ding を直に「物自体(Ding an sich )」を認識するのではなくて、感覚のカテゴリーを通じて現れたものを認識しているというあの話。 

ややこしい

このことは、直後に続く文でますますはっきりして行きます。

Reichtum

Reichtum 豊かさ。リッチ(rich) と似てるワンね、字が。

マルクスは Reichtum (富、豊かさ)について別のところで次のように書いています。

„Wahrhaft reich eine Nation, wenn statt 12 Stunden 6 gearbeitet werden. Reichtum ist nicht Kommando von Surplusarbeitszeit“ (realer Reichtum)_sondern verfügbare Zeit außer der in der unmittelbaren Produktion gebrauchten für jedes Individuum und die ganze Gesellschaft.“
(12時間働くより6時間働く状態の方が、その国は真に豊かだ。各個人や社会全体にとって、富とは命令される「余剰労働時間」(実質的な富)ではなく、即時の生産に使われる時間とは別に利用可能な時間のことである。)

ある無名のパンフで「富とは剰余労働時間ではなくて、直接的生産に使用された時間以外の、すべての個人と社会全体にとっての自由に処分できる時間である。」に表現があったそうで、これを激賞してたりするのです。

つまり冒頭のこの Reichtum は絶対的概念ではなく、ある限定された状態での現れというニュアンスが出ているわけです。 

つまり「資本制生産様式が支配的である社会」ではない社会においては、富が「商品の集積」として現れるとは限らない。

二つ指摘しておきましょう。
たとえばアダムスミスの「国富論」のような、結果的に商品の集積を富と把握する「ものの見方」が相対化されています。リカードでもまたそうですし、もし現代のわたしたちがGDPが富の増大だと考えるとしたら、そうした考えが批判・吟味されることになるわけです。

富という本質があって、それはなんなのか掴むのは難しいのだけど、無限に分岐した可能性としての社会を吟味してみると、それぞれ違った概念としての富が現れるようなイメージ…?

ただそう言うと「本質」って何?となるか。
言葉が表す内容は社会的な文脈に依存しているということを表しているように思います。

なるほど
その社会に生きる人達が何に価値をおくのか、というか。
商品の集積を富とみなす社会はなんか分かるというか、直感的にわかりやすいです。
GDPは私達はなんで増えると成長したとか、良いことだと思ってるのだろうか。

もしも「全商品」またはその増加が豊かさなら、その多くは金持ち階級に所有されているものですよね。
第二十二章のリカードら「ブルジョワ経済学者」批判では、彼ら経済学者がナチュラルにそうしたものを「豊かさ」と見ていることが批判されます。

そうなんですね
ブルジョワ経済学者と一緒だった…orz

Gesellschaft

ゲゼルシャフト(社会)は複数形で登場しています。

この単語はゲゼル – シャフト (Gesell – schaft) と分解できる。

シャフトの方から説明すると、フレンドという意味の Freund にシャフトが付くとFreund – schaft は「友情」。
知識という意味の Wissen にシャフトがつく Wissen-schaft は「学問、科学」つまり「知の体系」。
というようにシャフトは多くのものの集合を表す感じです。

ゲゼルは?

Geselleで「職人」。
ドイツのギルドの職人は徒弟制度だったわけだけど、国全体でみると親方-職人の集合が無数にあって「社会」という感じなのかな。

ゲマインシャフトというのを聞いたことがあるんですが、これは?

ええと、このサイトの説明でどうかな↓

GemeinschaftとGesellschaftの日本語訳についての補足
(日本マックス・ヴェーバー研究ポータル)

ゲマインは「普通の」、「平均的な」という感じなのだけど、全体を職業という観点ではなく、地縁や血縁のまとまりという感じの「社会」かな。

マルクスは「共同体」という感じでゲマインシャフトを、「生産が組織化された社会」というニュアンスでゲゼルシャフトというように使い分けます。

資本と労働が分離したら、もうゲゼルシャフト。

以降、この単語がどのように出てくるかどうか気にしておきましょう。

ここは「資本制生産様式が支配的なソレ…」だからゲゼルシャフトなわけワンね。

さらに詳しく↓
 「Gesellschaft と Gemeinschaft, そしてWesen

Element

あとは Elementarform、エレメントについて少しだけ触れておきましょう。
すでに小タイトルで出た Factor と Element のニュアンスの違いというか。

荒川さんのページ
まだ先行研究で消耗してるの? マルクス『資本論』覚書(3)
われわれと似たことをなさっていますねえ。

エレメントについて入江と内田の論考を紹介なさっています。
まず、荒川さんによる入江論の紹介。


 「一つ一つの商品」が社会的富の「基本形式 Elementarform 」として現象するという場合,それを〈エレメント〉の側面と〈形式〉の側面から考察することができる.入江幸男(1953-)は〈エレメント〉を次のように説明している.

「エレメント(Element)といえば,哲学史上では,ひとは直ぐに,ギリシャ哲学の四大エレメント(地・水・風・火)を想起する.この場合,エレメントとは,元素(Urstoff)の意味である.一般には,この元素の意味からの転義で,構成要素(Bestandteil)の意味で使われることが多いと思う.エレメントには,これらの周知の意味の他に,本来の乃至固有の活動領域という意味がある.この意味のエレメントの説明でよく例に挙げられるのは,魚のエレメントは水である,鳥のエレメントは空気である等,また悪例を挙げるならば,女のエレメントは家庭であるというものもある.」
入江1980:69)

 ここで入江は〈エレメント〉の意味を二つ挙げている.ひとつは「構成要素」という意味での〈エレメント〉であり,もうひとつは「固有の活動領域」という意味での〈エレメント〉である.
 マルクスが「一つ一つの商品」が「基本形式」として現象すると述べた際のElementarの意味はどちらの意味であろうか.これは一見すると,「構成要素」の意味で用いられているように思われる.しかしながら,もし「固有の活動領域」という意味で用いられていたらどうだろうか.もし「一つ一つの商品」が何らかの「活動領域」の形式として現象するものだとしたら,「一つ一つの商品」という〈エレメント〉で活動しているのは一体何なのだろうか.
 そして「一つ一つの商品」がエレメントの〈形式〉として現象するならば,同時にその「内容 Inhalt 」や「実質 Materie 」の側面に注意が払われるべきであろう.

次に内田論を紹介なさいます。

 内田弘(1939-)は,上の「エレメント」を「構成要素」の意味で理解している.さらに内田は〈要素〉に対するものは「巨大な商品の〈集合〉」だと述べている.つまり内田は,マルクスの用いるElementやSammlungを数学上の概念として理解するのである.

「名詞「Warensammlung」は「商品《集積》」と訳して,正確に理解できるのだろうか.その語彙のすぐあとに,「個々の商品はその富の要素形態(Elementarform)として現れる」とある.「要素」に対しては,「集積」でなくて「集合」であろう.資本主義的生産様式が支配する社会では,ほとんどの富は商品形態をとる.商品は「集合」であり,かつその「要素」である,とマルクスは言明しているのである(ちなみに『経済学批判』では「集合」にAggregatを当てている.この語法はカントにならっている).」
内田2011

数学上の概念としての「集合」はドイツ語でMengeという.Sammlung にせよAggregatにせよ,それらを数学上の概念として解釈するのはただのこじ付けではないだろうか.

いやいや
こじつけじゃなくて、内田の言っていることもぼくは真実だと思います。当時の数学の集合論は現代のそれの形にはなっていないとは言え。

だってこうです。

おおー

さて、前回ぼくはファクターについて
「それを欠いたら「全体」ではなくなってしまう何かです」
と説明しましたが、エレメントは全体(集合)を構成する粒子、それ以上分割したら「それ」ではなくなってしまう、個々の基本単位という感じがあります。
内田が「数学上の概念として理解」しているかというと必ずしもそうではなくて、物理学的、天文学的、哲学的な原子論として読み解いていて、そこは自分も同調できます。

さて、あとは 注(一)カール・マルクス『経済学批判』を少しだけ見ておくと。
そこではこうなっていました。

Auf den ersten Blick erscheint der bürgerliche Reichtum als eine ungeheure Warensammlung, die einzelne Ware als sein elementarisches Dasein. Jede Ware aber stellt sich dar unter dem doppelten Gesichtspunkt von Gebrauchswert und Tauschwert.
一見したところ、ブルジョア的富は商品の膨大なる集積として現れ、個別の商品がその要素的定在として表れている。それぞれの商品は、使用価値と交換価値という二重の観点から自らを示している。

資本論よりも「硬い」感じの表現です。Dasein (ダーザイン)とか。
あと、使用価値と交換価値の対比になってる。

図にすると、こう。

まだヘーゲル式の三元論が完成されてない?
資本論はこうでしたよね、

いやむしろ三元論そのものになっています。

論理の骨格としては資本論とほとんど同じことをやっていると思うけれど、年月を経て表現が円熟したなーという感じ。

なるほど

このパラグラフはこの辺で。

次回はこちら。

〈1-4〉
Die Ware ist zunächst ein äußerer Gegenstand, ein Ding, das durch seine Eigenschaften menschliche -Bedürfnisse irgendeiner Art befriedigt. Die Natur dieser Bedürfnisse, ob sie z.B. dem Magen oder der Phantasie entspringen, ändert nichts an der Sache (2). Es handelt sich hier auch nicht darum, wie die Sache das menschliche Bedürfnis befriedigt, ob unmittelbar als Lebensmittel, d.h. als Gegenstand des Genusses, oder auf einem Umweg, als Produktionsmittel.
(2) Verlangen schließt Bedürfnis ein; es ist der Appetit des Geistes, und so natürlich wie Hunger für den Körper … die meisten (Dinge) haben ihren Wert daher, daß sie Bedürfnisse des Geistes befriedigen.” (Nicholas Barbon, “A Discourse on coining the new money lighter. In answer to Mr. Locke’s Considerations etc.”, London 1696, p. 2, 3.)

商品はまずもって外界の一対象(Gegenstand)であり、その諸性質によって人類の何らかの種類の欲望を満たす物体(Ding)である。この欲望の本性(Natur)、つまりそれが胃袋から生じるものか、あるいは空想から生じるかは、ここでの分析に何等影響するものではない(二)。また、その物体がどのようにして人類の欲望を満たすものであるか、つまり直接的に生活の手段(Mittel)つまり享楽の対象としてであっても、もしくは間接的に生産の手段(Mittel)としてであっても、その違いはここの分析には影響しない。
*(二)『願望は欲望を含む。それは心の食欲であって、餓の身体に於ける如く自然的のものである。・・・・大多数は心の欲望を充たすことによって価値を受けるのである』ニコラス・バーボン著『新貨軽鋳論、ロック氏の貨幣価値引上論考に答う』ロンドン、一六九六年刊、第二及び三頁)。 

コラム:「定義」と弁証法

前回のエントリにこんな感想をいただきました!

おお

自分も整理しました

マルクスは交換価値を定義せず、使用価値ではないナニカとすることで、商品の価値を全て網羅したんですね
一方、使用価値ではないナニカは、質と量という互いに直交する概念で全て網羅することができる
全てを網羅する方法は、少なくとも2種類の方法があることがここからわかります

もし交換価値を定義していたら、使用価値ではないナニカを全て網羅できず、抜け落ちるものが出てきます
何でもかんでも定義するやり方が良くないのはこの点なのですね

ただし、絶対に定義は良くないことを意味しているわけではない
使用価値は定義したものであって良い

つまり、いちど定義したならば、その定義に当てはまらないもの全体を考えなければ、全て網羅したことにならないという訳ですね

おお、ぼくの説明は成功していたようですね\(^o^)/

ここら辺は自信なかったんですけど大丈夫ですか?

「ただし、絶対に定義は良くないことを意味しているわけではない
使用価値は定義したものであって良い」

たとえば犬を定義するってよくわからないです

内包的でも外延的でも

「犬を定義する」とは考えたこともありませんでした。
どうすればいいんですか?

内包的なら共通の性質を示す、外延的なら列挙(ハスキー、芝犬、etc)

内包Intension)はある概念がもつ共通な性質のことを指し、外延extension)は具体的にどんなものがあるかを指すものである。これらは互いに対義語の関係をもつ。

Wikipedia 内包と外延

おっしゃりたいことがわかってきました。

ぼくにはこういうことと思われます。

「内包(intension)的な定義」と「外延(extension)的な定義」のイメージ

「定義」というのは、この図の四角い枠線を引く行為のことのように思われます。

犬と、犬以外のものの間に線を引くということ言いたいわけワンね。

うん、ぼくのイメージで言うと弁証法的な思考はこんな感じ。

どのような場合に「犬ではない」のかを同時に考えつつ、あいまいな境界を決めていくとか、決まっていくという感じ?

だから内包的定義、外延的定義はどんどんやってくれてかまわない。
但し、カテゴリーは発展していくのです。

んーと?

このように書くこともできるでしょう。
内包も外延も、境界を決めていく運動だよね、みたいな。

なるほどねえ

T字表記は実に便利!

弁証法の論理は、定義から出発する推論の連鎖じゃないんです。三位一体の運動が展開し発展していく感じです。

よくマルクスの言葉は定義がなくてだんだん意味が変わる!と文句を言う人がいますが変わらない方がおかしいんですよ(笑